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《続・「真説古代史」拾遺篇》(83)



「倭人伝」中の倭語の読み方(26)
「21国」の読み:二つの奴国(2)楠原説


 水野氏は「奴国」を「ヌコク」と読んでいる。この訓みは「井の中」では少数派のようだ。私の知る範囲では水野氏以外は全て「ナコク」か「ノコク」である。水野氏は『奴は「ド」「ヌ」を音とし、「ナ」という音はない』と、「ナコク」という訓みをはっきりと否定している。

 では「ナコク」と訓む人たちのその根拠は何なのだろうか。志賀島の金印に対する三宅米吉説にいまだに引きずられているのだ。三宅氏は「漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王』と訓み「奴の国」を「灘(な)の県」(那珂郡)に比定した。従って、初出の「奴国」を「なこく」と訓む論者はきまってその所在地を那珂郡那珂川辺りに比定している。これらの説は「奴」を「ナ」と訓むことの当否をまったく検討しようとしない。また、この比定が「倭人伝」の里程記事にまったく合わない点でも謬説である。

 楠原氏も「ナコク」と訓んで、春日市・那珂郡那珂川町・福岡市南区付近に比定している。すなわち「邪馬壹国」の中枢部である。この地域の目覚ましい遺跡には「井の中」で比定しているどの「邪馬台国」も見劣りがする。この点に付いて、楠原氏はつぎのようにに論じている。

 明治32年(1899)、那珂郡春日村大字須玖字岡本(現・春日市岡本7丁目)の丘陵地から大石(長さ3.3m、幅1.8m、厚さ30cm)に覆われた甕棺墓と大量の前漢鏡・銅剣・銅戈・銅矛・ガラス璧・ガラス勾玉などが発見された。のち昭和4年と戦後の昭和37年に本格的学術調査が行われ、付近一帯の遺跡群から甕棺墓群・土壙(どこう)墓群などが次々に発掘されて、出土物の質量ともに北九州屈指の弥生遺跡群と判明した。

 以後、この須玖岡本遺跡周辺は〝弥生銀座″と俗称され、この地こそ「倭人伝」が記す「奴国」の最有力候補地と見なされるにいたっている。

(中略)

 その春日丘陵の北端近く、標高30~40mの高台の上に須玖岡本遺跡がある。考古学・古代史学の専門学者や多くの邪馬台国論者は、須玖岡本遺跡すなわち「倭人伝」の「奴国」であるかのような論をなす。だが、須玖岡本遺跡は「奴国」の版図内ではあっても、遺跡・出土品の種類などから見ておそらくはその中心部ではなく、族長級の墳墓を集中配置した、いわば〝高級集団墓地″ではなかったか。

(中略)

 須玖岡本遺跡は、想定される「奴国」の領域内ではやや北に偏し、東西の位置関係では東縁線に近い。その先は御笠川が流れる構造平野で、この沖積低地の氾濫原には板付(いたつけ)・比恵(ひえ)(ともに福岡市博多区)両遺跡があるが、弥生期には奴国とは別の勢力圏だったろう。

 弥生後期、御笠川下流域は開発最前線であったわけで、須玖岡本遺跡はその未開の原野を見下ろす地になる。その低地に臨む丘の先端に、「奴国」の首長連の墓が造営されたのである。

 出土物で大事な物が見落とされている。中国製の絹だ。これはここだけにしか出ていない。三種の神器と中国製の絹が出てくる遺跡は他に例がない。これはまぎれもなく「王墓」である。「井の中」ではこれを「族長墓」あるいは「首長墓」と格下げして自説の孕む矛盾を糊塗している。楠原氏も例外ではなかった。

 氏は「奴国」論を「地名学」とやらを駆使して12ページにわたって展開しているが、これも既にスタートから間違っているので無駄骨である。ただ一点だけ受け入れられることがある。ただし、「ナ」を「ヌ」に入れ替えれば、という条件付きである。次のように述べている。

 まず、地名用語ナとは何か考察しておこう。「倭人伝」には、2ヵ所に出てくる「奴国」を含め、「奴」という字を使う国名が計9ヵ国ある。さらに「華奴蘇奴」という四文字の国名の中には「奴」の文字が二文字含まれているから、その数は計10ヵ所にのぼる。「倭人伝」には「対馬」以下、日本列島の国名を表記するのに漢字が延べ62文字使われており、「奴」の使用比率は16%強に達する。

 地名にこんなに多数使われる言葉とは、何だろうか。勘のいい読者ならとっくに気がついておられるだろうが、これは「ノ」にほかならない、と思う。つまり「奴」という字は、当時の倭語で「ナ」という発音の語の音写であることは間違いないが、この語は後世の日本語で「ノ」に当たる言葉ではないか。

 氏はこれ以後に出てくる「奴」を、第二の「奴国」を除いて、すべて「ノ」訓んでいる。

 「奴」が「ノ」とも訓むことができ、それは「野」の意だと言うことは古田さんも論じていた。ただし、古田さんの「ノ」と訓む根拠は「農都切」(反切)だった。(詳しくは『「狗奴国」は何処?(1)』を参照してください。)

 では、第二の「ヌコク」についてはどうだろうか。氏は同じ国名で呼ばれているが別国で「別地同称」であると、次のように論じている。

 「倭人伝」の記す諸国中に「奴国」は2ヵ所ある。「伊都国」の東南百里にある初めの「奴国」と、旁国21国の最後に記され、「女王国の境界の尽くる所」と注記される「奴国」である。

 二つの「奴国」について、畿内説の三宅米吉や九州説の吉田東伍はじめ、のちの儺(な)県、すなわち筑前国那珂郡に当たる地をいうナの重出と見る論者も多かった。だが、『太平御覧(たいへいぎょらん)』に引用された『魏志』には「属する小国は二十一国」と記されているから、二つの「奴国」は別の国と判断すべきであろう。

 このように、別々の土地を同じ名称で呼ぶ現象を「別地同称」という。こうした現象は日本列島だけでなく世界中のあらゆる国や地域、民族語に見られる。それが不便であるような事態になったら、日本だけでなく、世界中どこでも行政地域を細分したり、それぞれの地名に大小、上下、東西南北などの区分称を冠称して区別することになる。

 では第二の「奴国」をどこに比定しているだろうか。初出の「奴国」を「ナコク」と訓んだのだから、当然「ナコク」と訓んでいる。比定地は大分県大野郡大野町付近である。次のように論じている。

 「倭人伝」記載の30国のうち、「奴」の漢字が九カ国、10ヵ所にノ(野)という国名使われ、それは後世のノに相当する語であろう、と前述した。実際、「弥奴」をムナと呼んで後世の筑前国宗像郡に比定したのを除き、ノと解してすべてしかるべき比定地を得た。

 宗像のムナのナも、日本語の助詞のナがノに交替していることなどを考えれば、許される範國内の想定だったろうと思う。

 したがって、この「奴」もノ(野)に違いないと考え、豊後国大野郡大野郷、現在の大分県大野郡大野町付近に比定した。この地は阿蘇火山・九重火山群の噴出物が覆う大野原(おおのはら)台地で、「奴国」の名も、のちの郷名・郡名も、この地形から出たものであろう。

 この比定の正否の判定は「女王国の境界の尽くる所」であり、かつその南に「狗奴国」があること、この二点が大きなカギとなる。いずれ判明するだろう。

 なおこの後、氏は上の比定地が「縄文~弥生文化の先進地」だったことを論じているが、省略する。他の「奴」を含む国については後に取り上げることになるが、楠原氏はどうやら「野」を地名に持つ地を探す方法を取っているようだ。
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