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《続・「真説古代史」拾遺篇》(90)



「倭人伝」中の倭語の読み方(33)
「21国」の比定:(12)郡支国(その二)


 古田氏の論説の中では言素論を適用した「チリ」の解釈や、「キ」は「柵・要害」をしめすという解釈は納得できる。しかし、肝心の「クキ」と「チリク」を結びつける論理が分らない。

 「チリ」が古田説の通りの意味だとすると地名としての語幹は「ク」である。美称の「チリ」を取って、語尾に柵・要害という意味の「キ」を付加して「クキ」という地名ができたと言っていると思う。それにしても、一音地名「ク」なんてあり得るのだろうか。一音地名としては「奴国」があるし、「紀伊国」はもとは「木の国」だったのが好字令で「紀伊」という表記に変わったと言われている。あるいは「襲(ソ)の国」というのもある。そうすると「ク」という国名もあり得るかもしれない。では、あったとして、それはどのような意味を持つ地名なのだろうか。このような疑問も出てくる。

 「クキ」と「チリク」との結びつきについては、次のように解釈できるだろうか。
 古来から「チリク」と呼ばれていた地名が三世紀頃には「チリ」という美称を止めて「キ」を語尾に付加して「クキ」と呼ばれるようになった。そして現在では元に戻って「チリク」が使われるようになった。
 あるいは古来から、おそくとも三世紀頃までは「クキ」と呼ばれてきたが、三世紀以降のどこかで「キ」を取って「チリ」という美称を語頭に付加して「チリク」と呼ばれるようになった。
 いずれもその根拠は無く、納得できない。

 また、『「語末」に来る「ク」が本来の語法を反映している可能性が高い。』と言っているが、ここの「本来の語法」の意味も分らない。いずれにしても、古田氏の「クキ」と「チリク」を結びつける説明は、私にはこじつけとしか思えない。

 試みに古田氏は「語末」に「ク」がは珍しいと言っているので、そのような地名を調べてみた。(『日本古代地名事典』)

いさく…薩摩国伊作郡
いふく…備前国御野郡伊福郷
おおく…備前国邑久郡
おふく…長門国意福駅馬
きく……豊前国企救郡
きとく…讃岐国那珂郡喜徳郷
さく……信濃国佐久郡
しらく…丹後国加佐郡志楽
そはく…越前国今立郡曾博
たかく…肥前国高来郡
やく……但馬二方郡陽口郷
やく……丹波国天田郡夜久郷
やく……大隅国益救郡
わく……丹波国天田郡和久郷

 たとえば「たかく」。「タカ」は「高い・大きい・立派な」などの意をもつ接頭語。この「タカ」を取り、代わりに語尾に「キ」を付加して「クキ」となった。こんな説も作れてしまう。

 原点に戻って「クキ」と呼ばれる土地を調べてみよう。『日本古代地名事典』には二例掲載されている。

くき[久喜]
 『和名抄』長門国厚狭郡に「久喜郷」で見え、山口県美祢郡秋芳町の地かという。「くき(岫)」の意で、山の穴のある所をいう。

くき[洞]
 『仲哀紀』8年に「洞(くき)の海の入江」が見え、北九州市の洞海湾をいう。「くき(漏)」の意で、湾口の狭い隙(すきま)間の水路をいったであろう。

前者について。
 秋芳町にはあの有名な秋芳洞がある。「岫」には確かに「くき」という和訓があるので、この語源説には納得できる。「クキ」は秋芳洞に由来すると考えられる。三世紀頃、秋吉台中心とする近辺一体に国が建てられていて、この地方の特異な風物である秋芳洞を国名として選び、「クキ」を名乗った、と考えることもできなくはない。しかし、秋吉台は農業、とりわけ水田耕作には不向きの土地のようだし、この一体にはこれと言った考古学的遺跡・遺物もないようだ。文献的裏付けも得られない。ここを「郡支国」に比定することにはためらわざるを得ない。

後者について
 「洞」にも「漏」にも「くき」という訓みはない。その点ではここの語源説明には疑問が残る。しかし、「湾口の狭い隙間の水路」のような地形を倭語で「クキ」と呼んでいて、意味の類似からそれに「洞」という漢字を割り当てたということなら納得できる。現在は「洞海湾」とかいて「どうかいわん」と呼んでいるが、これは明らかに「仲哀紀」「洞(くき)の海」からの命名であることは明らかだ。該当の「仲哀紀」記事を読んでみよう。

皇后(きさき)、別船(ことみふね)にめして、洞海(くきのうみ)〈洞、此をば久岐(くき)と云ふ。〉より入しりたまふ。潮(しほ)涸(ひ)て進(ゆ)くこと得ず。時に熊鰐(わに)、更(また)還(かへ)りて、洞(くき)より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進(ゆ)かざることを見みて、惶(お)ぢ懼(かしこま)りて、忽(たちまち)に魚沼(うをいけ)・鳥池(とりいけ)を作りて、悉(ふつく)に魚鳥(うをとり)を聚(あつ)む。皇后、是の魚鳥の遊(あそび)を看(みそなは)して、忿(いかり)の心。稍(やうやく)に解けぬ。潮の滿(み)つるに及びて、卽(すなは)ち岡津(をかのつ)に泊りたまふ。

 かつて「九州王朝の形成」で「前つ君」による「九州東・南部討伐譚」を取り上げた。その「前つ君」の討伐は周防の娑麼(さば)から始まっている。上の記事はその「討伐譚」記事に関係する一節である。

 「前つ君」が周防の娑麼に行くためには関門海峡を通過しなけれなければならない。「郡支国」がこの「クキ」を中心とする国だとすると、そこは関門海峡の入り口に位置して、九州王朝にとって重要な拠点ということになる。「前つ君」の時代だけでなく、邪馬壹国の時代にも倭国の重要な拠点の一つであったはずだ。

 以上により、私は「郡支国」を北九州市の洞海湾を中心とする一帯に比定したい。「諸大家」の中では牧建二氏が「クキ」という正しい訓みを採用して筑前国遠賀郡洞(くき)に比定していた。その論拠を知るすべが私にはないが、多分「仲哀紀」の記事だったのではないだろうか。はからずも牧氏と同じ比定地を選ぶことになった。

(「九州王朝の形成」を取り上げたのはずいぶん以前のことだ。日付を確認したら2005年8月だった。古田理論を知ったばかりの頃だった。古田古代史に興味を持ち始めてからもう7年になるのか、と感慨深い。その当時、「九州王朝の形成」に関係する『日本書紀』の記事で疑問に思うことがあったのを思い出した。それについて何か進展があるだろうかと、「新古代学の扉」を検索していたら、私の疑問を見事に解いている記事に出会った。山田宗睦氏の講演録「古田史学の意義と日本書紀の研究」の中の「九州平定の解明」です。まだお読みでない方、お薦めします。)
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この記事へのコメント
 山田宗睦さんの論文は「日本書紀の地名、二つ」(『古田史学の諸相・季節通巻第12号』エスエル出版会・1988年8月15日)に掲載されています。この本は古田さんと、彼に共鳴した多くの識者との鼎談などが載っている偏見の無いいい本です。
 実は同じ盗用の手法が『書紀』の「斉明の筑紫遠征」にも用いられています。
斉明3年から4年にかけての九州王朝の天子の「那大津発ー難波宮経由ー紀温湯」への往復旅行をばらばらに切り離し、①3年10月の天子の筑紫から難波への「行きの航海」を、7年10月の「那の大津から難波への斉明の喪の航海」に、②4年1月の天子の「難波から筑紫への帰路」を、7年1月難波から筑紫への「斉明の筑紫遠征」に仕立てています。
 そう考えると「御船帰りて那大津に至る」の謎も解け、かつ暦日干支を4年に合わせると那大津着の7年3月「庚申」25日のは4年2月「庚申」7日に、熟田津泊の7年1月「庚戌」14日は4年1月「庚戌」27日となり、熟田津ー那大津間は僅か9日程と常識的な日程となります。『書紀』のあきれた盗用手法がここでも使われていると考えています。
2012/06/18(月) 17:46 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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