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《続・「真説古代史」拾遺篇》(97)



「倭人伝」中の倭語の読み方(40)
「21国」の比定:番外編 「伊都」の意味


 「邪馬壹国の諸問題」の〔補注2〕に戻ろう。「好古都国(その一)」で引用した書き出し部分も再読しながら始める。また漢籍からの引用文が数件あるが、学習の機会なので煩をいとわずそれらについても詳しく調べることにする。

「伊都国」の表音表記について

 倭人伝の中に「ト」の音に相当する表記として「都」字が用いられている。「伊国」がそれである。これは明らかに現地音の漢字表記である。今、この国名について簡明な論証を加えよう。

 周知のように、倭人伝にはつぎの一節がある。
○南至邪馬壹国。女王之所。  すなわち、邪馬壹国は倭国の王の「都」としてとらえられている。

 一方、この「都」字は、右の「伊都国」にしめされている如く、現地音「ト」の類の音の漢字表記として使用されている。
  都ト〔集韻〕東徒切
   ツ      刀、乂
          刀、又

 したがって、もしかりに「ヤマト」という現地音の地名が倭王の治所であったとしたら、そのとき陳寿は当然これを「邪馬」と表記したものと思われるのである。

 なぜなら、現地音の漢字表記のルールは、すでにしばしばのべた通り、
 (ⅰ) 表音的段階 ― 多字選択
 (ⅱ) 表意的段階 ― 一字選択
の二段階を経過するのであるから、第二段階において、「ト」の現地音に対して、この場合「都」字以上にふさわしい文字はありえないのである。

 上の引用文には少し説明が必要だろう。

 尾崎雄二郎氏は「純粋表音主義」と呼ばれている説を立てている。おおよそ次のようである。

 陳寿は倭語の音を漢字表記するとき、当時の「韻書」によって、その各音韻グループの先頭の文字(「小韻の首字」、使用頻度が最も高い文字)を選んだだけである。つまり、その漢字は偶然用いられただけであり、深い意味はない。

 この説にもとづいて尾崎氏は「邪馬臺国」の「臺」の字は偶然選ばれただけの文字であると主張した。上の引用文はそれに対する反論の補注である。

 この引用文によると、当時は古田氏も「倭人伝」の倭語は陳寿が表記したものと考えていたことが分る。氏は現在ではそれは倭人による表記という説に立っている。私(たち)もその古田説を肯定して、それを前提として議論を進めている。しかし、その立場でも表音文字の「二段階の経過」説は有効だ。

 さて、「伊都」の表意的意味を知りたく〔補注2〕を取り上げたのだが、そこで行われている議論は「陳寿による表記」が大前提になっているので、「倭人による表記」という立場からは無効のように思われるが、どのように議論が展開されるか、ともかく古田氏の論説を読んでみよう。

 この「伊都国」という表記は、洛陽にあった史官陳寿にとって、深い典拠と類縁を有したものであると考えられる。なぜならば洛陽の近傍にこれと相関する字面をもつ「伊闕」の地があったからである。

 そして、次のようにいろいろの漢籍から「伊闕」を含む記事を抜き出している。氏は原文を掲載しているが、ここでは読下し文を付記しておく。(『中国古典文学大系』(平凡社)・『後漢書』(岩波書店)などを参考にしている。語句の注記はそれらの本からの転写。『 』内の文は古田氏のコメント。( )内の文は私のコメント。)

A
十四年、左更白起、攻韓魏於伊闕。斬首二十四万、虜公孫喜。抜五城。(『史記』秦紀)

十四年、左更白起、韓・魏を伊闕(いけつ)に攻む。首を斬ること二十四萬。公孫喜を虜にして、五城を抜く。


伊闕
 韓の地名。河南省洛州の南十九里に在る。(正義)

B
塞轘轅伊闕之道。(『史記』淮南王伝)

轘轅(かんえん)・伊闕の道を塞ぐ。


轘轅
 山の名。今の河南省偃師県の東南。地形が険しく、山道に12のカーブがあって、曲がりくねっていたので、轘轅(ぐるぐる回り、行ったり来たりする)と名づけられた(『全注』)
伊闕
 山の名。今の河南省洛陽市の南。二つ山が闕(宮門の左右両側の望楼)のようにそびえ、その間を伊水が流れていた。(『全注』)

C
舜乃使下禹疏三江五湖闊伊闕導中廛澗上。(『淮南子』本経訓)

舜乃ち禹をして三江五湖を疏し、伊闕を闢き、廛澗(てんかん)を導く。


伊闕
 河南省の山名
廛澗
 廛水・澗水の流れ

D
背伊闕。越轘轅。(曹植『洛神賦』)

 伊闕をあとにし、轘轅山を越える。(曹植『洛神賦』)


(曹植は曹操の三男で文才に恵まれ、曹操に溺愛されたという。曹丕との後継者争いに敗れた後は最期の時まで厳しい迫害を受け続けたという。『洛神賦』は「顧愷之《洛神賦図巻》と曹植『洛神賦』」で全文読むことができます。読下し文はそのサイトからの引用です。)

E
中平元年、置八関都尉官。(『後漢書』霊帝紀)
〔注〕謂函谷・広城・伊闕・大谷・轘轅・旋門・小平津・孟津一也。

中平元年、八関に都尉官を置く。
〔注〕八関とは、函谷・広城・伊闕・大谷・轘轅・旋門・小平津・孟津を謂うなり。


F
霊帝中元元年以河南何進為大将軍率五営士屯都亭。置函谷・広城・伊闕・大谷・轘轅・旋門・小平津・孟津等八関。都尉官治此。

(「霊帝紀」にこれに該当する文がない。また、「霊帝」には「中元」という元号はない。「中平」の誤植だろう。さらにまた、「以河南何進為大将軍率五営士屯都亭」は「中平元年三月戊申」条の文であり、後に(E)の「置八関都尉官」が続く。つまり「置函谷…」以下の文はどこからか紛れ込んだ文のようだ。「皇甫嵩(こうほすう)朱雋(しゅしゅん)列伝」に同類の文があったので、それで代えることにする。)

F
詔して州郡に勅して攻守を修理し、器械を簡練し、函谷、大谷、広成、伊闕、轘轅、旋門、孟津、小平津の諸関自(よ)り並びに都尉を置く。

(長い脚注が付いている。)

注に、
「大谷と轘轅は洛陽の東南に在り、旋門は汜(し)水の西に在り」。
 ただし、『資治通鑑(しじつかん)』漢紀五〇の胡三省(こさんせい)の注には次のようにある。
「函谷関は河南穀城県(洛陽の西北)に在り。(李)賢曰わく、大谷は雒(洛)陽の東に在り。広成は河南新城県(洛陽の南)に在り。京相璠(けいそうはん)(『春秋土地名』)曰わく、伊闕は雒陽の西南五十里に在り。轘轅関は緱氏県(河南省偃師の南)の東南にあり。『水経注』(五・河水)に曰わく、旋門坂は成皐(せいこう)県(河南省滎陽汜水鎮)の西南十里に在り。孟津は河内河陽県(河南省孟津の東)の南に在り。小平津は河南平県(河南省孟津の東)の北に在り。賢曰わく、今の鞏県(河南省鞏義)の西北に在り。杜佑(とゆう)曰わく、洛州新安県(河南省新安)の東北に漢八関城有り」。
 杜佑云々は、『通典(つでん)』一七七・州郡典七・河南府寿安県(河南省宜陽)の条に、「又た後漢の八関城有って県の東北にあり。函谷関都尉の理(おさ)むる所」とあるのの誤り。

(いろいろな説があるが、どの説によっても「八関」は洛陽を取り巻くように在るようだ。洛陽から伊闕までの距離については19里・50里の2説があるが、秦紀・後漢書での注だから長里と考えてよいだろう。長い方の50里を取ると約22㎞ぐらい。かなり近いと考えてよいだろう。)

『この「伊闕」は春秋時代の周の闕塞に当たる。』

使女寛守闕塞。(『左氏』昭二十六)
(注)洛陽西南伊闕口也。

女寛(ぢよくわん)をして闕塞(けつさい)を守(まも)らしむ。
(注)洛陽の西南、伊闕の口なり。


闕塞
 洛陽の西南にある伊闕山。両山が相対峙して闕の如くに見え、その中を伊水が流れたので伊闕と呼んだ。要塞として有名。

(ここの「闕」は「宮城の門」という意味だ。ただし、「宮城・天子の居所」という意味のある。また、「伊」は「伊水」の「伊」と解説しているが、逆に「伊闕」の「伊」をとって「伊水」と呼ぶようになったとも考えられよう。古田氏は後者を取っていると思う。)

 さて、以上の引用文を受けて、古田氏は次のように続けている。

 そして(伊闕は)右のE・Fにあるように漢の霊帝の八関の一であり(中元(ママ)元年は西暦184)、洛陽の西南にあたる関塞であった。

 「伊闕」の「闕」は、天子の居所たる宮殿の意義であり、「伊」は「伊邇」(イジ、〝コレチカシ″の義で、近傍なるをしめす)の熟語にある発語の辞である。

不遠伊邇、薄葬我畿。(『詩経』邶風、谷風)

遠からず伊(こ)れ邇(ちか)く 薄(ここ)に我が畿に送る


 「伊」そのものに直接「近」の意義があるわけではないけれども、この『詩経』の著名な詩句のイメージからしても、首都洛陽なる宮闕の西南関を擁する地として、「伊闕」地名は、きわめてふさわしき字面として洛陽の人々には感ぜられていたであろう。(この地に「伊水」もある。 ― 『史記』秦本紀正義、注水経)しかも、先の淮南子の例Cにあるように、この「伊闕」をひらいたのは聖天子禹である、という伝承がともなっていた。この禹の東治、五服の制を典範としつつ、その古制(夷蛮の王の、中国の天子への朝貢の礼)を今に守る国として、倭国を描き、その中心国家として「邪馬壹国」の名をはじめて記したのが『三国志』の著者陳寿であった。

 こうしてみると、この女王の都する国の西隣にあって、「郡使の常に駐まる所」として、その関塞の如き位置を占めた「伊都国」に対して、「伊都」の字面があてられたのは偶然ではないであろう。

 すなわち、この「伊都」の「都」は、その地そのものを「都」と見なしているのではなく、ほかならぬ「邪馬壹国」のことを指しているのである。すなわち、「伊都」とは「女王の都に遠からず伊邇たる地」の意義をもつのである。

 これは中国側の「伊闕」が「宮闕」の存する当の地ではなく、中心地洛陽に隣接した関塞であったのと同様なのである。

 「郡使の常に駐まる所」であり「特に一大率を置き、検察せしむ。諸國之を畏憚す。常に伊都国に治す。」という国にピッタリの魅力的な解釈である。しかし、この解釈が倭人による表記としても通用するかどうかが問題だ。

 「発語の辞」という、これもまた私にとっては初めての用語に出会った。ネット検索していたら「助字とテニヲハ 伊藤東涯『操觚字訣』を中心に(佐藤宣男)」という論文に出会った。そこには次のような解説があった。 『詩経』の「抑此皇父」における「抑」のように,「上ヲ承,端ヲアラタメテ,下ヲトキ出ス」場合を「発語之辞」といい,…

 「発語の辞」がこうした役割の辞だとすると、「伊」と「邇」を特別に結び付ける言語感覚が、陳寿にはあったとしても、陳寿の同時代人の共有されていたとは考えがたい。試みに、「中國哲學書電子化計劃」さんのところで「伊邇」を検索してみたら、上記の『詩経』の一例しかなかった。

 ましてや、「倭人伝」中の倭語が倭人による表記だとすればなおさら成り立ちがたい。倭国の知識人の中に中国からの渡来人がいたとしても(俾弥呼は魏帝と国書の遣り取りをしているほどだから、渡来人がいた可能性は十分にある)、「伊」を「近い」という意として用いるほど漢籍に通暁した倭人がいた可能性はほとんど無いのではないか。

 「伊都国」問題は、「伊都」が表意表記かどうかという問題にまで戻らなければならないようだ。今のところ、私にはまったくお手上げ。この問題とはしばらくお別れします。

(7月10日付の「愛読者」さんのコメントに「単なる思い付きです」という断わり付きですが、一案が書かれています。この案も視野に入れて考えていこうと思っています。)
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