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《続・「真説古代史」拾遺篇》(87)



「倭人伝」中の倭語の読み方(30)
「21国」の比定:(10)已百支国


 この国は訓みも比定も難しい。訓みについてはまず「已」の字が問題になる。紹熙本(しょうきほん)の写真版を見ると明らかに「巳」である。水野氏は表題では「巳」を用いているが、本文では何の断りもなしに「已」としている。もう一つ同じような字体の文字「己」がある。それぞれの音は
「巳」…シ・ジ
「已」…イ
「己」…コ(漢音)・キ(呉音)
である。

 水野氏はこの国名の訓みを次のように分析している。

 「已」は音「イ」で、「すでに」「間もなく」「甚だ」「もちて」「おわる」「なる」「さる」「しりぞく」「すつ」「癒ゆ」「ああ(発端の歎辞)」「のみ(耳)」などの義をもつ。「百」は音、「ハク」「ヒャク」「バク」で、「多し」「はげむ」の義がある。「支」は音が「シ」で、「ささえる」「もつ」「わかれ」「えだ(庶)腹の子」「分家」「払う」などの義があるが、この三字で表現された国名は、日本語の音を写したものである。

 一般に、「イハキ」「イホキ」と訓まれていて……

「百」の訓みに「バク」を入れているが、これは「連濁」の場合の訓みで、漢字本来の音にはない(素人判断で間違っているかも知れないが、一応おかしいと思ったことは言っておくことにする)。また、水原氏の言説は時折飛躍する。「支」の音として「シ」しか挙げていないのに、一般に「キ」と訓まれていることに対して何の説明もない。

 私(たち)は「支」が「キ」とも訓めることを「令支命題」で確認している。

 ともあれ、この「国名は、日本語の音を写したもの」という認識は私(たち)と共通した認識である。

 この国の訓みに対する楠原氏の意見は次のようである。

 この国名の頭字は百納(ひゃくのう)本ほかは「巳」であるが、中華書局本は「已」となっている。「巳」の字なら元の倭語はシに相当し、「巳百支」はシバ(ク)キになるが、後世それに当たる地名が見当たらない。

 逆に「已」であれば、「已百支」はイハ(ク)キで、おそらくイワキ(岩城.磐城・岩木)という、比較的ありふれた地名になる。

 またまた素人判断の疑問。楠原氏は「イキ」→「イキ」と「ハ」を「ワ」に変えているが、このような変換は正当なのだろうか。

 当たり前のことを改めて言うと、言葉が先にあり、後にそれを文字で書き表すようになった。助詞の「ハ」はもともと「ワ」ではない。例を出すまでもないと思うが、例えば万葉集の第一歌・第二歌に次の詩句がある。
「山跡乃國者押奈戸手(大和の国はおしなべて)」
「國原波 煙立龍(国原は煙立ち立つ)」
 助詞として「者」「波」が用いられている。これらは「ハ」(またはそれに近い音)と発音されていたはずだ。「ワ」と発音されていたのなら、例えば「和」や「輪」を用いただろう。「ハ」を「ワ」と発音するようになったのはもっと後世のことだと思う。3世紀の頃の「ハ」を「ワ」に入れ替えるのは不当だ。

 「ハ」はいつ頃から「ワ」と発音されるようになったのだろうか。ネット検索して見た。『なぜ助詞の「は」は"wa"、「へ」は"e"と発音するのか』という質問に対していくつかの回答が寄せられているが、その中に次のような回答があった。回答者がどのような方なのか不明だが、私はかなり信憑性のある内容だと思う。

 ハ行音は、ひらがなが成立した平安初期には、文節の頭でも、文節中でも
  ファ、フィ、フ、フェ、フォ
と発音されていました。

 後に、文節中のハ行音がワ行音に発音されるという現象が起こります。この現象は「ハ行転呼(てんこ)」と呼ばれ、11世紀頃一般化したといわれています。この段階では、例えば
「腹は(はらは)」は、「ファラワ」
「人へ」(ひとへ)」は「フィトウェ」
「あはれ」は「アワレ」
と発音されていたわけです。

さらに鎌倉時代初期までには、ワ行音が変化して、
  ワ、イ、ウ、イェ、ヲ
になりますが、それにつれて文節中のハ行音は、「ハ行転呼」を起こして、
  ワ、イ、ウ、イェ、ヲ
と発音されるようになります。

元禄時代(江戸時代)頃になると、文節の頭のハ行音は現代と同じく、
  ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ
になったようです。

18世紀中頃になると、ワ行音が、
  ワ、イ、ウ、エ、オ
に変化しますから、文節中のハ行音は、やはり「ハ行転呼」を起こして、
  ワ、イ、ウ、エ、オ
と発音されるようになりました。助詞の「は」「へ」を[wa][e]と発音する事にはこんな背景があります。

 さて、「已百支国」の訓みについて、古田氏は次のように説明している。

 次は「已百支(イハキ)国」である。

 わたしたちは漢字を憶えるとき、「巳 (ヘビ、ミ)」と「已(スデ二、イ)」と「己(オノレ、コ)」の三字形を峻別すべきことを教わった。「ミ(巳)は上に、スデニ(已)半ばに、オノレ(己)は下に」という〝呪文〝で暗記した。たとえば「巳(ミ)の刻」「已然形(イゼンケイ)」「自己(ジコ)」などの別だ。

 しかし、三国志の紹熙本・紹興本などを見ると、必ずしもこのような「峻別」はされていない。たとえば「已(スデニ、イ)」と「己(オノレ、コ)」は同型である。あの峻別は、「316」以降の「漢音」の時代のようである。  「百」は「ハ」(管理人注:原文は「八」となっているが誤植だろう)。「支」は例の「キ」だ。「シ」ではない。では、「イハキ」とはどこか。

 三者の意見を集約して「イハキ」という訓みが正解のようだ。ではこの国はどこに比定できるだろうか。

大家たちの諸説

「邪馬台国」九州説者
新井白石…比定できず。
牧建二…比定できず。参考地として肥前国磐田杵(いわたき)
宮崎康平…「イホキ」と訓み、「イ」は、石・磐・磯の「イ」で堅いことを意味し、北九州の筑紫山脈や、背振山は古く「イのミネ」と呼び、この山系をとりまく国名は多くイを冠したものが多いとし、「ホ」は「ホカケブネ」「ホラアナ」「マホラ(円丘)」の「ホ」で、半月形を示す語で、「キ」は、丘や台地の突出した形をいい、それが海に突出したものが「ミサキ(岬)」である。「イホキ」の国とは、岬に抱かれたまるい入江の国という意味だとして、肥前国松浦郡の一部と、彼杵(そのぎ)郡の地で、現在の長崎県佐世保市を中心とする一帯の地域と比定する(『まぼろしの邪馬台国』)。

「邪馬台国」大和説者
米倉二郎…周防国熊毛郡石城神社の所在地。

 牧説と米倉説は「ハ」→「ワ」という不当な音の入れ替えを行っているので「×」。宮崎説は「百」を「ホ」と訓む根拠なしで「×」

楠原説
 次は楠原氏の比定。先の引用文の末尾「おそらくイワキ(岩城.磐城・岩木)という、比較的ありふれた地名になる。」に続けて、次のように論述している。

 ところが、今度は2~3世紀ごろイワキと呼ばれていた可能性がある地名が、九州には見つからない。イハキという地名はどちらかといえば東日本に多く、西日本では瀬戸内海中部の愛媛県越智(おち)郡に属する岩城島か、山口県熊毛(くまげ)郡大和町の石城(いわき)山になるのか、とも考えた。後者は7世紀に築造されたという神籠(こうご)石が発見されている。

 ここで、ハタと気がついた。イハのつく地名は「岩」や「磐」「巌」だけでなく、石見(いわみ)国や山口県石城山の例のように「石」の字を当てることもある。ならば、イハを「石」で表現し、それを後世、イシと読み替えた可能性も大いにありうる。

 そこで調べてみると、佐賀県小城(おざ)郡三日月(みかづき)町に石木ケ里(いわきがり)という地名があり、古墳時代~平安時代の複合遺跡の石木遺跡があるという。ただし、この三日月町石木ケ里地区は、私が邪馬台国に比定する佐賀郡大和町西山田の南西にわずか7.5㎞しか離れていない。

 戸数七万戸と記された邪馬台国が現在の佐賀平野西部を版図としたものと考えれば、その範囲にすっぽりと入ってしまう位置にある。後世、国郡制による郡は異なったとはいえ、いつの時代でもほとんど同じ生活圏に属したはずである。したがって、「已百支」を現・三日月町石木ケ里に比定するのにはやや無理があるだろう。

 そこで、「已百支」に類音の地名として現・唐津市石志(いしし)という地名の存在に気づいた。「已百支」のキがシに転じた可能性は考えられないか。日本語の接尾語シは、ニシ(西)・ヒガシ(東)などのように方向・場所を示す接尾語である。キという語も接尾語としては長さの単位のキ(寸)や虫などの数をいうキ(匹)があり、場所を示す地名語尾に転用されたらしい例もけっこう多い。ちなみに神話に登場する神名には、「伊邪那岐」などキ(ギ)のつく名が多数ある。つまり、地名語尾という点でキとシは相通じ、相互に転換しうる。

 「イハ」→「イワ」→「イシ」という2段階の「音」入れ替えを行っている。勝手な改訂の一種である。また、「キとシは相通じ、相互に転換しうる」という結論に至る論理が私にはまったく理解出来ない。こういうのがいわゆる「地名学」の適用というのなら、「21国」比定に「地名学」は役に立たないだろう。後に納得できる事例が出てくるかも知れないが、どうやら期待しすぎたようだ。

 氏はこのあと「弥生遺跡の一大宝庫」とか「平安期まで山賊伝説も」(「土蜘蛛」に関連させている)とかを取り上げて、この比定の正当性を根拠づけようとしているが、私にとってはもう無意味なので省く。

古田説
 先の引用文の続き。

 わたしには、研究上の重要な「転機」があった。「君が代」の地名分布を追跡していたときだ。糸島市(旧・前原市)に「井原遺跡」がある。有名な「三雲遺跡」のやや南方である。わたしはこれを「イハラ」と発音していた。ところが、鬼塚敬二郎さんが「これはイワラですよ。」と教えて下さった。鬼塚さんはながらくこの周辺で警官をされていた、篤実な方だった。

 「念のために、土地の者に、聞いてみます。」と言い、やがて「やっぱり、そうでした。『イハラ』とは、言うたことがないそうです。」とのこと。

 「イワラ」なら「岩羅」だ。「ラ」は「ウラ」「ムラ」などの接尾語だから、語幹は「岩」。「君が代」の、「岩穂(イワホ)となりて」と〝対応〝することが判明したのである。その貴重な経験があった。  この「イワキ」の「キ」は、「柵、要害」の意だから、「イワキ国」はここ、「井原」の地。わたしはそう考えたのである。

 古田説も「イハ」→「イワ」という音の入れ替えを行っている。その論拠は現在の現地人の「訓み」である。私がネットで仕入れた「ハ行転呼」は「11世紀頃一般化した」というという知見が正しいとすると、「井原=イワラ」という訓みも後世のものであり、これを3世紀の国名に流用するのは不当である。また、井原は地理的には伊都国・奴国・邪馬壹国のどれかの領域内に含まれていたと考えられるような位置にある。三国とは独立した国だとしても「遠絶」とはまったく相容れない。

 あれれ! また全部否定してしまった。当るのも八卦当たらぬも八卦、責任上、自説をこねくり出してみた。

 「イ・ハキ」で「イ」は接頭語。『全訳読解古語辞典』(三省堂)によると「(上代語)名詞について神聖なものである意を表す。」と説明されている。では「イ」を接頭語として添えるのにふさわしい「ハキ」と呼ばれていた地域はあるか。ある。あの明日香皇子が祭神の一人として祭られている麻氐良布神社がある上座(カムツアサクラ)郡の把伎(ハキ)(現在は朝倉市杷木)である。麻氐良布神社の主神は伊弉諾尊である。「イ・ハキ」と呼ばれるのにふさわしい。また、麻氐良布神社は邪馬壹国の中心と考えられる春日市から南東約30㎞辺りにある。「遠絶」の地としてもよいのではないだろうか。(ちょっとくるしいかな。)

(麻氐良布神社については『人麿が「壬申の乱」を詠った?(6)』を参照してください。)
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この記事へのコメント
「其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず」の「遠絶」に注目されておられますが、私は「旁国」と「得て」を重視しています。
①「旁国」ですが、魏使は「実際たどった経路」を「主線行程上の国」、行かなかった国を「傍線行程の国=旁国」と正確に記述していると思われます。
「邪馬臺国」までの経路で、主線上で実際通過した場合は「渡・行」といった動詞を入れ、その余の国は方向{至」だけという厳密な書き方をしているのですから。
②「得て」ですが、倭人伝に「遂に諸国を周観し、其の法俗を采るに、小大区別し、各名号有り、得て詳紀すべし」とあります。
「遂に」「周観=実地検分」出来たのを「得て」と書いている。陳寿はこれを誇り、わざわざ「得て」と強調していると思われます。
従って「其の余の旁国」とは、名前を出した奴国と投馬国以外の「邪馬臺国までの行程の傍線にある国」ということで、必ずしも物理上の距離がvery distantという意味では無いと思いますがいかがですか?(そこそこ遠いのも事実でしょうが)
ですから「已百支」が「把伎」でも問題は無いと・・ただ、最近、21国地名は本当に皆表音表現か、表意もあるのではと疑っていますので、賛否は別です。(対海国の例から考えれば対蘇国などがそうです)
2012/06/11(月) 10:27 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
Re: 参考になりました
「愛読者」さん、度々のコメントありがとうございます。今回は視野狭窄に落ちいている私の盲点(「遠絶」に強く拘っていること)を指摘していただきました。とても参考人になりました。「愛読者」さんが指摘された論点を使わさせていただくことがあるかも知れなせん。
2012/06/12(火) 12:11 | URL | たっちゃん #-[ 編集]
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