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《続・「真説古代史」拾遺篇》(85)



「倭人伝」中の倭語の読み方(28)
楠原氏の「女王国の版図」(2)


 私の知る範囲では誰もキチンと検討していない難しい問題がある。各国の領土範囲である。例えば、対海国は対馬全体(あるいは下島のみかもしれない)、一大国は壱岐島全体と分りやすい。しかし、東松浦半島全体が末廬国であり糸島半島全体が伊都国だ、とは論証なしに言い切るわけにはいかないだろう。「21国」にいたっては全く漠然とした比定にしかならない。こうした領土範囲問題は資料がないのではっきりと画定は出来ないと言うほかないが、とりあえず末廬国は東松浦半島全部として話を進めてみる。

 楠原氏は魏使の航海は最短距離を選ぶはずだという前提で、末廬国への上陸地点は東松浦半島北端の呼子(よぶこ)港を選び、一大国―末廬国間の「倭人伝」の記録「千余里」について、『「余」という剰余表記に含みがあるとしても、あまりにも違いすぎる。』と「倭人伝」の里程記事を否定した。氏は例の「南は東の間違い」というような「井の中」で行われてきた原文改定を「勝手な説」と正当に批判している。しかし、氏の「最短距離」説も「勝手な説」だ。「倭人伝」の記載通りに考えて、末廬国への上陸地点は唐津港とすれば、何の問題もない。

 氏が呼子にこだわる理由はそこが(1)を導き出すための拠点だからだ。その議論を追ってみる。まず、呼子港が上陸地として妥当だということの傍証のつもりだろうか、次のように論じている。

 呼子港は幅200~100mの深い入江が南に向かって約1㎞湾入する天然の良港で、湾口の約1㎞沖には加部(かべ)島が北西季節風を遮るように横たわる。現在は避難港・第三種漁港にすぎないが、歴史的には九州北岸屈指の要港であった。

 「歴史的には九州北岸屈指の要港であった。」と断定しているが、この断定にはどんな根拠があるのだろうか。なんの根拠も示していない。これでは自説を正当化するための独断にすぎないと批判されても仕方あるまい。仮に「九州北岸屈指の要港であった」として、次を読んでみよう。

 「倭人伝」が記す未廬国はこの呼子港にほかならず、ここから伊都国に至るには「倭人伝」が記すように「東南陸行」しか道はない。原田大六『邪馬台国論争』などは、呼子港を起点としても伊都国(現・前原市の三雲遺跡付近)はほぼ真東に当たるから「東南」という表現は間違いで、方角を45度誤記したとする論拠の一つにあげる。

 これまた、一知半解の臆説である。魏からの使者は測量が目的ではなかった。伊都国で烽火(のろし)でも上げれば真東の方向だとわかったろうが、そんな任務はまったく帯びていない。彼らは伊都国に向かって東南方向に陸路をたどったから、事実をありのままに記しただけである。

 出発点からとりあえず東南に進んだ方向をずっと維持したわけではないが、その、東松浦半島を東南に陸行して現在の唐津市の市街地に入り、現・松浦川河口からややさかのぼった地点で東岸に渡り、そして現在の浜玉町浜崎付近から唐津湾岸沿いに北東行して伊都国に至る、というルートである。

 楠原氏の「東南陸行」解釈(赤字部分)に瑕疵はない。これは「投馬国(5):古田説の検討(3)」で取り上げた「道しるべ」読法そのものである。しかし、呼子から伊都国までの距離は「倭人伝」の「末廬国→伊都国」の里程距離「五百里」の倍ほどもある。また、「魏からの使者は測量が目的ではなかった」ことは確かだ。しかし、だからといって里程距離記事を「単なる目安程度」とする説も「一知半解の臆説」ではないか。「倭人伝」は魏使の報告書をもとに書かれている。その報告書は風俗・産業を記した単なる地誌ではない。帯方郡から派遣され、20年間も倭国に滞在した張政は文官ではなく塞曹掾史(軍司令官)である。魏使の報告書は一旦緩急あるときに備えた軍事報告書でもあった。里程距離がいい加減であるがずがない。

 さて、(1)である。「投馬国(つまこく)(2)」で水野氏や菊地氏の噴飯物の投馬国比定を取り上げたが、「井の中」の投馬国比定は噴飯度の競い合いの観がある。楠原氏もこの状況を「滑稽きわまる〝まぼろしの南行ルート″」と酷評している。氏は「滑稽きわまる」説が出てくる淵源として榎教授の「放射説」を槍玉に挙げている(榎説については『「邪馬台国」論争は終わっている。(3)』をご覧下さい)。そして、私の知らなかった「滑稽きわまる」説を二つ取り上げている。紹介しよう(楠原氏はそれら説が滑稽であることを丁寧に論じているが、私(たち)にとってはその滑稽ぶりは格別詳述しなくとも明らかなので省く)。

 つまり、伊都を起点とする「放射説」では「南至投馬国、水行二十日」とあるのに、伊都国を旧・筑前国怡士(いと)郡ほか九州北岸のどこに比定しても、南行する水路がないのである。いや、伊都を現在の北九州市門司区の関門海峡東口の部崎(へさき)あたりに比定すれば南行水路はあるが、今度は直前の記述にある「奴国」や「不弥国」の収拾がつかなくなる。

 宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』は、次のような大胆きわまりない仮説を創出して切り抜けようとした。

 すなわち、博多湾岸の低地や筑後平野の大部分には当時は海面が進入していた、という仮定をまず立てるのである。そして現在の太宰府市~筑紫野市付近に北の博多湾と南の筑後平野を結ぶ深い水路があった、と想定するのである。

 宮崎説によれば、この水路はその後に起きた地震などの天変地異によって土砂崩壊が起きて埋められたとか、ある部分では後世の為政者がかつて存在した海峡の痕跡を隠すために膨大な労力を使って埋め立て工事を行ったのだ、とも主張する。

(中略)

 一方、歴史学者ではないが言語学の泰斗(たいと)である服部四郎氏も、『邪馬台国はどこか』(平成二年、朝日出版社)で珍にして妙なる説を発表している。

 すなわち、博多湾に注ぐ御笠川を南東にさかのぼって筑紫野市の二日市付近に達し、さらに田んぼの中の幅30cmほどの用水路をたどっていくと、有明海に注ぐ筑後川支流の宝満川の分流部分に数百メートルの距離で近づくことができる。この間にある細流は、1700年前の邪馬台国の時代にはもっと堂々とした人工の水路で、南北を結ぶ水運が可能だったのだ、と主張するのである。  どうやら、服部説では、パナマ運河を小規模にした閘門(こうもん)式運河を想定しているらしい。

(中略)

 ここまで来れば、まともな分別を持っている人間なら当然、そもそも榎教授の「放射説」が間違いではないか、と気づくはずである。伊都国を起点として放射状に分岐するという説は、南へとたどる水行が地理的にありえない以上、絶対に成立しえない説だ、と断言できる。

 私ならば、「ここまで来れば、まともな分別を持っている人間なら当然」、「南へとたどる水行」という「倭人伝」記事の誤読に「気づくはずである」と言いたい。正しい読解は「投馬国(5):古田説の検討(3)」で取り上げているが、その部分だけを転載しておこう。

不弥国への行路記事も「道しるべ」読法で読まれるべきである。つまり、
「東行不弥国に至ること、百里」
の「東」も「始発方向」を示している。「東方向に出発して百里」である。

 これに対して次の傍線行路
「東南、奴国に至ること、百里。」
「南、投馬国に至ること、水行二十日。」

の場合「東南陸行」や「東行」とは異なる記述である。「行」の字がない。「行」の字がない場合の方向は、「始発方向」を示しているのではなく、「直線方向」を示していることになる。


 このことに気付かない楠原氏の説も「滑稽きわまる」説にしか成らない。つぎのようである。

 一方、「南至投馬国、水行二十日」のルートは、上陸点の末盧国(呼子港)から東松浦半島西岸沿いに南下、伊万里湾口をよぎって平戸海峡を経由、さらに南に向かったものと見る。

 厳密にいえば、呼子港から東松浦半島北西端の波戸岬へは約四mばかり西北西に進むが、このあたりまでは末盧国のうちという認識でよいだろう。波戸岬から平戸海峡までは全体としては南西方向だが、まずは南、そして西という進路になる。平戸海峡以南は第Ⅳ章の「投馬国」の項で詳述するが、「南行」の表現が著しく不当とはいえないだろう。

 とにもかくにも、「倭人伝」の里程・方位を大きな瑕疵なく説明できるルートは、これしかありえないのである。そして、このルートをたどれば必然的に、投馬国と邪馬台国は九州西海岸のどこか、になる。

 氏の自信にもかかわらず、残念ながら瑕疵だらけの説明である。この自説を氏は「上陸点分岐説」と読んでいる。次の図のようである。

分岐説

 この図を見てすぐにお分かりのように、「井の中」ではほとんど定説化している「倭人伝」記事の曲解が踏襲されている。つまり

南、投馬国に至る水行二十日。……南、邪馬壹国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。

を、投馬国から「邪馬台国」までの行程が「水行十日、陸行一月」と曲解しているのだ。「井の中」の噴飯度競争、言いかえれば、古田説を無視したために起こる悲喜劇の淵源はここにある。「第Ⅳ章の「投馬国」の項で詳述する」と言っているが、結果を見るだけで十分だろう。

 次の図を見てほしい。

21国・楠原説

 投馬国をみると、氏は投馬国を大村湾の東岸に比定していることがわかる。

訂正(6月7日)
 地図の上だけでの判断では大雑把すぎるので、念のため、『地名学…』を再度借りてきて第Ⅳ章を確認してみた。氏の比定地は「長崎県大村市および大村海岸」だけではなく、「西彼杵(にしそのぎ)半島一帯」も含めていた。かなり広大な領域になる。氏の「邪馬台国」をはるかに凌ぐ広大さだ。以下の文章は、この比定に従って、少し書き換えた。


 氏は上陸地を比定していないが、氏は「南、……水行十日」の「南」を「南行」と考えているのだから西彼杵半島西岸を想定していると考えて間違いないだろう。例えば西海(さいかい)市あたりか。地図で見るだけで分るが、呼子・西海市間(水行二十日)の距離より西海市・有明海北岸間(水行十日)の距離の方がはるかに長い。「水行20日:水行10日=2:1」とはまったく相容れない。

 しかも、魏使は「水行十日」で有明海の北岸に到着して、さらに氏が指定している邪馬台国(肥前国佐嘉郡)へ陸行することになる。その「陸行十日」? 上陸地点から肥前国佐嘉郡辺りまでは20㎞ぐらいだろうか。「翻、能(よ)く歩行す。日に二百里なる可(ベ)し。」に従えば、1日の行程だ。従って氏は「陸行一月」には触れようとしない。

 以上でやっと(1)の説明が終わった。そして上の図が楠原氏が描く(2)女王国の版図ということになる。(3)はいずれ詳しく取り上げることになるだろう。
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この記事へのコメント
古田氏の「短里、島廻り(対海・一大国半周)、道しるべ読法」この3大発見の威力は凄いですよね。これによって「魏志倭人伝の行程論争は終わった」と思うのですが・・・。なぜこれを無視して非科学・非論理的な「自説」に固執するのか?
「井の中」でも「もったいない」ので、「壺の中」と言いましょう。頭に「ど」をつけて・・・。
(読んでて過激な気分になりました)
2012/06/06(水) 15:59 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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