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《続・「真説古代史」拾遺篇》(101)



「倭人伝」中の倭語の読み方(44)
「21国」の比定:(15)不呼国(その三)


(これまで利用してきた『日本古代地名事典』のほかに『日本古代史地名事典』(雄山閣)を利用します。それぞれ「事典1」「事典2」と略記します。)

 私は「好古都国」を「居都郷」を中心とする一帯地域(吉備国)に比定する案を提出した。これを生かすとすると、吉備国内に所属する「深井」と「深津」は「好古都国」の領域内の地と思われるので、「不呼国」の比定地候補から除外してよいと考えるが、この機会に「吉備国」全体の成り立ちと「居都」・「深井」・「深津」それぞれの土地柄を調べることにする。

 「事典2」の「吉備」の項は「吉備」の歴史を四期にわけて記述しているが、今私(たち)は3世紀頃にことを知りたいので、ここでは第一期の記事だけを引用する。

第一期=吉備社会の成立期。
 瀬戸内海に面し対内・対外交通の要地である吉備地域は列島内の先進地帯の一つで、縄文晩期の遺跡から水田耕作の行われていたことが知られ、弥生時代には有数の水田地帶であった。児島半島中心とした沿岸部では弥生中期から土器製塩が盛んで、またガラスの製造址も検出されている。こうした経済的・文化的発展を基礎に各地に首長層が出現した。弥生後期には首長の葬送儀礼に供献される特殊壷形(つぼがた)土器・特殊器台形(きたいがた)土器を生み出し、備中南部平野部を中心に吉備を地域的限界として分布する。このことは葬送儀礼の共有という形での首長間の連合が進んだことを示す。三世紀初頭に比定される倉敷市矢部の楯築(たてつき)墳丘墓は、円丘に左右の張り出し部を設けた全長約80メ一トルの整備されたもので、同時期の吉備を代表した大首長の墳墓と推定されている。弥生後期に吉備地域では大首長を頂点とする首長相互の階層的構成をもつ自立的な政治的社会を形成していたのである。

 「大首長」という言葉を使っているが、私はためらうことなく「王」と呼びたい。また、この記事からは「吉備国」の中心地は現在の岡山市一帯と考えられるが、もう少し絞り込むことができる。「上道郡」について、「事典2」は次のように記している。

 東は吉井川を境に邑久(おく)郡、北は東から磐梨(いわなし)郡・赤坂(あかさか)郡、西は御野(みの)郡、南は海に面する。現在の赤磐(あかいわ)郡瀬戸(せと)町の一部と、岡山市の吉井川西岸から旭川東岸に至る南部の沖積平野を中心とした地域で、古代吉備の中心地域の一つであり、多くの遺跡などが分布する。

 「上道郡」は明らかに「吉備国」の中心地であった。

ふかい[深井]
 『和名抄』備中国都宇郡に「深井郷」で見えるが、『正倉院文書』天平2年(730)に「深井郷」で初見し、岡山市箕島から西の都窪(つくぼ)郡早島町にかけての地域をいう。台地の麓の探井戸に由来しよう。

 「都宇郡」の郡域について、「事典2」は次のように述べている。

 郡域は現都窪郡早島町に岡山市西部・倉敷市東北部を併せた地域で、足守川右岸の吉備穴海に面する地域にあたる。吉備最大の前方後円墳・造山古墳が造営されるなど吉備大首長の一翼が存在した。

 「吉備穴海(きびのあなうみ)」という聞き慣れない言葉が出てきた。文献上では「景行紀」27年12月条に初出するという。あの「日本武尊の熊襲暗殺説譚の後、ヤマトに帰る途中の説話で
「既にして海路(うみつぢ)より倭(やまと)に還りて、吉備に到りて穴海を渡る。其の處に悪ぶる神有り。則(すなは)ち殺しつ。
と書かれている。この「穴海」について詳しく知りたいと思い、「ネット検索でにわか勉強をした。「株式会社フジタ地質」さんの記事が一番詳しい。丁寧な地図が作成されている。私の関心の部分を要約すると次のようになる。

 約6,000~7,000年前は海水面が現在よりも数m高く、縄文海進期と呼ばれている。その頃岡山平野の大部分は内海であり、「吉備の穴海」と呼ばれている。ではそこはいつ頃から陸地になったのだろうか。次のような説明があった。

『その後、気候の寒冷化による海水面の低下と、古代からのタタラ製鉄による砂鉄採取のため、山を崩して土砂を川に流したことによる非常に緩い砂の堆積、江戸時代以降の干拓によって中国地方最大の平野が作られていきました。』

 この説明では3世紀頃の様子が分らない。それが分るような手掛かりはないかと、さらに検索をしていて「地域の礎」さんに出会った。そこには戦国時代の古地図が掲載されている。その古地図を使わせていただこう。

吉備の穴海
(上が南です。)

 この地図によると、なんと、倉敷・箕島などは島だった。一番北(下方)に見える「酒津山」は現在の倉敷市酒津であろう。そうすると、「株式会社フジタ地質」さんの地図も参考にして、戦国時代には岡山市の南区はほとんど海中にあったようだ。3世紀ころもこれと大差ないと考えてよいだろう。

 上の推測が正しいとすると、都窪郡の南半分くらいは海中にあったようだ。陸地だったとしても「吉備穴海」の海岸に面していてほとんどが湿地だったと思われる。「事典1」は「深井」を「岡山市箕島から西の都窪(つくぼ)郡早島町にかけての地域」と比定しているが、箕島はあきらかに海の中である。この比定は修正の必要があろう。

 「深井」という地名は現在は残っていないようだ。「岡山県岡山市深井」という地名があるが、ここは「事典1」や「事典2」の比定地とはまったく関係ない所に位置している。これまでのことを総合すると、「深井」は「穴海」の海辺に存在した村落であった。

ふかつ[深津]
 『和名抄』備後国に「深津郡」で見えるが、『続紀』養老5年(721)に「深津郡」で初見し、安那郡より分立している。広島県福山市の東部一帯いい、穴状の深い入江に津があったことによる。

 現在は広島県福山市東深津町・西深津町という地名が残っている。「事典2」は深津郡の郡域について次のように記している。

 『和名抄』東急本・道円本郡名ではともに「布加津」、名市博体も「フカツ」の訓を付す。中海(なかうみ)・大野(おおの)・大宅(おおやけ)の三郷からなる。郡域は現在の福山市南部のうち芦田(あしだ)川以東の地域で、東は岡山県に接する。『続紀』養老5年(721)4月丙中条に安那(やすな)郡から深津郡を分置した記事がみえ、かつての安那郡沿海地域にあたる。飛鳥石神遺跡から「深津五十戸庸…」と記した木簡が出土しており、分置以前の郡名のおこりを想わせる。

 地図で見ると東深津町・西深津町は3世紀頃は、「深井」と同様、海辺の村落だったと思われる。
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