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《続・「真説古代史」拾遺篇》(92)



「倭人伝」中の倭語の読み方(35)
「21国」の比定:(13)弥奴国(その二)


 楠原説に戻ろう。氏は「ミノ」の語源を「ミ(水)・ノ(野)」と分析した。続けて、「ミノ」と呼ばれている(あるいは呼ばれていた)地域探しを始める。
 ところが困ったことに、ミズノ(水野)にしろミノ(美濃・三野・美野・蓑)にせよ、私が想定する北九州には該当する地名がないのである。福岡県浮羽郡・久留米市と八女郡を分けて東西に走る耳納(みのう)山地の名は、大阪府箕面(みのお)市などと同じくミネ(峰)・ヲ(峰=尾根のヲ)が語源で、はじめ想定していたミノ・ミヅノ(水野)とは違った語源の地名である。

 「愛読者」さんから私の論説を補足してくれるような貴重なコメントを度々頂いている。6月21日付のコメントに
「水縄・耳納」が「弥奴国」の可能性もあるのでは?」
という指摘があった。楠原氏は「ミ(水)・ノ(野)」とは語源が異なるという理由でこれを退けている。私(たち)は「ミ(水)・ノ(野)」を探しているわけではなく、「ミ(水)・ノ(野)」は候補地の一つに過ぎない。耳納の楠原語源説が正しいとしても、それは耳納を排除する根拠にはならない。今のところ耳納も候補地の一つである。

 氏はもう一つ類音地名「ミネ」を取り上げて、「ミ(水)・ノ(野)」を捨てて、「もし」という保留付きながら、いきなり「筑前国宗像郡」を比定地と断定している。次のようである。

 肥前国三根(みね)郡のミネも、のちの県主名に「嶺(みね)県主」の名があるのでミノ・ミヅノ(水野)ではないだろう。もし「弥奴」が「峰」系の地名だとすれば、私は肥前国三根郡ではなく、むしろ筑前国宗像郡のほうに比定する。

 その理由の一つは、長田夏樹「洛陽古音」では[発音記号が書かれているが略す]でムナ・ミナと音訳しているからである。もう一つの理由は、「倭人伝」に「弥奴」の次にあげられている「好古都」「不呼」の比定地との位置関係からの判断がある。

 またしてもその根拠の一つは「洛陽古音」である。何度も言ってきたが、「奴」に「ナ」という音はない。また氏は「不弥」を「ホミ」と訓んでいるが、ここでは「弥=ミ」が「ム」に音韻変化したと言いたいらしい。これも身勝手な推測に過ぎない。このようなわけで、ここから以降の楠原氏の「弥奴国」比定の議論は私には無縁となるが、この際氏の最大の錯誤「私が想定する北九州」、氏の用語で言うと「女王国の版図」を批判しておこう。

 『楠原氏の「女王国の版図」(2)』で確認したように楠原氏は「女王国の版図」を九州北部に限定している。九州に限定したのは「旁国」の「旁」を「かたわら。脇」という意としたことがその理由であった。また、北部に限定したのは「女王国連合」と敵対する「狗奴国」を熊本県に比定し、熊本県以南は「狗奴国連合」と考えたことがその理由であった。このような根拠で描かれた「女王国の版図」を、もちろん私は納得していない。この版図は「女王国連合」を矮小化している。

 倭国の諸国家が「部族的国家」であるという認識には、たぶん、異論はないだろう。では「部族的国家」とはなにか。「国家の起源とその本質(5):<部族国家>とは何か。」から、「部族的国家」形成にいたる権力論的側面の論述を再録する。

「これを権力論的にいうならば、他共同体との掠奪・支配をめぐっての抗争とりわけときに部族全体の存亡・興廃を賭けた<戦争>が、主要とはいわないまでも極めて重要な協同社会的活動としての位置を占めることによって、<部族的共同体>の政治的かつ軍事的性格、正確には<共同体(部族)-即-国家>としての<外的国家>構成は力強く進展し、軍事指動者すなわち戦争遂行における指導者の、<外的国家>構成における当初は名目的かつ形式的な第一人者的地位が、対内的立場すなわち祭司的・政治的(正確には共同体的公務への関わり)かつ経済的地位における第一人者的立場へと、徐々にだが確実に.転化しつつある、<国家>形成の過渡的段階である。」

 一般に部族的国家形成の当初は祭祀・軍事・政治・経済の権力構造は未分化で第一人者の手中にゆだねられていた。やがて官位制が整えられるに従って、一人の王のもとに祭祀・軍事・政治・経済を司る組織分化が起こり、それぞれの最高位の者に各分野の権力掌握がゆだねられるようになる。

 部族的国家においては内的国家(共同体-内-国家)統治の要となるのは祭祀(共同幻想)であることは容易に想像できる。やがて、国家は外的国家として他国との抗争において有利に渡り合うために連合体を形成するようになる。そのとき、連合を推進する要となるのもやはり祭祀(共同幻想)にほかならない。同じ祭祀をもつ国家同士が部族国家連合体を形成する。もちろん、それらの国家が当初から同じ祭祀を奉じていたとは限らない。征服国家が被征服国家に自らの祭祀を押しつける(あるいは共同幻想を交換する)というような経過を経た上での連合も多々あったことだろう。倭王武の上表文

昔より祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を脱すること六十六国、渡りで海北を平ぐること九十五国。

は、まさに九州王朝の「祖禰」が部族国家連合体を形成していった経緯を表現している。その連合体の版図は現在「銅剣・銅鉾・銅戈圏」と呼ばれている領域にほかならない。「銅鐸圏」は異なる祭祀によって統合された別の部族国家連合体である。ただし「銅鐸圏」の喉元には、イワレヒコが拠点を確立し、その後姻戚関係を軸に勢力を拡大していった邪馬国(大和)という異物が刺さっていた。ともあれ、この二つの部族国家連合体の構成人を総称して魏書は「倭人」と呼んでいた。

 この「銅剣・銅鉾・銅戈圏」こそ「女王国の版図」にほかならない。「21国」を全て北九州に押し込めてしまうのは不当である。また今さら言うまでもないことだが、改めて次の事を確認しておこう。一つは「女王国の版図」内の国がこの「21国」だけではない。また、私(たち)はこの「21国」のを「魏親倭国」と呼んでいる。

古田説

 次は「弥奴(ミヌ)国」である。「美濃(岐阜県)」がある。「邪馬(ヤマ)」や「為吾(イゴ)」が奈良県とすれば、その東隣の岐阜県の「美濃」が出現していても、不思議はない。

 古田説はこれで全部である。後に詳しく取り上げるが、古田氏は「為吾国」を「生駒(イコマ)に比定している。

 私にはこの「美濃」説も受け入れられない。楠原氏とは異なる「版図」だが、理由は同じ。「女王国の版図」に入らないからだ。「美濃」は銅鐸圏内の国である。もちろん、銅鐸圏内の中にも「魏親倭国」があってもおかしくはないという考えのあるだろうが、私には考えがたい。

東の方十二道に遣はしてまつろはぬ人等を和平(やは)さしめき。」(崇神記)

とある通り、「美濃」は崇神による銅鐸圏への侵略のときに初めてヤマト王権の勢力圏に組み入れられた。

 では「弥奴国」は何処か。この三・四日いろいろと考えてきたが、いまだに考えあぐねている。もう少し調べなければならないようだ。とりあえず、ここまの記事をロードアップしておこう。(つづく)
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この記事へのコメント
1、古田氏は1977年時点で、西暦2~3世紀、つまり卑弥呼時代の青銅器分布図を挙げ①(一)西A圏:広矛、広戈圏域の九州・筑紫②(二)東A圏:平剣圏域の瀬戸内③(三)B圏:銅鐸圏域の摂津・三島(④沖縄⑤関東東北も)という「一圏一王朝」を想定されていました。(『古代史の宝庫』朝日新聞社1977年・「『倭人も太平洋を渡った』補一 日本の古代史界に問う1」HPで公開による)
 そうであれば女王圏境は九州と瀬戸内の堺となります。
2、5世紀末の倭王武の言う「祖禰」が何時のころからか定かでありませんが、「東の毛人を征した」のが3世紀卑弥呼以降の九州王朝の天子であれば、卑弥呼の女王国の範囲は九州とその近辺に止まっていたことになります。(倭国とか倭人・倭種とは別の概念です)
3、倭人伝に「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり」とありますが、この千里が短里で約76キロですから、九州より東は女王国でなかったという根拠にもなるのでは。
 以上、古田氏の過去の論理からすれば21国は九州とその近辺に求めるべき事になりますが、どうでしょう。
2012/06/26(火) 00:13 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
(追加です)
楠原氏は「(耳納は)ミネ(峰)・ヲ(峰=尾根のヲ)でミノ・ミヅノ(水野)とは語源が違う」と言いますが、耳納は「水縄」とも書くのですが・・・自分で勝手に定義し違うといわれても何とも言いようがないですよね。
2012/06/26(火) 16:23 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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