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《続・「真説古代史」拾遺篇》(89)



「倭人伝」中の倭語の読み方(32)
「21国」の比定:(12)郡支国(その一)


 この国の漢字表記を「郡支」ではなく「都支」を用いる論者がいる。いま私が資料にしている四者では水野・古田の二氏が「郡支」を採用し、長田・楠原の二氏が「都支」を採用している。どうして二通りの表記が流布しているのか。このことの経緯を古田さんが詳しく記述している。その概略を紹介する。

 三国志の最古の版本は「紹熙本(南宋)」と呼ばれている。これは日本の皇室図書寮にあったものである。これを中国の学者・張元清が写真撮影をして持ち帰った。氏はこれを最良の版本として自らが編集した「廿四史百納(ひゃくのう)本」の中に、収録した。古田氏は「紹熙本」を三国志研究の基本史料としてきた。

 『倭人伝を徹底して読む』(大阪書籍、1987年11月刊)の先頭に収録したのはその写真版であった。そのあと、同書が朝日文庫(1911年7月刊)として再刊されが、その写真版が〝同じく″掲載されていた。再刊なので古田氏は直接タッチしていない。古田氏は当然編纂者が〝同じく″掲載したと思っていた。

 ところが、読者の指摘により、「大阪書籍版」の写真版と「朝日文庫版」の写真版はともにおなじ「紹熙本」のはずなのに違いがあることが判明した。「大阪書籍版」では「郡支国」となっているところが、「朝日文庫版」では「都支国」なのだった。ミステリーですね。

 このミステリーを解いたのはミネルヴァ書房社長の杉田啓三氏だった。杉田氏が発見した内容については、ミネルヴァ書房版『倭人伝を徹底して読む』所収の「日本の生きた歴史(六) 第三 最小・最高のミステリー」が詳細で分りやすいのでそこから引用しよう。

 社の応接室で、わたしの話を聞き、両方を見比べているうちに、

「これは作り直していますよ。」

との声。
「『大阪書籍版』で欠けている、些少の個所が、『朝日文庫版』の方では、補われていますよ。ここも、そうですよ。単に同じ『写真版』の〝写し″ではないですよ。新たに版を〝作った″んですよ。」
と。さすが「プロの目」。即座に〝見破られ″たのでした。

 わたし自身、「目のウロコ」がとれた思いだったのです。

 つまり、張元清が日本から持ち帰った写真を〝もと″にして、新たに「版」を作った。その中国側による「新版」だったわけです。

 その作業の中で、「『郡』を『都』と〝まちがえた″」
 これが真実だったのです。

 岩波文庫版の『魏志倭人伝』にも「百納本」が掲載されている。ミネルヴァ書房版『倭人伝を徹底して読む』に掲載されている本来の「紹熙本」と見比べてみた。「紹熙本」では擦れている文字が「百納本」では鮮明になっている個所を何カ所か確認できた。しかし、「紹熙本」の「郡支」ははっきり読みとれる文字である。これを「都支」としたのは明らかに書き換えたとしか考えられない。どのような意図があったのかは、もちろん私には想像もできない。

 ちなみに、「倭人伝 原文」でネット検索した。初めの一ページにあった六つのサイトを調べたが、「郡支」は一件しかなかった。あとは全部「都支」を採用している。筑摩書房の世界古典文学全集『三国志』は「中華書局刊行の標点本」を底本にしている。「都支」だった。「中華書局刊行版」は「百納本」を用いているのだろう。「中華書局刊行版」を信用して、これを底本にしている人も多いようだ。しかし、私のような一般人が最も手に入れやすいのは岩波文庫版である。想像するに、この「誤記」流布の元凶は岩波文庫版だろう。文庫版の読下し文は「都(郡)支国」と二通りの表記があることを示唆しているが、何の注記も記していない。また、百納本は「対海国」「一大国」なのに、岩波文庫版は前者を読下し文で「対馬国」に改訂して何の注記もない。後者については読下し文で「一大国」をそのまま採用しているが注記で「一支国の誤」と解説している。罪作りな本だ。

 さて、「郡支国」も倭語を音写したケースである。漢字の意味を詮索しても意味はない。水野氏の漢字の意味詮索の部分は省略する。

水野氏は「已百支国」の訓みについては「支」の訓みとして「シ」しか挙げていないのに
『一般に、「イハキ」「イホキ」と訓まれていて」
と、述べていた。しかし、これは諸説の紹介であって、ご本人は「キ」ではなく「シ」と読みたかったようだ。「郡支」については
『「郡」は音「グン」、……「支」は前の通り「シ」。これも音訳と思われる。』
と述べている。つまり「グンシ」と訓んでいる。しかし、所在地の比定は行っていない。

 それでは他の大家たちはどう比定しているだろうか。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石
 「クシ」と訓み、豊後国球珠郡に比定。
牧建二
 「クキ」と訓み筑前国遠賀郡洞(くき)に比定。
宮崎康平
「クォキ」と訓んで、川に沿っていくつもの台地が突出し、川と丘の国で、有明海が深く入りこんで、杵島(きしま)山が島であった頃の水陸の便のよかった所に立地していた、肥前国小城郡(おきのこおり、現在の佐賀県小城郡および多久市附近の地と比定。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎
 『国造本紀』にみえる「波久藝國」だとして、周防国玖珂郡の沿岸地方かとする。

 米倉説の挙げている「波久藝」は「ハクギ」と訓まれている。つまり、米倉氏は「郡支」を「クギ」と訓んでいるようだ。

楠原説
 楠原氏はいきなり「タキという地名だが……」と始めている。「タキ」と訓む理由は何も述べていない。ただ、後の方で
『「倭人伝」の「都支」に比定すべき候補地は二つある』
と書いているので、百納本あるいは中華書局刊行版に依拠していることが分る。そして、ためらうことなく「洛陽古音」とやらの「タキ」を採用しているのだ。この場合も前提から間違っているのだから、これ以上読む必要はない。しかし、参考に比定地を紹介しておこう。
「長崎県南高来(たかき)郡北有馬(ありま)町付近」
である。

古田説
 訓みについては、まず「令支命題」により「支」は「キ」である。「已百支」でも「キ」と訓んでいる。従って、古田説では当然次のようになる。
『「郡」は「クン」もしくは「グン」だから、「クキ国」あるいは「グキ国」』

 「倭語音韻の基本法則(1) 和語には本来濁音から始まる語はない」を適用しよう。すると、水原氏の「グンシ」もそれに該当するが、「グキ」という訓みもあり得ない。従って、「郡支」の最も妥当な訓みは「クキ」である。古田氏は「クキ」または「グキ」を挙げていて、「クキ」を採用すると明言していない。しかし、以下の論考を「クキ」で進めている。次のようである。

 肥前国(佐賀県)の三根郡に「千栗(知利久)」がある。「チリク」だ。漢字から見ると、「チクリ」と〝訓み″そうだが、逆だ。「チリク」なのである。この神社に訪れたことがある。基山の西方である。

 現在の佐賀県三養基郡みやき町白壁千栗だろう。地図で千栗八幡宮を確認した。しかし基山の西方ではなく、基山の南方だった。

 『日本古代地名事典』は「千栗(チリク)」の語源を
『「ちりくり」の意で、栗園があったことに由来する』
と解説している。私にはこのような説はこじつけとしか思えない。地名語源説の多くは、「……か。」とか「……だろう。」といった推量の域を出ない解説で成り立っている。だいたい「千栗」を「チリク」と訓むなど、不可解だ。これも推量でしかないが、もともと「チリク」という地名であった。「千栗」は例の好字令「畿内と七道諸国の郡郷の名を、好(よ)い字を選んで着けよ。」(713年 和銅6年)に従って考え出された苦心の末の漢字表記ではないだろうか。

 それにしても古田氏は何故「千栗」を取り上げたのか。実に唐突である。次を読んでみよう。

 「チリ」という「接頭辞」は、不思議ではない。「チ」は例の「太陽神」の「チ」。「チクシ」の「チ」である。「リ」は「吉野ヶ里」などの「リ」。一点をしめす言葉である。

 問題は「ク」である。「チクシ」のように、語頭、もしくは語中にはしばしば現れるけれど、語末には珍しい。

 大和(奈良県)には「イトクの森」があり、漢風諡号では「神武・綏靖・安寧・懿徳」がある。一方、土佐(高知県)の縄文遺跡に「イトク遺跡」が注目される。「縄文時代の戦闘の痕跡」か、と報ぜられたケ一スである。このような「語末」に来る「ク」が本来の語法を反映している可能性が高い。

 ともあれ、この「チリク」もまた、語末に「ク」の来る、珍しいケースの一つである。

 「郡支国」を「クキ国」とすると、「キ」は例の「柵・要害」をしめす〝接尾辞″だから、「郡支国」がこの地を指す可能性は高い。この地は、背振山脈方面の高地へ〝登りゆく″入口に当たっている、重要地点である。

 この古田説。私にはよく理解出来ない。(長くなりそうなので、続きは次回へ。)
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