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《続・「真説古代史」拾遺篇》(104)



「倭人伝」中の倭語の読み方(47)
「21国」の比定:(16)姐奴国(その二)


 素案が二つあった。一つは「ソヌ」と読んだ場合、語尾に地名でよく使われている言素「キ」が付加されて「ソノキ」、つまり「彼杵」である。

 「姐」の訓みの「シャ」「シ」「ショ」は漢音・呉音共通だからどれも可能性がある。「ソヌ」「シャヌ」「シヌ」「ショヌ」。どのように訓んだとしても「姐」を表意文字とした場合、水野氏の「姉が王位についていた国」説が面白い。ただし、「姉」とは限らない。もっと一般的に「女王」でよいだろう。そのように考えた場合の一案が「八女」である。

「素案1」について

 「彼杵」は現在は「ソノギ」と訓まれているが、『和名抄』の訓は「曾乃木」であり、古代には「ソノキ」と訓まれていたのは確かだ。この「彼杵」は楠原氏が「投馬国」の一部に比定していた(詳しくは『楠原氏の「女王国の版図」(2)』をご覧下さい)。「彼杵」とはどういう地域なのか、改めて調べてみた。(『日本地名ルーツ辞典』を用いています。)

 「彼杵郡」は『肥前風土記』に初出する。現在は東彼杵郡・西彼杵郡に分かれている。

 東彼杵郡は県東部、大村湾に臨む郡名。東彼杵町は郡南部に位置する交通の要地。西彼杵郡は大村湾の西側、長崎市の北に延びる西彼杵半島と長崎半島一帯を占める郡名である。

 『肥前国風土記』は彼杵郡の名称について、景行天皇西巡のとき、この地の豪族が三つの美しい玉を献上したので天皇が「この国は具足玉(そないたま)の国と謂(い)ふべし」と詔されたので、そのソナヒタマがソノギに訛(なま)ったとしている。この具足玉は久留米(くるめ)市の高良(こうら)神社の玉の伝承と関係が深いのではないかといわれている。さらに『肥前国風土記』によると彼杵郡は「郷四所、里四、駅二所、烽(とぶひ)三所」とある。人口希薄の所であったのであろう。

 「景行紀」には九州王朝の「前つ君」による九州一円征服譚が盗用されている(詳しくは「九州王朝の形成(6)」をご覧下さい)。そのとき「高来県(たかくのあがた)」にも巡幸している。「彼杵」は「高来県」に比定されている地域と隣接している。『肥前国風土記』の「彼杵」地名説話も「前つ君」巡幸の事蹟に関連して創られた説話であろう。

 上の引用文中で「彼杵」は「人口希薄の所であったのであろう」と推定しているが、正しい推定だと思う。確かに「彼杵郡」の比定地の広さに対して「郷四所、里四、駅二所、烽(とぶひ)三所」は少なすぎる。この推定が正しく、三世紀にも同じような状況であったとすれば、「彼杵」は「高来県」のどちらかというと辺境の一地方だったと考えられる。不確定要素があるが、「ソノキ」をその地域一帯の国名に用いたとは考えがたい。

「素案2」について

 「八女」は楠原氏が「邪馬国」に比定していた。その時に掲載した「景行紀」18年条の「八女」の地名伝説を再録しよう。

丁酉(ひのとのとりのひ)に、八女縣(やめのあがた)に到る。則ち藤山(ふぢやま)を越えて、南(みなみのかた)粟岬(あはのさき)を望(おせ)りたまふ。詔して曰はく、「其の山の峯(みね)岫(くき)重疊(かさな)りて、且(また)美麗(うるは)しきこと甚(にへさ)なり。若(けだ)し神其の山に有(ま)しますか」とのたまふ。時に水沼縣主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおほみ)、奏(まう)して言(まう)さく、「女神(ひめかみ)有(ま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(まう)す。常に山の中(うち)に居(ま)します」とまうす。故(かれ)、八女國(やめのくに)の名は、此に由りて起れり。

 ここでは「八女津媛」が「八女国」の王という設定になっている。まさに女王である。ということで一案とした。しかし、この説話も「前つ君」の巡幸に依拠した説話である。ということは、古来から「八女」という国名が使われ続けていた。その地域の人々にとってなじみの「八女」に代わって「姐奴」という国名をつけたなどということは、私はあり得ないと思う。

 以上のようなことを考えていたら、「愛読者」さんから、次のようなコメントを頂いた。

 宮﨑康平の言うように、古代「さしすせそ」は「しゃししゅしぇしょ」に近い音だったといわれ、今も博多弁とか九州弁の例としてネット上でも実例が沢山挙げられています。

 たしか「青春の門」筑豊篇で大竹しのぶが「しんすけさん」を「しんしゅけしゃん」といっていた記憶があります。

 であれば「讃岐国」は「しゃぬき国」であり、「岐」は壱岐・隠岐・安芸・土岐など地名に豊富に見られる接尾語ですから、幹は「しゃ(ぬ)国」。

 讃岐は「サヌカイト」や「細型銅剣」など、石器時代から弥生まで瀬戸内文化圏の中心地であったことは疑えず、21国を九州外に広く求めるなら絶対に入っているはずですから・・。

 というわけで「姐奴国=讃岐国説」はいかがでしょうか?

 なるほど、私は「サ」を「シャ」と発音する言語文化をはなから九州だけのものと速断していたが、九州から中国・四国にかけてのいわゆる「銅鉾圏」は同じ文化圏であるから、言葉の上でもいろいろと共通の部分があったに違いない。「讃岐国」は「銅鉾圏」と「銅鐸圏」の境界部にあるから、両圏の影響を受けていたと思われるが、九州地方に残っている「しゃししゅしぇしょ」も共有していた可能性がある。もしそうだとすると「愛読者」さんの説に信憑性が出てこよう。

 「サ→シャ」という発音が九州だけのものではなく、少なくとも中国・四国地方では一般的ものであったことを証明することは難しい。しかし、現在流布している例から、後世では結構一般的であったことがうかがえる。私には四例しか思い付かないが、次のよう例がある。


「鮭」→「シャケ」「サケ」

「砂金・沙金」→「シャキン」「サキン」
 (これは宮﨑氏が九州弁として挙げていた。)

「三味線」→「シャミセン」「サミセン」

「尺八」→「シャクハチ」「サクハチ」

 この四例とも「広辞苑」ではどちらも掲載している。④は「サ→シャ」とは逆に「シャ→サ」の例と言うことになる。これには出典が提示されている。『源氏物語・末摘花』である。「大ひちりき、さくはちの笛などの、大声を吹き上げつつ…」(三省堂版『明解古語辞典』からの孫引き)とある。平安時代にまでさかのぼる例である。②は「砂・沙」自体に「シャ・サ」という音があるのでそのどちらを選ぶかという問題で他とは異なる要素が加わるが、「シャ」と「サ」の混用という点では同じ例としてよいだろう。

 たった四例なので速断に過ぎるきらいがあるが、総じて次のように判断したい。すなわち、「シャ」と「サ」の混用は、古代から現在まで、また地域的にも九州に限らず、日本語全体の中で一般的なものだった。

 以上より、「姐奴 シャヌ」を「讃岐」に比定する説を最終案とたいが、古代の「讃岐」についてはほとんど何も知らないので少し調べてみる。(『日本歴史地名大系 全50巻』(平凡社)による。いつも利用している図書館では旅行コーナーに置かれていたので今まで気付かなかったが、すごい大系本です。)

石器時代

 文化の一つの拠点は国分台にあった。サヌカイトの最大の原産地であり、石器の加工も盛んに行われていた。出土した石器類の量と多様さにおいて群を抜いている。サヌカイトの伝播状況と石器時代の自然環境については次のように書かれている。

 サヌカイトの伝播は瀬戸内沿岸部に限られたものではなく、芸予諸島から周防灘沿岸部・山陰、さらには三河湾沿岸部にまで及んでいる。それたけでなく、サヌカイトを加工するために用いられた瀬戸内技法は、九州から山陰・北陸・東海地方に至る大きな広がりをもっているとされている。

 後期旧石器時代の自然環境についてみると、現在の瀬戸内海の水位が20メートル下がったとすると、岡山県笠岡市から香川県丸亀市を結ぶ緑は完全に陸地化し、瀬戸内海は東西に分断される。さらに50メートルまで下がると、備讃海域はほとんど陸地化し、わずかに窪地が残る程度となる。瀬戸内海の海底から採取される動物の化石は、海進に伴ってしだいに追詰められていった動物にとってここが最後の住みかとなったことを物語っている。またそれを迫掛けた後期旧石器人にとっても、瀬戸内一帯は石器の原料に恵まれ、食用動物の豊富な楽園であったといえよう。

 驚いたなあ。石器時代には瀬戸内海は東西に分断されていたんだ。(もしかして、知らなかったのは私だけ?)

縄文時代

 貝塚の分布状況から縄文時代の早期から瀬戸内海の海進が進んでいた。また、縄文遺跡からは縄文集落のほとんどが海浜に立地していたことが分る。このことからこの地方では、石鏃の出土から狩猟が行われていたことは当然だが、漁労も大事な生業の一つであったことが分る。文化面での特徴については次のように書かれている。

 詫間町の大浜遺跡は縄文時代後期の遺跡であるが、多数の土器とともに石錘・石斧・石鏃といった狩猟・漁労用具のほか、土匙や土偶が出土している。また沙弥島のナカンダ浜遺跡でも土版が出土しており、狩猟・漁労の生活のなかでも精神的なよりどころを求めて、土偶や土版・土匙を用いた呪術や祭祀が行われていたことを物語っている。しかしこのような採集経済も、やがて稲作農耕文化の伝来によって終焉の時が訪れる。

古冢時代(弥生時代)

 古冢時代は私(たち)がテーマとしている時代なので、全文をそのまま引用して、一つの資料としたい。

 朝鮮半島から北九州に伝来しだ稲作農耕文化は、北九州に定着したのち、あまり時を経ず瀬戸内海を東漸したとされている。県内でも最も古くに位置付けられている弥生土器が観音寺(かんおんじ)市室本(むろもと)町の海浜から出土しているほか、櫃石(ひついし)島の大浦浜遺跡、沙弥島のナカンダ浜遺跡、小豆郡土庄(とのしょう)町の伊木末(いぎすえ)遺跡などの島嶼部から出土していることによっても知ることができる。これまでに発見されている前期の初期稲作農耕遺跡は20を超えるが、なかには縄文時代晩期の土器が伴出するものもあり、縄文時代人が弥生文化を受容し、低地に進出していった状況をうかがうこともできる。

 讃岐平野の各地に定着した稲作農耕文化は、間断なく東西文化の刺激を受けながら様々な展開をみせることとなる。銅剣や銅鉾などの武器形青銅器が北九州を基点とする西方から、東方からは善通寺市我拝師(がはいし)山遺跡や観音寺市古川遺跡出土の流水文銅鐸にみられるように、畿内に工房をもつ銅鐸が伝来した。

 弥生時代中期になると、詫間町の紫雲出山(しうんでやま)遺跡や丸亀市広島の心経山(しんぎょうざん)遺跡をはじめとする高地性遺跡が形成されるが、このような東西文化の錯綜状態のなかから生れた現象といえる。しかし後期に入ると高地性遺跡も廃絶し、しだいに周辺部の小集団を統合しながら拠点的な集落が生れ、そのなかから首長層が形成されてくる。善通寺市の旧練兵場遺跡、大川郡寒川(さんがわ)町の森広(もりひろ)遺跡などがその典型的な事例である。森広遺跡では巴形銅器・平形銅剣・銅鐸などを保有し、善通寺周辺からは平形銅剣30口以上が出土している。寒川町奥(おく)10号・11号台状墓などは、拠点集落のなかから出現した首長層の墳墓と考えられ、善通寺市においても稲木(いなぎ)遺跡で台状墓が検出されている。

 「姐奴 シャヌ」→「讃岐」という比定はいい線を行っていると思うがどうだろうか。

 なお、サヌカイトのことにも無知だったのでネット検索をしてみたら、サヌカイトで鏃を造るという作業を実際に行っている人のサイトに出会った。「石器ラプソディー」さんの「香川県国分台サヌカイト編」です。世の中にはすごいことをやっている面白い人がいろいろといるなあ、と改めて感心しています。こういう人に出会うとほのぼのとした気分になってくる。
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この記事へのコメント
姐奴国=讃岐説については、Authorが好古都国を岡山市古都(吉備の児国)に比定されておられるので、その対岸の讃岐国も当然入って然るべきと思いついたのです。なお徳島・岡山は「せ」「しぇ」混同県(年寄の発音ですが)、謡曲では宝生流が「せ」を「しぇ」に近く発音することで有名です。
これも古い発音が残っている証拠になると思います。ただ香川県ではまだ確認できていませんので・・・
2012/08/14(火) 21:05 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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