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《続・「真説古代史」拾遺篇》(98)



「倭人伝」中の倭語の読み方(41)
「21国」の比定:(15)不呼国(その一)


 この国名の訓みについて、水野氏はどのように解説しているか。その蘊蓄に耳を傾けよう。(決して皮肉っているわけではありません。学ぶことが多々あります。)

 「不」音は「フウ」「フ」「プ」「フツ」「ホチ」「ホツ」「ヒ」の音があり、「いなや(否)」「飛びかける」、「フツ」と発音すれば「……ず」「あらず」「せず」「しからず(不然)」と打消の助動詞になり、「ヒ」と発音すれば、「丕」に通じ、「おおいなり」の義となる。

 「呼」は音「コ」「カウ」「ケウ」で、「よぶ」「よびよせる」「さけぶ」「はくいき」「なげく」の義があり、「カウ」「ケウ」と転音すれば、「よぶ(談)」「ああ(つか〔憊〕れて発する声)」の義となる。

 国名は「フウコ」「フコ」「フツコ」「ヒコ」と訓めるが、一般に「フコ」と訓んでいる。

 「不」に「ヒ」という音があるとは知らなかった。手元の辞書では「ヒ」という音は挙げられていないが、意味解説の中に「丕に通じる」といった項目はある。図書館で「諸橋大辞典」を調べたら、「ヒ」音も挙げられていた。

 古田氏は対海国や一大国の官名に使われている「卑狗」を「ヒコ」と、つまり「狗」を「コ」と訓んでいるのに「呼」も「コ」と訓むのは不当だということを「俾弥呼」の訓みを論じているところで指摘している。(詳しくは『「邪馬台国」論争は終わっている。(10)』を参照してください)。「井に中」ではこの問題は全く議論されていないようだ。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
牧建二・橋本増吉
 「フコ」と訓み、肥前国島原半島北岸伊椙(いふく)村に比定。
宮崎康平
 「フコウ」と訓んでいる。肥後国益城郡の一部と、宇土郡の一部で、現在の熊本県益城郡城南町附近から、宇土半島の有明海岸にかけて、緑川河口と、白川河口のデルタの国で、中心は雁根山(木原山)北麓であろうと比定し、『和名抄』の益城郡の郷名に見える「富神」は、「フコウ」であって、この附近であったとする。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎
 「不呼」を備前国邑久に比定している。
内藤虎次郎
 美濃国池田郡伊福か不破とする。

 米倉説・内藤説には音訓のことが書かれていない。比定地から類推すると、両者ともに「フク」と訓んで、これまでと同様、類音地名探しをしたのであろう。

楠原説
 「フコ」と訓んでいるが、夏樹氏の洛陽古音による訓み「ホカ」とミックスさせて「ホコ」で比定地を探っている。そして、「福岡県糟屋(かすや)郡笹栗(ささぐり)町・久山(ひさやま)町・粕屋(かすや)町付近」に比定している。

地図検索してみたが、「笹栗」という地名は見当たらない。「篠栗」の誤植のようだ。「倭人伝」の記述からは邪馬壹国の東側と南側の範囲は不明だが、私は楠原氏の示す比定地は邪馬壹国か不弥国の領域内だと思う。その意味でもこの説は私(たち)の立場からは全く受け入れることはできない。ここで打ち切ってもよいのだが、楠原氏の地形や遺跡についての蘊蓄も大変参考になることが多いので、それを読んでおくことにする。

 長田夏樹「洛陽古音」ではホカだが、カはアリカ(在り処)・スミカ(住み処)のカだからアソコ・ココのコ(処)と同義で、このホカは後世の地名用語ではホコに相当する。ホ(穂・秀)・コ(処)で「鋭く尖ったところ」であり、「鋭峰に囲まれた地」でもあるだろう。

 博多津から東に7~10㎞、三郡山地の酉麓に多々良(たたら)川と支流の久原(くばら)川・猪野(いの)川の河谷が深い山ふところをつくる。川沿いの平野には扇状地が発達しているが、東の三郡山地と北と南の三方を山の囲まれた西に口を開けた地形はむしろ、小盆地といったほうが実態に合う。

 北西側は立花(たちばな)山(標高361.7m)・城ノ越(じようのこし)山(180m)の立花山塊が博多湾岸低地とをへだて、東は低い鞍部を経て三郡山地の犬鳴(いぬなき)山塊につながる。

 立花山は古くは二神(ふたがみ)山と呼ばれた霊峰で、山体は伊邪那岐(いざなき)・伊邪那美(いざなみ)になぞえられる。山腹には計六峰の支峰が吃立し、見る地点により山容が異なるという。仏像の明王(みようおう)像が握る三鈷(さんこ)鉾(ほこ)は穂先が三股に分かれているが、弥生期の鉾はどんな型だったのか。いずれにせよ、ホ(穂・秀)・コ(処)という語形から「倭人伝」の「不呼」の国名はこの山の山容から出たものかもしれない。  ただし、この国の中心は立花山の西麓の現。福岡市東区和白(わじろ)付近や北麓の現・古賀(こが)市ではなく、多々良(たたら)川流域に比定すべきだろう。

 多々良川の小盆地の南側には、乙犬(おといぬ)山(185.8m)・岳城(たけじよう)山(381.8m)・若杉(わかすぎ)山(581m)とつづく尾根が壁のように連なり、ホコ(鉾)型の鋭峰が突出する。そして東の三郡山地の主稜線の手前には、多々良川上流の渓谷できり離された前山の飯森(いいもり)山(356m)もそそり立つ。

 日本列島各地には、後世「小国(おぐに)」と呼ばれる小地域が散在する。いずれも、三方を山に囲まれた山ふところの小盆地である。弥生期、このような小盆地に一国が存在したとしても不思議はない。

 さらに、以下のような補強証拠をも考慮して、私は「不呼国」をこの地に比定する。

 この地形解説は、私(たち)の立場からは、邪馬壹国の東の境界を説明しているように読めるが、どうだろうか。宗像もその境界内に入ろう。

 氏は「補強証拠」を二つ取り上げている。地名伝説と古冢時代の遺跡である。これも上に述べた私の見解の「補強証拠」として読める。

女神たちの伝説

 前述した立花山のほか、この地域の山々には神々、とくに女神にまつわる伝説にいろどられている。若杉山は神功(じんぐう)皇后が戦勝を香椎(かしい)神社に祈願、鎧にさした杉の枝をこの山に植えた、という山名起源伝説が伝わる。

 また三郡山地の脊梁(せきりよう)部にある鉾立(ほこたて)山(663.2m)は『記紀』神話に登場し神武(じんむ)天皇の母神とされる玉依姫(たまよりひめ)が、鎮座すべき山をもとめて菅(すが)岳(682m)と比較、山の高さを競うため山頂に鉾を立てた、云々の伝説がある。

 この山も菅岳もともに高原状の平頂(へいちよう)峰で、ホコ(鉾)の名で呼ばれるような鋭峰ではない。あるいは、古くホカ=ホコと呼ばれた国名が山の名に残されたのかもしれない。

弥生遺跡の分布

 この地域の弥生遺跡としては、まず粕屋(かすや)町大隈(おおくま)の上大隈遺跡は弥生終末期に築造された円墳状の盛り土(直径18m、高さ1.5m)の下に箱式石棺が埋蔵され、舶載(はくさい)の花文(かもん)鏡ほか注目すべき副葬品多数が発掘されている。一帯は若杉山・岳城山・乙犬山の尾根筋につづく舌状台地で、箱式石棺や甕棺(かめかん)墓群の集中地帯でもある。

 約1㎞東方の篠栗(さきぐり)町和田(わだ)の部木原(へぎばる)遺跡では、弥生期の竪穴住居址5軒分と土壙(どこう)墓・箱式石棺が発掘されている。また、篠栗町から粕屋町にかけては古墳が密集し、とくに前記した粕屋町大隈には弥生後期の高塚式の原始古墳も発見されている。

古田説
 古田氏は「俾弥呼」を「ヒミカ」と訓んでいるのだから、当然この国名は「フカ」と訓むことになる。「不呼国」について、氏は次のように述べている。

「不呼(フカ)国」。筑前国(福岡県)に「深江」がある。唐津湾に近い。ここではないだろうか。けれども、「深津郡(備後国)」や「深川郷(長門、大津)」など「深」のつく地名は、他にも少なくない。後にのべる「不定」のケースの一つであろう。

 つまり、決定的な決め手のないケースとして比定を保留している。(16)「姐奴国」・26「巴利国」などについても保留をしている。何が何でもむりやりにこじつける諸大家とは異なり、これこそ学問的な態度というべきだ。しかしながら、大した根拠は提示できないだろうが、あえて私なりの比定を試みてみようと思う。
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 コメント
この記事へのコメント
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
2012/09/10(月) 15:01 | URL | 株投資 #-[ 編集]
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1 :サーバル(新疆ウイグル自治区):2013/06/22(土) 20:57:47.01 ID:JwHjltNQ0 ?PLT(12000) ポイント特典邪馬台国の有力候補地 史跡指定答申の纒向遺跡 奈良産経新聞 6月22日(土)7時55分配信■「保存、...
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