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《続・「真説古代史」拾遺篇》(102)



「倭人伝」中の倭語の読み方(45)
「21国」の比定:(15)不呼国(その四)


ふかた[深田]
 『和名抄』筑前国宗像郡に「深田郷」で見え、福岡県宗像郡玄海町深田の地をいう。泥深い田地に由来する。

 福岡県宗像郡は現在は福岡県宗像市となっている。玄海町深田は宗像大社のある玄海町田島の北に隣接する地である。宗像大社は九州王朝にとって重要な神社の一つであるから、宗像大社を擁する地域を含む領域に「親魏倭国」の一つが形成されていたことは容易に想像できる。しかし、その国が「不呼国」を名乗ることはあり得ないだろう。そこは古くから「空国(ムナクニ)」と呼ばれていたのだから。「空国」の訓みは宣長以来「カラクニ」が定説だったが、正しくは「ムナクニ」であることを古田氏が『盗まれた神話』で論証している。次の通りである。

(1)
 (天孫降臨後のニニギ)膂宍(そしし)の空国を頓丘(ひたお)から国覓(ま)ぎ行去(とお)りて、吾田の長屋の笠狭碕に到る。〈神代紀、第九段、本文〉
(2)
 膂宍の胸副(むなそう)国を……。〈神代紀、第九段、第二、一書〉


 これ(「空国)は(2)から見ても、「から国」ではない。やはり「むな国」だ。従来、これを〝荒れてやせた不毛の地″と解してきた。抽象的な普通名詞ととったのだ。では、(2)の「むなそふ国」とはなんだろう。これはどうしても「空(国)」を一定の地名領域と見なければ、理解できない。〝空国にそい並ぶ国(々)″の意だ。

 では、「空国」とはどこだろう。その解答は、今は容易だ。有名な「宗像(むなかた)」だ。この「むなかた」の「かた」は、「直方(のうがた)」(直方市)、「野方」(福岡市西辺)というように、やはり地名接尾辞だ。固有の地名部分は「むな」なのである。「空国」とは、ズバリ、ここ以外にない(「空」「宗」は表記漢字の相違)。天孫降臨の地を宮崎県あたりへ、笠沙の地を鹿児島県へと、もっていっていた従来の立場では、思いもよらなかった。しかし、今は明白である。

 ことに決定的なのは、この「空国」と「笠沙」と天孫降臨の「クシフル山」との位置関係だ。ニニギは「クシフル山」から「空国」へ向かって行く途中で「笠沙」の地を通る。そしてそこは海岸だ(神代紀、第九段、第二、一書に「海浜に遊幸す」の語がある)。つまり、海岸沿いに「クシフル山→笠沙→空国」となっていなければならぬ。その通りだ。「高祖山(前原)→御笠(博多)→宗像」は、海岸沿いに、まさにこの順序に並んでいるのだ

ふかわ【深川】
 『和名抄』長門国大津郡に「深川郷」で見え、山口県長門市深川の地をいう。深川川の深い川に由来する。

 「大津郡(おおのこおり)」について、「事典2」は次のように記している。

 『和名抄』に「於保郡」と訓じる。三隅(みすみ)・深川(ふかわ)・日置(へき)・稲妻(いなめ)・三嶋(みしま)・向国(むかつくに)・二処(ふたい)・神戸(かんべ)・駅家(うまや)の九郷よりなる。郡域は、現在の長門市の旧大津郡油谷(ゆや)町・目置町・.三隅町及び長門市に相当する。北部は日本海に面し、向津具(むかつく)半島や青海(あおみ)島により油谷湾、深川湾、仙崎(せんざき)湾を形成、複雑な海岸線を呈する。
 「深川」は現在、地名としては「東深川」「西深川」として残っている。深川湾に面した地域である。ここから対馬まではおよそ200㎞ぐらいだろうか。朝鮮半島との交渉も古くからあったと想像できる。しかし、「事典2」での歴史的な記述は郡制以降のものだけで、縄文期・古冢期のものはない。郡制以前には取り上げるほどの事蹟・遺跡はないということだろうか。もしそうだとすると、ここも「不呼国」の比定地とはなしがたい。

 古代遺跡の専門書を調べるべきなのだろうが、とりあえず手元の天野幸広著『発掘 日本の現原像』(朝日選書 2001年刊)を見てみた。山口県からは一つだけ、土井ヶ浜遺跡が取り上げられている。「深井」からは30数㎞ぐらいだろうか。3世紀頃この2地域が同じ国の領域内にあったのかどうかは分らないが、現在はそれぞれ長門市・下関市に属しているので、古代も異なる国の領域だったと推測できる。ついでなので、土井ヶ浜遺跡がどのような遺跡なのか、上掲書から引用しておこう。

 二千数百年前に始まる弥生時代の人びとは縄文人に比べて顔が細長く、彫りが浅い。長身だが、地域によって体つきなどに違いがあった。中でも渡来系弥生人として有名なのは山口県豊北(ほうほく)町の土井ケ浜(どいがはま)遺跡から出た骨だ。響灘(ひびきなだ)を見下ろす砂丘の東西260メートル、南北70メートルの区域に2200年くらい前から営まれた集団墓地だった。戦前からこれまでに約400体が発見され、ひと回り長身で、男性の平均身長が163センチ、女性150センチ。砂に多量に含まれている粉々になった貝のカルシウム分の作用で骨の残り方がよかったらしい。それまでの縄文人や周りの人骨とかなり異なる体格などから、「渡来系」とされてきた。「よそから日本列島へやってきた渡来人かその直系の子孫」という見方だ。土井ケ浜をはじめ九州北部などから多く発見されており、奈良県の唐古・鍵の弥生人もそのグループとされる。(以下略す)

 国立民族博物館は放射線炭素(C14)による年代測定法の結果、古冢時代は紀元前1000~800年頃からとしている。天野氏は弥生時代の始まりは「二千数百年前」としているので、改正された時代区分をよくふまえていることが窺える。

(訂正 8月6日 午後5時)
 うっかり判断ミスをしました。天野氏の使っている年代は改正前のものでした。正しくは「2800~3000年前」とすべきです。

ふかふち[深淵]
 『和名抄』土佐国香美(かがみ)郡に「深淵郷」で見え、高知県香美郡野市町深淵の地をいう。物部川の川淵が深いことに由来する。

 「事典2」は「香美郡」の郡域を次のように詳述している。

 『和名抄』に「加々美」と訓じる。安須(やす)・大忍(おおさと)・宗我(そがべ)・物部(ものべ)・深渕(ふかぶち)・山田・石村(いわむら)・田村の八郷からなり、令制区分では中郡。郡域は現在の高知県香美市土佐山田町・物部町・香北(かほく)町、香南市夜須町・香我美(かがみ)町・赤岡町・吉川(よかわ)村・野市(のいち)町と南国市の一部に相当。
 「事典2」には「香美郡」の古冢期遺跡についての記述はない。上掲書では居徳遺跡(縄文晩期)・奥谷南遺跡(旧石器時代)・田村遺跡(古冢前期)を取り上げている。「田村」は上の郷名にもみえる。現在の南国市田村である。田村遺跡についての記述の主要部分を引用しよう。

「まず北部九州に伝えられた水田稲作は、急テンポで瀬戸内を経て近畿に広がった。太平洋側の水稲開始はかなり遅れた」という通説を覆したのが田村だ。それら「先進地」と同じころ、2~20平方メートルの小さな区画の水田が、244枚も開かれたことが判明したのだ。これまでの約31ヘクタールにのぼる調査の結果、弥生時代の田村は物部川西岸で同川の伏流水を利用して発展した大集落と分かった。竪穴、掘立柱建物跡が2000年2月までに計850棟分も分かり、吉野ヶ里遺跡を上回って鳥取県大山町と淀江町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡と並び、全国でも最大級の弥生集落遺跡となった。この建物の大半は100年間ほどのもので、1000人規模の人口が想定でき、「都市と考えていい」という見解も出ているほどだ。

 出土した壷に描かれていた掘立柱建物は、屋根に渦巻き状の装飾が施されていた。高床式の神殿を表現した可能性もある。また、割られた状態で発見された中国製の銅鏡の破片三個をはじめ、貝を真似た腕輪の銅訓(どうくしろ)は、まじないや祭りの道具と見られる貴重品だ。かなり多い石の鏃(やじり)や剣は武器らしい。ソロバン玉を直径20センチくらいに拡大したような珍しい「環状石斧(せきふ)」が20個も見つかった。棍棒にくくりつけて振り回す武器と見られ、不気味さも漂う。もちろん、装身具らしいきれいな色のガラス玉や鉄の斧、釣り針、石の包丁石の鎌、おびただしい土器類が出ている。近くでは江戸時代に、銅鐸と銅矛も見つかっている。遺構と遺物は、古くからこの地で大規模な水田稲作が営まれ、戦いが繰り広げられ、祭祀が催された光景を彷彿させる。弥生遺跡に詳しい兵庫県芦屋市教育委員会の森岡秀人さんは「近畿、北部九州の大環濠集落でも暮らしを支えた水田などはそんなに見つかっていない」という。

 奥谷南遺跡の所在地は南国市岡豊(おこう)であり、居徳遺跡は土佐市居徳(いとく)である。古冢期には田村遺跡を含む一帯、すなわち高知平野には他に引けを取らない国家が形成されていたことは明らかだ。私はここを「不呼国」に比定したい。もしかすると「不呼国」は「侏儒国」のお隣りさんかもしれない。

 ここで思い出したことがある。古田氏も「土佐」の特異性を取り上げていた。『俾弥呼』第六章で「侏儒国」を論じているくだりで、次のように述べている。

 2004年5月30日に公刊された春成秀爾・今村峯雄編『弥生時代の実年代』(学生社)で、九州の「弥生稲作」が、従来の「BC350」から「BC800」ないし「BC1000頃」まで、大幅に「上昇(逆のぼる)」したのは、すでに周知のところである。

 だが、それにつづく地域が「大和(奈良県)」ではなく、「土佐(高知県)」であることは、意外に知られていない。しかも「大和」の場合とは異なり、「土佐」 の場合は「九州北部」と〝ダブリ″〝相重なって″いるのである。

 さて、高知平野を「不呼国」に比定した場合、「深淵」の「深」がこの国名に選ばれた理由は何だろうか。「事典2」には古代遺跡関係の記事がなかったが、物部川沿いに点在する式内社が挙げられている。天忍穂別(あまのおしほわけ)神社・小松神社・深淵神社・大川上美良分(みらふ)神社である。ネット検索で調べた範囲の知識でしかないが、まとめると次のようになる。

 どの神社も創祀年代は不詳。それぞれの祭神と次のようである。

小松神社
 祭神不詳。物部村にある。「仲哀8年から應神14年、貞観7年(865)と三代の天皇に仕えた功績により小松神社の称号を朝廷から頂いた」という伝説があるという。この伝説が何らかの史実を含んでいるとすれば、9世紀以降の創祠ということになる。

天忍穂別神社
 境内の案内板には「天忍穂別神社は式内社で土佐に来た物部氏によって、祭神、天忍穂耳尊、相殿饒速日尊の二神が祀られている」とあるそうだ。物部を名乗る人物の初出は「垂仁紀」26年8月3日条の「物部十千根(とをちね)大連」である。この神社伝承から創祠時期は4世紀以降ということになる。

大川上美良分神社
 祭神は「大田田根子(おほたたねこ)命」である。この人は「崇神記」にでてくる疫病を治めたあの司祭である。ということはこの神社の創祠時期も3世紀後半以後ということになる。

深淵神社
 祭神は深淵水夜禮花(ふかぶちのみずやれはな)命。この神は「須佐之男命の大蛇退治」譚の終りに書かれている須佐之男命の系譜中に出てくる。その系譜では須佐之男命の曾孫でかつ大国主命の曾祖父になる(須佐之男命と大国主命は同時代の人物である。この系譜は『古事記』編纂者の造作であることを古田氏が『盗まれた神話』で論証しているが、今は立ち入らない)。

 (a)「深淵」という地名があってその地名を含む「深淵水夜禮花命」を祭神にしたのか、(b)祭神名「深淵水夜禮花命」から地名「深淵」が生まれたのか、定かではない。しかし、常識としては地名が先であろう。神社はもとは物部川の中州にあったが、「江戸時代の初め頃と明治25 年の二度の洪水により、社地の流出と移転を繰り返して、現在の社地に移った」という。もともとの祭神は「深淵の水(物部川)の氾濫時に、その被害を食い止める神」だったという。つまり当地の土地神である。当地の人々の畏敬の念を集めていたことだろう。

 以上、思いがけず長くなってしまったが、私は「不呼国」を高知平野一帯に比定する案を提出しよう。
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