2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(84)



「倭人伝」中の倭語の読み方(27)
楠原氏の「女王国の版図」(1)


 今回から「21国」を記載順に取り上げていく予定だった。その際、次のような手順を考えていた。まず『評釈倭人伝』から過去の大家たちの諸説を取り出し紹介する。次いで楠原説と古田説を紹介する。さらに、私なりの判断を付け加える(たぶんほとんどが判断保留になりそうだ)。

 『地名学…』は、これまでに何度か指摘してきた通り、大筋において「井の中」の方法と理論を踏襲していることが分った。しかしまだなお、「地名学」という方法から何か得るものがあることを期待しているので、楠原説は詳しく検討する予定でいる。すると、個々の国の比定に入る前に楠原氏の「21国」比定の枠組みを紹介しておく必要が出てきた。本題に入る前に、今回はそのテーマを割り込ませることになった。

其の余の旁国は遠絶にして、得て詳かにすべからず。

 氏はこの「旁国」の意味を次のように吟味している。(赤字部分の括弧つき数字は私が付けたもの。)

 そこで、「旁国」の「旁」とは何ぞや、が問題となってくる。藤堂明保『学研漢和大辞典』によれば、「旁」という漢字は「左右に柄の張り出た鋤(すき)を描いた象形文字で、両脇に出る意を含む」とあり、具体的な意味・用例として「(一)①かたわら。中心から左右に出たはし。両脇。②横の直線。③漢字のつくり。(二)よる。そばによりそう。(三)①ひろがる。中心から四方に向けてひろがる。②あまねし。広く行き渡るさま。」などをあげる。

 「倭人伝」がいう「旁国」とは、九州説・畿内説を問わず各論者の比定地から判断すると、もっぱら(三)の①「中心から四方に向けてひろがる」意と解されている気配が強い。しかし、文字の原義からすれば、まずは(一)の①「かたわら。脇」の意味の可能性を考えるべきであろう。

 何の「かたわら」であり「脇」なのか。もちろん、未廬国から不弥国にいたる九州北岸ルート、および(1)末廬国から投馬国を経て邪馬台国に達する九州西岸ルートの「かたわら」である。

 もう一つの(三)の①の「中心から四方に向けてひろがる」意のものも、もちろんありうるだろう。そして、その二つの意味とも、「中心ではなく派生的なもの」、または「メイン・ル一トのかたわら」というニュアンスが含まれるように思われる。

 この二つの要素を踏まえて、地名の持つ意味と『風土記』類が記す古伝承を参照しながら比定作業を行ってみた。個々の国名については各項ごとに述べるが、(2)女王国の版図は佐賀平野・筑後平野(両者を合わせた総称は筑紫平野)と福岡平野を中心にした三郡山地以西の九州島北西部、そしてそこから筑後川をさかのぼって豊後国(大分県)中部に至るラインが描けた。

 その(3)版図が描くラインの南側は狗奴国であるが、すなわち後世「熊=球磨」と呼ばれる地域にほかならない。

 (1)については解説を要しよう。氏は「倭人伝」中の里程距離を全て取り出して次のような見解を述べている。(以下、氏は「対海国→対馬国」「一大国→一支国」という改定表記を混用しているが、私は原文表記を用いていく。)

 これら10ヵ所に記載された距離数に関して、中国・魏代の長里(26里がほほ現在の1里=約三・九㎞)なのかどうか、また海上の距離はどうなのか、をめぐって論争が繰り返された。それぞれの論者の論旨は、それぞれ一理も二理もあり、即座に論駁できるようなものではない。ところが、他の論者によれば、まったく正反対の論談が成立する。

 実は、こういった堂々めぐりの状況は一つ距離の問題だけではなく、邪馬台国論争のすべての場面で噴出する現象なのである。ここでは距離にかぎって結論をいえば、「倭人伝」記載の距離はしょせんは概数でしかなく、さらに極論すれば単なる目安程度の数字かもしれない、と指摘しておく。

 「記載の距離はしょせんは概数でしかない」という指摘はその通りだ。しかし「単なる目安程度」という判断には賛成できない。以下の楠原説の検討の中で、おのずと私が賛成できない理由が明らかになるだろう。

 里程距離をめぐる議論が堂々めぐりに成ってしまうのは「それぞれ一理も二理も」あるからではなく、「短里」を無視しているためなのだ。なお、楠原氏は魏代の長里を(26里がほほ現在の1里=約3.9㎞)と注記しているが、これで計算すると魏代の長里は「3900m÷26里=150m/里」となる。初耳だ。『「女王の境界の尽くる所」(2)』では短里の6倍ということで「長里=約450m」と理解していた。その後、現在の中国の学会では434.16m/里が定説となっているということを知った。楠原氏の長里はそれらの約三分の一しかない。どこで手に入れた情報なのだろうか。楠原氏は「単なる目安程度」と距離数を捨てているので、氏の後の議論にとってはどうでもよいことなのだが、一応指摘しておく。

 次に氏は「狗邪韓国―①→対海国→―②一大国―③→末廬国」の海路距離・千余里を取り上げてる。この千余里を「実際は約600㎞」としている。実測したとは考えられないから、私と同様、地図上での測定だろうか。いずれにしても出発港・到着港を無視した最短距離を測ったようだ。①・②を約60㎞としているのに対して③を約26㎞としていることからそのように断定してよいだろう。ちなみに、これもこの後の議論にはかかわらないけど短里で計算すると千余里は約760㎞である。楠原氏の測定によっても短里がリーズナブルであることを示している。

 ①・②に対して③がその半分しかないことを取り上げて、氏は
『「余」という剰余表記に含みがあるとしても、あまりにも違いすぎる。』
と述べ、伊能忠敬から現代の全方位測定システム(GPS)までの測量の遷移に蘊蓄を傾けた上で
『だから、2~3世紀の「倭人伝」の記事が間違っていると目くじらを立てるのは大人げない、ともいえる。海上ではその弁解が通用しても、陸上の場合も距離も正確とはいいがたい。』
と結んで、陸上での距離数の検討に入っていく。陸上での里程距離の議論は必要が出てきたら取り上げることにして、目下のテーマを続けよう。

 いつからか、私は1里(約4㎞)を約1時間出歩くという経験則を持っていた(今はとても無理)。それを用いて「ここまで十数分歩いたから、ここまでの距離は約1㎞だな」というような判断をよくやっていた。魏の時代に後世のような正確な測量術がなかったこと言うまでもないことだ。しかし、私のような経験則による距離判断は魏時代の人々でもたやすく出来たはずだ。ここで私は「投馬国(4):古田説の検討(2)」で古田さんが引用していた『魏志』からの引用文を思い出した。次のような文があった。

昼夜、三百里来たる。
〈魏志六、裴松之注所引「英雄記」〉
鴑牛(どぎゅう)一日三百里を行く。
 (右の「鴑牛」は顧劭(こしょう)を比喩す)

翻、能(よ)く歩行す。日に二百里なる可(ベ)し。
(呉志十二、裴松之注所引「呉書」)


 このような経験則によって、旅程の距離を概算することは容易なことだ。水行の場合での同様だ。「十梃櫓の船なら1時間で何里、順風で帆を併用できれば何里」というような経験則をもとに海上での距離概算も出来ただろう。そうした概算距離は実用的には大いに役に立ったはずだ。

 ちなみに、上の引用文中の「三百里」は「車駕(しゃか)による陸行」である。「二百里」は歩行したときの距離である。車駕による陸行の場合も従者が歩行で随行している。馬にむち打って驀進する行程ではない。従者はたぶん早足ぐらいだろう。両者の行程距離の差が100里というのは妥当だ。また、両者はそれぞれ長里(1里434mで計算)では「約130.2㎞・86.8㎞」となる。食事も休憩も取らないで猛スピードで進み続けても、途中には山あり谷あり川ありで、とても1日で進める距離ではない。一方短里(1里76.7mで計算)だと「23.0㎞・15.3㎞」となる。食事も休憩もゆっくり取って行ける距離である。

 これでやっと(1)がどういうことなのか、説明できる準備が出来た。(次回で。)
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
結局「井の中」の「大家の論」は「魏志倭人伝の方位・距離・里程は出鱈目だから、各自持論にあわせて設定すればいいのだ」というところまで後退しているのですかね。これ将に「学問以前」。(そこまでひどくはないと信じたいのですが)
2012/06/02(土) 16:21 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1755-abf55f30
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック