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《続・「真説古代史」拾遺篇》(106)



「倭人伝」中の倭語の読み方(49)
「21国」の比定:(17)対蘇国


 「蘇」を国名に用いている国が三国ある。「蘇の三国」と呼ぶことにする。

 「蘇の三国」には何らかの繋がりがあると考えるのが当然だと思うが諸大家たちはどう扱っているだろうか。まず、「対蘇」の訓みについて、水原氏の解説を読んでおこう。

『「対」は音「ツイ」「タイ」。「こたへ」「むくいる」「ならべる」「あたる」「あわす」「むかう」「つい」の義がある。「蘇」は音「ソ」「ス」。「よみがえる」「いこう」「くさ」「緑色の染料とする熱帯の木の名」の義がある。この国名も音の転写で、「ツソ」「トソ」と訓める。』

 『諸橋大辞典』で確認したが、「蘇」に「ス」音はなかった。「木の名」の意味の場合には「漢音ショ・呉音ソ」となっているが、その他の意味の場合は漢音・呉音の別はなく、「ソ」である。「蘇」の音は「ソ」以外はあり得ない。これと「対」の音を組み合わせると、「ツイソ」か「タイソ」となる。これがどうして「ツソ」「トソ」になるのか。「対馬 ツシマ」の例があるから、「ツイソ」→「ツソ」はいいとして、「トソ」という訓みがどうして可能なのか、私にはさっぱり分らない。「対馬」に倣えば、「ツソ」か「タソ」であろう。

 次の牧氏の説に出会って納得した。類音地名探しの手法だったのだ。類音地名「鳥栖」から出てきた訓みだったのだ。たぶん、「ソ」→「ソ」あるいは「ソ」→「ソ」という通音による変化があったという論理なのだろう。そしてさらに「ト」→「ト」という通音変化を適用して「鳥栖(トス)」にたどり着いた。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二
 「トソ」と訓む。
 肥前国養父郡鳥栖(とす)郷に比定する。
宮﨑康平
 「ツルソ」と訓んでいる。
 阿蘇外輪山の南部から高千穂峡にかけて、祖母山以西にひろがる盆地や高原地帯にわたる地域で、肥後国益城郡の一部、日向国臼杵郡西部一帯で、熊本県上益城郡緑川上流一帯と、阿蘇郡東南部の蘇陽町附近から、宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町・高千穂町にわたる地域と比定する。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎・米倉二郎
 土佐に比定している。

 内藤・米倉説は、たぶん、牧氏と同じような音韻変化考えて土佐に比定したのだろう。

 水野氏は宮﨑説の訓みを「ツルソ」としている。こんな変な訓み、あり得るのだろうか。直接『まぼろしの邪馬台国』に当ってみた。水野氏も結構いい加減だなあ。宮﨑氏は「タィソ」(漢音)と「ツィソ」(呉音)を挙げている。氏は「倭人伝は「漢音」と信じているから「タィソ」と訓だことになる。その比定地は、一つ前の「姐奴国」を肥後国益城郡に比定しているので、その近隣地を比定することになる。地図で確認したが、「邪馬壹国」を凌駕するような相当広い領域になる。

楠原説
『[対蘇](たいそ)―佐賀県鳥栖(とす)市付近』
という表題を掲げている。牧氏と同じ比定地だ。しかし、「タイソ」から「トス」に至る論理は牧氏とは異なる。「ト(鋭)・ス(州)という国名」という副題をつけて、次のように述べている。

 この国名について、長田夏樹「洛陽古音」は(発音記号・略す)で、トサと音訳する。漢字「蘇」は日本流の呉音ではスの音があり、あるいは三国時代の中国の南方ではスに近い発音であったのかもしれない。

 国郡制で南海道に属した一国の土佐国も同義の地名だろうが、語源から考えれば「倭人伝」の「対蘇国」はト(鋭)・ス(州)以外ではありえない、と思う。

 水野氏が挙げていた「ス」を楠原氏も取り上げている。しかも呉音だという。「蘇」は呉音では「ス」と主張する辞書もあるのだろうか。それが正しいとしても、「洛陽古音」から「ト」を採用し、呉音の「ス」と結合している。ご都合主義と言わざるを得ない。

 比定地の当否は別として、氏による「鳥栖」についての記述はいろいろと参考になるので、読んでおくことにする。

 『肥前国風土記』は養父(やぶ)郡鳥樔(とす)郷の項は、
「応神天皇の御世に鳥屋(とや)をつくって飼育し朝廷に貢いだので鳥屋の郷といったのが、のち鳥樔郷に改めた」云々
の郡名起源説を載せる。だが、それなら「鳥飼(とりかい)」郷になるはずで、借用した漢字にもとづいて解説した説話にすぎない。

 現・鳥栖市の市街地は背振(せふり)山地の九千部(くせんぶ)山塊から流れ出る安良(あら)川・大木(おおき)川・山下(やました)川がつくる複合扇状地上に広がる。砂礫層からなる扇状地の扇端が浸食され、鋭角状に尖がって下の沖積平野(平均標高約10m)にのぞむ。このような地形を、弥生期の人々はト(鋭・尖)・ス(州)と呼んだのであろう。

 扇状地の末端は湧水にもめぐまれ、前面の沖積地とは異なり年ごとの洪水の危険も少なく、絶好の居住地である。高校の地理教科で地形と土地利用と居住環境の関係を教える格好の舞台が扇状地で、センタ一試験の地理にも数年に一度は必ず扇状地の読図問題が出されている。

定説を覆した銅鐸鋳型の発掘

 鳥栖市域は縄文~古墳時代にかけての古代遺跡の密集地である。とくに複合扇状地北方の高位段丘上に点在する柚比(ゆび)遣跡群は弥生~古墳時代の複合遺跡で、100基を越す甕棺(かめかん 管理人注:私(たち)は「みかかん」と訓んでいる)墓・土壙(どこう)墓群や銅剣・銅戈などが発掘されている。

 その一つ安永田(やすながた)遺跡からは昭和56年、銅鐸鋳型・鋼矛鋳型が発見され、それまでの「畿内中心の銅鐸文化圏」という考古学界の定説を覆す大発見として注目を集めた。市内各地の遺跡からは弥生期の住居址も多数発見されている。

 安永田遺跡からの銅鐸鋳型出土以来、「銅鉾・銅鐸圏」説を口にしなくなった学者がかなりいるらしい。ウィキペディアは
「この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。」
と書いている。この「銅鉾・銅鐸圏」説否定は実に短絡的な判断だと思う。銅鐸が朝鮮半島から伝播したものなら、当然九州にもその形跡が残っているだろう。私の理解ではこの「銅鉾・銅鐸圏」説は祭祀のあり方の違いによるものであり、楽器としての銅鐸が九州に出土してもあやしむに足りない。銅鐸圏に武器としての銅剣・銅鉾・銅戈などが出土しても同じである。

 丁度いま図書館から借りてきている本・小田富士雄著『倭国を掘る』を見ると、九州から出土した銅鐸・銅鐸鋳型(1960年~1985年)が10例挙げられている。うち2例は外縁付鈕銅鐸の鋳型で推高20㎝、1例は銅舌で長5.4㎝。他は全高6~12㎝の小銅鐸だという。楽器として用いられた銅鐸だと推定できる。

古田説
 古田氏は「蘇」を「阿蘇」の「蘇」と解し、「蘇の三国」を阿蘇山付近に比定している。私は「蘇の三国」の比定については古田説を支持する。まず、阿蘇山の意義についての論述を読んでおこう。

 この「阿蘇山」という表記、そして「発音」は古い。『東日流〔内・外〕三郡誌』によれば、シベリアの黒龍江方面から、最初に樺太、北海道、青森へと南下してきた部族、それが「阿蘇部族」だった。旧石器の時代である。「ア(阿)」は接頭語、「ソ(蘇)」は「神の古名」である。対馬の「アソウ(浅茅)湾」も、京都の「アソウ(阿蘇)湾」(明治維新まで。舞鶴湾の古称。現在も一部に使用)も、同じ「ソ(蘇)」だ。もちろん「キソ(木曾)」(長野県)の「ソ」も、同じ語法である。

 してみれば、今まで何回も論じてきた「山嶽地名」中の筆頭、右代表の位置にあるもの、これが他でもない、この「蘇」の一字だったのではあるまいか(「久曽神(きゅうそじん)」という姓が現存している。「クソガミ」の音読みであろう。「ク」は〝奇し″である)。

 「クソガミ」については「崇神の狗奴国攻め(3)」で取り上げている。古田氏は次のように解説していた。
『「くそ」は〝不可思議な、古き神″だ。「奇(く)し」の「く」。「そ」は「阿蘇」「木曾」の「そ」。もっとも古い「神の呼び名」の一つである。』

 さて、「対蘇国」については「対蘇」を「タイソ」と訓じ、表意表記と考えている。そして、比定地については次のように述べている。

 中心点が阿蘇山であることは疑いないけれど、その阿蘇山に対する国というのは、阿蘇山の〝東西南北″いずれから「対して」いるのかが、問題だ。

 もっともすでに「対海国」のとき論じたように、「対」というのは、決して〝現代風に(地理的に)相対する″という意味ではない。「その地の神を祭る」というのが本来の意味だ。だとすれば、「東西南北」いずれとも可。要は「阿蘇山の神を尊崇し、これを祭る国々」の意であり、〝どの地点か″というような「発想」こそ、「否(ノウ)」なのかもしれない。

 古田氏は「どこ」とはっきり比定していないし、「祭る国々」と複数国の連合のような書き方をしている。私はあえて一地域に限定しておこう。そこは当然「阿蘇山の神を尊崇」した人々の信仰の中心地「阿蘇神社」を中心とした地域ということになる。つまり、「対蘇国」は阿蘇山の北方で現在の阿蘇市を含む一帯を領域とした国であった。
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