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《続・「真説古代史」拾遺篇》(99)



「倭人伝」中の倭語の読み方(42)
「21国」の比定:(15)不呼国(その二)


 まだ詳しい検証ができていないが、今のところ私は「旁国」(魏親倭国)が存在する領域を「銅鉾・銅戈・銅剣」圏と想定している。また、「遠絶」については文字通りに「遠く離れている」という意に取っていたが、「愛読者」さんのコメント(2012/6/11)のご教示により、「(実際に見聞していないので)うとい」という意と考えることにした。このような前提で「フカ」国を考えることにする。

 「フカ」は楠原氏編著の「地名用語語源辞典」によると、次のような地名語幹である。

ふか〔深、布賀〕
 ①フケ(沮)の転で「湿地」。②(水深などの)深いさま。③(水平方向に)奥行きの深いこと。
 〔解説〕①は動詞フカス(蒸)の語幹フカとも通じる。

 もちろん「フカ」という地名はどの資料にも現れない。この語に「ミ・ツ・マ」のような接頭辞あるいは接尾辞が付された地名を考えるほかない。私の調べた範囲(『日本古代地名辞典』・『日本地名ルーツ辞典』)では接頭辞が付された例はなかった。接尾辞が付された例は、私が想定している領域内には、次の6例があった。

ふかい[深井]
 『和名抄』備中国都宇郡に「深井郷」で見えるが、『正倉院文書』天平2年(730)に「深井郷」で初見し、岡山市箕島から西の都窪(つくぼ)郡早島町にかけての地域をいう。台地の麓の探井戸に由来しよう。

ふかえ[深江]
 『延喜武』筑前国に「深江駅馬」で見えるが、『万・813題」に「探江村」で初見し、福岡県糸島郡二丈町深江の地をいう。深く入った入江の地をいう。

ふかた[深田]
 『和名抄』筑前国宗像郡に「深田郷」で見え、福岡県宗像郡玄海町深田の地をいう。泥深い田地に由来する。

ふかつ[深津]
 『和名抄』備後国に「深津郡」で見えるが、『続紀』養老5年(721)に「深津郡」で初見し、安那郡より分立している。広島県福山市の東部一帯いい、穴状の深い入江に津があったことによる。

ふかふち[深淵]
 『和名抄』土佐国香美(かがみ)郡に「深淵郷」で見え、高知県香美郡野市町深淵の地をいう。物部川の川淵が深いことに由来する。

ふかわ【深川】
 『和名抄』長門国大津郡に「深川郷」で見え、山口県長門市深川の地をいう。深川川の深い川に由来する。

②について。ここは伊都国の領域ということで除外、と考えていたが、まったく別の理由で除外することになった。その理由は『まぼろしの邪馬台国』で次のようなことを知ったからだった。少し長いが『まぼろしの邪馬台国』から引用する。


 九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門の地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、ゆるしを得てここに掲載しておく。これによって、記入された弥生線と現在の町の関係を比較してもらうと、当時のようすがよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えればいいだろう。

弥生時代の博多湾

 この地図から教えられることは、当時は、まだ深江も、加布里も、今宿も、完全に海中であったことである。福岡市内もほとんど海中であった。主要な当時の海岸線の地名をたどってみると、まず、志賀島(しかのしま)はいうに及ばず、西戸崎(さいとぎき)も島であった。和白(わじろ)と三苫(みとま)の間も切れていて、ここを三苫水道というのだそうである。名島(なじま)の付近から、多々良(たたら)川の河口はずっと上流にあり、宇美(うみ)川は別に海へ直流し合流していない。市内の海岸線と思われる地名を列記してみると、土井、別府(べふ)、臼井、住吉神社、新柳町、高宮、平尾、薬院、警固(けご)、草ケ江、小田部、長垂(ながたれ)山、周船寺(すせんじ)、志登(しと)、波多江(はたえ)、前原(まえばる)となる。千五百年の間に、4キロから5キロも陸化している所があり、なかなか現在の地形では、素人(しろうと)判断することはむずかしい。とにかく、標高5メートル内外の線を基準として見当をつけてみた。糸島水道では、半島側は比較的に陸化が遅く、地形が弥生線で安定しているので、瑞梅寺(ずいばいじ)川河口と、雷山(らいざん)川河口の堆積(たいせき)による変化が問題だ。

 この山崎先生の地図を参考にしながら、私は先に述べたように現地を踏査してみたが、実に現在の地形に到達するまでの変化が理解しやすく、とても教導されることが多かった。

 万葉集巻十五に記載された新羅(しらぎ)使の歌をみると、船はこの水道を通らず、糸島半島の先端を迂回しているが、こは歌の内容からもわかるように、唐津湾を横断するのに、より有利な風の選択を求めたためである。それでも幾日も船がかりして風待ちをし、せっかく糸島半島の韓亭(からのとまり)を出帆しても引津へ押し流されている。当時この水道が、干潮時に大船を通すには浅くなっていたのではないかとも考えられるが、それより雷山川河口から船出することは、風向きをえらぶのにきわめて不利なのである。新羅使の歌の内容が証明しているように、唐津湾を横断することのむずかしさが理解される。そこにもまた「東南陸行五百里」の陸行しなければならない必要があったことを物語っている。

 こうして私が糸島水道にこだわるのは、倭人伝の解釈に大きなかかわりを持ってい るからにほかならない。

 この地図の信憑性を疑う理由はないと思う。この地図によると「深江」は古冢期にはまだ海中にあったことになる。

 この地図を見て一つ思い出したことがある。「斯馬国」の比定地である。私は「遠絶」を「遠く離れている」という意に取り、さらに福岡県志摩郡は「伊都国の一部だったのではないだろうか」という理由で古田説を否定したが、訂正しなければならない。この地図によると、古冢期の志摩半島は完全に島だった。伊都国とは別の国と考える方が適切だろう。古田説を採ることにする。
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 コメント
この記事へのコメント
結論にはあまり影響しないかもしれませんが、『まぼろしの邪馬台国』の地図は古くて、最近の調査では縄文以降伊都・志摩間は泊-志登間でつながっていたとされています(私自身の調査でないので申し訳ありませんが・・・)。ネットでも検索できますからお確かめください。
2012/07/27(金) 23:16 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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