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《続・「真説古代史」拾遺篇》(105)



「倭人伝」中の倭語の読み方(48)
「21国」の比定:(19)呼邑国


 「蘇」の字を含む国(三つある)は続けて考えたいので、今回は一つ飛ばして「呼邑国」を取り上げる。

 この国の訓みについて、水野氏は次のように解説している。

『「呼」は卑弥呼の「呼」と同じである。「邑」は音「オフ」「イフ」「アフ」で、「おおむら」「知行所」「大夫の采地」「みやこ ― 大なるを都、小なるを邑」の義がある。この国名も音の転写である。一般に「コユ」と訓』んでいる。

 私(たち)は「呼」を「カ」と訓んでいるので、「カオフ」「カイフ」「カアフ」が候補となる。諸大家はどう訓んでいるだろか。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二
 日向国児邑郡
宮﨑康平
 「コウォのくに」と訓み、「コ」は「川」、「ウォ」「オ」は「尾」で川が上流に向って鳥のように次第に細くなる状態を「コオ」というとし、この「コオ」がカワ(川)に転訛したと考えるので、川の流域で稲作をしている国の義で、肥後国託麻郡および飽田郡の地、現在の熊本市を中心に、飽託郡および菊池郡の一部大津附近までを含む地域とする。

「邪馬台国」大和説者
内藤虎次郎
伊勢国多気郡麻績平宇美郷
米倉二郎
伊予国桑村郡、現在の周桑郡

 牧氏は「コイフ」と訓んでいるようだ。そう言えば、氏は「姐奴国」の候補地の一つとして「日向国児邑郡都野(つの)郷」を挙げていたっけ。検証抜きで、思い付くものをともかく挙げておこう、といった感じだ。

 宮﨑説。「コウォ」と言う訓みがどうして可能なのか。たぶん「コオフ」と読んだんだろう。『「コオ」が「カワ」に転訛した』という説にはどのような根拠があるのだろうか。まさかとは思うが、もしかすると「江」→「川」という連想かしら。ともあれ、「コオフ」→「川」という転訛を作り出し、「川の流域で稲作をしている国」という解釈を導いた。そのような地域はいくらでも探し出せるが、氏には「21国」は記載順通りに存在したという大前提があるので、めでたく一地域を探し出すことができる。

 「大和説」者の比定地はどのようにして割り出したのか、私にはまったく推測ができない。

楠原説
『[呼邑](こゆう)-福岡県甘木(あまぎ)市秋月(あきづき)付近』
という表題を掲げている。甘木市は2006年に合併されて現在では朝倉市に属する。甘木はあの「甘木の大王」で私(たち)にはお馴染みの地名だ。「邪馬壹国」の領域内である。このような誤説がどのような理路によって導かれるのか、少しで覗いてみよう。

 本文ではいきなり「コシフか、カヤか」という問いを提出して議論を始めている。楠原氏は「21国」の漢字表記は倭人の発音したものを陳寿が音写したものと考えているので、このような発想が可能になのだろう。なぜ「コシフ」や「カヤ」が出てくるのか説明なしで、次のように論じ始めている。

 この国名は難解だが、コシフ(コシヲ)、またはカヤのいずれかであろうと想定した。コシフは漢字表記すれば「越生」か「越峰」であろうが、いずれも「周辺より卓越した地(山峰)」の意で、甘木市の秋月城下町の北東にそびえる古処(こしよ)山(標高859.5m)がその遣称地となる。

 コシフ→コイフを「倭人伝」は「呼邑」の二字で音写した。一方、日本人はのちコシフ→コシユウを「古処」で書き表わしたのであろう。

 カヤの場合は、カ(上)・アヒ(合)で「両側を囲む稜線が上(上流)で合わさって行き止まりになった山峡」を呼ぶ用語であろう。

 この後、「カ・アヒ→カ・ヤ」という転訛を長々と論じているが、省略する。結論は「カヤ」とは『「行き止まりの谷」を占める地形』である。そして次のように締めくくっている。

 「呼邑」がコシ・フ→コ・シユウであってもカ・アヒ→カ・ヤであっても、いずれも比定地は現・福岡県甘木市の秋月盆地一帯になる。この地は『和名抄』筑前国夜須郡賀美(かみ)郷とされるが、小石原(こいしばら)川上流の谷間にある小盆地だから「カミ(上)」は地形的には妥当であろう。「呼邑」がコシ・フ→コ・シユウなら、小石原川源流域の現・小石原村は古くは「腰(こし)原」とも書いたので、あるいは小石原川上流域全域が「呼邑」の山間小王国だったのかもしれない。

 ところが、この比定には一つ、重大な欠陥がある。それは、秋月盆地にせよ小石原村にせよ、いずれも弥生遺跡がまったく発見されていないのである。というよりも日本列島の山間や海岸僻地(へきち)の通例だが、これまで考古学的な調査がいっさい試みられていないのである。

 だが、地形図で明らかなように、秋月盆地は山間とはいえ相応の人間集団が生活するに足る空間である。河岸には水田も開け、山麓には畑地も広がる。先史時代、人々は周囲の山々から豊かな実りも獲得できたろう。対馬(つしま)や末廬(まつろ)で漁業が主、稲作が従の国が成立するのなら、この山間小盆地に稲作と狩猟・採取の生活圏があっても不思議ではない。

 この後、この比定地の歴史として平安時代以後の「秋月氏」の変遷を述べているが、これも省略する。最後にこの比定地の「重大な欠陥」について次のように述べている。

 戦後も目立った開発事業はなく、遺跡の調査・発掘も行われていない。しかし、ある日突然、この地から1800年前の驚嘆すべき遣物が発見されないとはいえないのである。

 考古学が学問であるならば、「やがて出てくるだろう」というのは「学問としての禁じ手」である。これは古田氏が「井の中」の学者たちに対し繰り返し述べている批判である。

古田説
 次は「呼邑(カイフ)国」。もしこれが「甲斐(カヒ)国」(山梨県)であれば、富士山という最高峰の下の「山嶽地名」となろう。重要だ。富士山固有の女神「コノハナサクヤヒメ」は、記紀ではニニギノミコトの妻の「別称」として出現させられている。

 「カイフ」という訓みには賛同するが、「カイフ」→「カヒ」という音変化の説明がない。また、この国の場合も『一つの可能性の「示唆」にすぎない。』ケースだろう。従って「もしこれが…」と「?」付きである。しかしそれにしても、「甲斐」を「魏親倭国」の一つと想定するのはおかしい。古田氏は「女王の境界の尽くる所」(奴国)を能登に比定してるのだから。この説も私にはまったく受け入れることはできない。

 では「カイフ」という国名の遺称地はあるか。「海部(かいふ)」があった。『日本古代地名事典』は次のように説明している。

かいふ[海部]
 『和名抄』阿波国那賀郡に「海部郷」で見え、徳島県海部(かいふ)郡海陽町の地をいう。「あまべ(海部)」の音読みとみられ、漁業者の集落をいう。

 現在でも「かいふ」と訓んでいるのだからこの地は一貫して「カイフ」と呼ばれていた。「あまべ(海部)」が先にあってそれを音読みしたのではなく、「呼邑」→「海部」という漢字表記の変化があったと考えるべきだろう。もしかすると「邑」には表意的な意味も込められていたのかも知れない。

 「阿波国那賀郡」は平安時代末期に「那賀郡」と「海部郡」に分離されている。その「海部郡」の郡域については「不詳」とされているが、「現在の海部郡海部町・宍喰町、海南町浅川・大里・四方原・多良・吉野・熟田および高知県ににかかる一帯」という説がある。他の国々と同様に、三世紀頃の「呼邑国」がどのような領域を占めていたのかは知るすべがない。しかし、その地の古代における様子については「海部郡」について記述から知ることができよう。『日本歴史地名大系』は次のように記している。

 郡域で確認されている遺跡は海部川や宍喰(ししくい)川によって形成された海浜部の平地に多く、そのうち最古の遺物は海南町大里(おおざと)地区から出土した縄文土器である。これは大里二号墳の地で、古墳の造営時に掘削された土壌内に包含されていたことから、周辺に遺跡が広がっている可能性がある。

 弥生時代の遺跡は調査例はないが、大里古墳周辺の砂丘下に中期から後期の遺物包含層が形成されている。海部町の寺山(てらやま)古墳の周辺で遺物が採集され、集落存在が指摘されている。

 古墳時代には平地部を中心に古墳の造営が行われるようになり、いずれも六世紀中葉以後のもので、大里古墳群・寺山古墳群のほか、宍喰町の宍喰古墳などがある。

 これによると現在の海南町辺りが「呼邑国」の中心だったと考えられる。古冢期の遺跡の調査例はないが、古墳時代の古墳造成時に古墳の下に埋没したり、破壊されてしまったようだ。

 遺跡・遺物面による根拠がいささか頼りないが、取りあえず「海部郷」を「呼邑国」の比定地としておく。もしもこの比定が正しいとすると、このことは「呼」を「カ」と訓む古田説が正しいことの傍証にもなる。
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この記事へのコメント
最近「21国は九州内か外か」というところから始めないといけないと強く思っています。
倭人伝には倭地は「周施五千余里」とあって、「余里」としても短里なら400~500キロ未満です。
この範囲は伊万里ー関門海峡ー大分ー熊本ー伊万里という4角形位のもので、どう見ても九州内です。
また、「奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所」とある一方、「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」とあります。
これは千余里(80~100キロ・博多湾から山口の宇部位)離れれば別の倭人の国があるという意味で、21国はその内側とならないでしょうか?
やはり九州内で求めるべきでは、と悩んでいます。
2012/08/21(火) 17:58 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
Re: 私も気になっています
> 最近「21国は九州内か外か」というところから始めないといけないと強く思っています。
> 倭人伝には倭地は「周施五千余里」とあって、「余里」としても短里なら400~500キロ未満です。
> この範囲は伊万里ー関門海峡ー大分ー熊本ー伊万里という4角形位のもので、どう見ても九州内です。
> また、「奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所」とある一方、「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり」とあります。
> これは千余里(80~100キロ・博多湾から山口の宇部位)離れれば別の倭人の国があるという意味で、21国はその内側とならないでしょうか?
> やはり九州内で求めるべきでは、と悩んでいます。

以前(6月25日)頂いたコメントの時から、一度きちんと考えなくてないなと、私も気になっています。もう少し考えを深めたいと思っています。
2012/08/22(水) 10:23 | URL | たっちゃん #-[ 編集]
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