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551 新新宗教批判(17)
ヨーガにおける臨死体験
2006年7月15日(土)


 麻原彰晃がヨーガの修練によって生み出した臨死のイメージは次のようである。

(1)
 死の直前になると感覚器官が働かなくなる。まず音がきこえなくなることから はじまって、嗅覚も味覚も触覚もつぎつぎ弱まってゆく。生がまだあるうち身体 を構成している要素(地・水・火・風の要素)が分解されて自性(じしょう)に 還元される。肉体が地の要素に分解されると自分の体がぶよぶよになる感じにな る。この過程では、黒と黄色のまざった色がみえる。

 つぎに血液や体液が水の要素に分解される。鼻汁が出たり体がむくんだりす る。血液の流れも止まった感じになる。水に映る白い月の色のイメージがパッ、 パッときらめく。

 つぎに体温が火の要素に分解されてゆく。下腹部から冷えてきて、その冷たさ が背中を伝わって全身に広がっていく。自分の体が鉄になった感じになる。この 過程では朱色がみえる。

 終りに呼吸が風の要素に分解される。息苦しくなり、生命への執着がつのり、 死ぬのが怖いと痛切に感じる。じぶんの魂が青緑色をみている。呼吸がせわし くなり、最後の息を吐き出して、死んでしまう。


(2)
 死んだあとにも、すこしのあいだ魂が心臓のところに止まっている。天から 真っ白な光がおりてくる。この光は魂に甘味を感じさせる。この光は父親の精 液の象徴にあたる。

 つぎにへそのあたりから赤黒いエネルギーが上昇していく。これは母親の経 血の象徴にあたる。白い光と赤黒いエネルギーはアナハタ・チァクラ(みぞお ちのところの霊的センター)の内側に吸収されてゆく。著者の解釈ではこの過 程では両親から受けついだ遺伝的な要素が分解されて自性に還元される過程に あたっている。

 もうひとつ誕生のときすでにもっていた前世からの要素がある。これが分解 されなくてはならない。天から真黒い光でできた一本の道がおりてきて、やは りアナハタ・チァクラに吸収されてゆく。


(3)  つぎは死後の世界へ魂が行く。最初にまぶしい透明光が射し込んでくる。そこ にとび込めれば無色界に行くが、これは生前に修行をつんだものだけしか行けな い。そこに生れかわれば光の身体をもち、何千億年も生きられる。ここは仏教 で法界と呼ばれるところだ。著者はしばしばそこに訪れることがあると述べてい る。

 この光は、半日か一日つづくがこの光にとび込めなかった魂には、つぎの 光が射してくる。透明に近い白銀光でここにとび込めれば色界に生れかわれる。 仏教で報界と呼ばれているところだ。ここの食べ物は光、衣服も光でできてい る。やはり生前功徳をつんだ魂だけが行けるといっていい。

 この白銀光が消えると、美しい赤紫色の光が射してくる。この世界は、変化 身(魂身)の住む応界で、弥勒菩薩のいる兜率(とそつ)天がその世界の中心 になっている。釈迦もここから現世におりてきた。チベットのダライ・ラマも そうだ。この本の著者(麻原彰晃)もそうだとじぶんでいっている。著者がヒ マラヤ山中で修行をしているとき、挫けそうになるとパールヴァティー女神が 応界から、赤紫色の光線に乗って励ましに来たと述べている。

「普通の人間」は応界にも行けないから、つぎの光を待って、光から具象的な イリュージョンの世界になり、魂はじぶんに合った世界へとび込んでいくことに なる。死んでから四十九日目が最後の世界で、とび込んだあと、吸い込まれるよ うに落下してゆく。たいていの場合、性交のヴィジョンがみえ、無意識にそこへ とび込んでしまう。すると落ちてとまったところが子宮であったり、卵の中で あったりする。だから四十九日後には新しい世界に転生していることになる。
 死後一日目から次元が落ちていって、人間界は四十三日目くらいまでだ。四十 五日くらいになると動物界で、最後の四十九日は、地獄に生れかわることになる。

 以下、この麻原彰晃が記述した臨死体験のイメージに対する吉本さんの コメントを追ってみる。

 さすがにヨーガのすぐれた修練者らしく、この本の麻原彰晃の臨死体験の記述 は微細で、徹底的で、如実で、しかも最後に魂が性交の場面にとび込んで転生す る経路が内側から記述されていて貴重な興味ぶかいものになっている。もちろん この臨死体験の記述には、わかちがたく著者の信仰する原始仏教の理念と世界観 が混融している。


 当然のことながら、それぞれが信じている理念や世界観によって違ったイメー ジが形成されることになる。私(たち)のような「普通の人間」にも臨死 体験というものがあるのだとすればどのようなものとなるのだろうか。
 だが著者があっさり触れただけのわたしたち「普通の人間」の臨死体験の記述 が、もっと微細で具象的に内在化されていたら、もっと貴重だったろう。なぜな ら、「普通の人間」に臨死体験が存在し得るとすれば「死ねば死にきり自然は水 際立っている」とおもっているにもかかわらず、臨死体験のイメージが不可避的 にやってくるに違いないからだ。


 「死ねば死にきり自然は水際立っている」という言葉は、生死の問題に対する 吉本さんの基本的な立場を表している言葉で、吉本さんは好んでよく使う。 たしか高村光太郎の言葉だったかと思う。
 しかしながらヨーガ修行者としても麻原彰晃の臨死の記述は「普通の人間」に もなかなかに物珍しく貴重だ。そして興味ぶかい記述になっている。この本を読 んでいるとヨーガの肉体的な修練が、なぜ仏教の世界観である生死を超える理念 をつくるところにたどりつくかが、一個のヨーガ修熟者の記述を介して「普通の 人間」にも実感的にわからせるところがある。この記述は貴重なものというべき だ。


 続いて麻原彰晃は「死と転生」のプロセスの修練の体験を通じて、つぎのような認識 に達したと述べている。

①死後の世界の存在を確認できる。
②転生の秘密を知る。
③功徳(よいカルマ)と修行の必要性を理解する。
④功徳と修行以外が無力であることを知る。
⑤すると、この世のすべてが幻影だと感じるようになる。
⑥そのことから執着がなくなり、解脱への布石になる。

 これを吉本さんは『「普通の人間」の言葉でいい変えてみる』と次のように 書き換えている。

①死後の世界の存在のイメージがつくれる。
②転生のイメージを子宮にとび込むまでつなげられる。
③功徳(よいカルマ)と修行以外には、死後の世界のイメージをよくできる手 だてがない。
④死後の世界の存在というイメージを放棄しないかぎり、功徳と修行以外に人間のす ることは何もない。
⑤死後の世界の存在というイメージを確信するかぎり、現世は幻影と感ずるのは当然 だといえる。
⑥死後の解脱に最高の価値を与えるかぎり、ほかのことに執着がなくなるのもまた当 然だ。

 ここで吉本さんは『「普通の人間」の言葉』でのいい変えと言っているが、 むしろ私としては、常に現実との照応に基づいて物事を認識するという「科 学的」な立場からのいい変えといいたい。つまりヨーガの修行などによって 得られる意識の変容は、あくまでも意識や身体機能の減衰状態における幻覚であり「イメージ」の体験であることを改 めて強調したい。

 わたしたちはこの著書の「死と転生のプロセス」にたいする如実な体験と理念 の記述から、世々の仏教の僧侶たちの修行や生死観が、大なり小なり著者の記述 しているようなことだったのかと納得し「そうか、こういうことか」と手にとる ようにわかる気がしてくる。そして「なあんだ」と軽くかんがえるか「たいした ものだ」と重くかんがえるかは、それぞれの感じ方ということになるとおもう。
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