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《続・「真説古代史」拾遺篇》(81)



「倭人伝」中の倭語の読み方(24)
「21国」の読み:楠原氏の「邪馬国」論


 楠原氏は語源説③「ヤマ(弥間)」を引き継いで次のように議論を展開している。

 ヤマとは本来「周辺より徐々に高くなった土地」という基本的認識であり、今もこの認識を訂正する必要は感じない。ただその後、もしかしたらイヤマ(弥間)よりもむしろイヤ(弥)・マス(増)という、より直截的な表現ではないか、と思うようになった。

 これは③説の踏襲というより、全く新しい説の提出である。次ぎに度量衡器の「升(マス)」を引き合いに出して、「イヤ(弥)・マス(増)」の「マス」は「自動詞マス(増)の終止形が名詞化」したものと言う。そして、三原山(伊豆大島)の中腹にある集落「野増(のまし)」を取り上げて次のように続けている。

 このノ・マシという地名は、何を表わした地名なのか。野増のマシは動詞マスの連用形が名詞化した用例であろう。第Ⅵ章で述べるように、ノ(野)という地名用語自体が緩傾斜地を呼ぶ語である。火山裾野のなだらかな傾斜地からさらに山腹に登ったあたりに形成された集落は、なるほど「傾斜地がさらに徐々に高度を増す地」と呼ばれるにふさわしい。

 と思いいたって、あらためて各地のマスダ・マシダ(増田・益田)などの地名を調べてみると、火山山麓や扇状地、あるいは徐々に高度を増す洪積台地などに位置する例が少なからず見受けられる。

 ならば、しだいに高度を上げていくような地形を、古代の日本人がイヤ・マスあるいはイヤ・マシと呼んだとしでもおかしくない。それが普通名詞や地名用語になっていく過程で、音節がつまってヤマとなったのではないか。

 イヤ・マス(マシ)=ヤマという地形は、本来、凸凹の激しい起伏に富んだ地形というよりも、むしろ徐々に高度を高めていくような地形、すなわち成層火山など稜線が直線状に高みを増していく地形こそがヤマだったのではないか、と思われてきた。

 さて、この「ヤマ」の意味を頼りに邪馬国を比定している。ここでも相変わらず結論先行という手法が使われている。その行き先は新井白石や本居宣長が比定している福岡県八女郡である。そこへ行くためにはまずは「ヤマ→ヤメ」という音韻変化の説明をしなければならない。氏はまず初めに「景行紀」18年条を取り上げている。その条は阿蘇山以北のいくつかの地名説話を集めた形になっている。その中に八女の地名説話がある。氏は概略説明で済ましているが、ついでなのでその原文を掲載しておこう。

丁酉(ひのとのとりのひ)に、八女縣(やめのあがた)に到る。則ち藤山(ふぢやま)を越えて、南(みなみのかた)粟岬(あはのさき)を望(おせ)りたまふ。詔して曰はく、「其の山の峯(みね)岫(くき)重疊(かさな)りて、且(また)美麗(うるは)しきこと甚(にへさ)なり。若(けだ)し神其の山に有(ま)しますか」とのたまふ。時に水沼縣主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおほみ)、奏(まう)して言(まう)さく、「女神(ひめかみ)有(ま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(まう)す。常に山の中(うち)に居(ま)します」とまうす。故(かれ)、八女國(やめのくに)の名は、此に由りて起れり。

 「ヤメ」という地名は「持統紀」4年9月23日・10月22日条にも出てくる。自らの身を売って筑紫君薩夜麻を助けたことで、持統より恩賞を受けたあの大伴博麻の出身地である。「筑紫国上陽咩(かみつやめ)郡」とある。

 『日本古代地名事典』は地名「ヤメ」について次のように解説している。

やめ [八女]
 『和名抄』筑後国に「上妻郡・下妻郡」があるが、これは「上八女(かみつやめ)郡・下八女(しもつやめ)郡」の意であり、『景行紀』18年に見える「八女県・八女国」 のことで、福岡県八女郡、八女市の一帯をいう。『紀』は「女神の八女津媛」によるとし、当時、女性の首長がいたことを示唆する。このことから、「やめ(八女)」という多くの女性がいる国という変わった地名が成立した。

 前回確認したように「ヤ(彌・八)」は接頭語で「数が多い」という意味をもつ。この点から言えば上の地名解釈は妥当と思える。しかし、地名説話から地名が生まれるのではなく、現存する地名をもとにして地名説話が創られているだから、その点の考慮が必要だ。今の私にはこれ以上論じる手立てがないので深入りしない。

 では楠原氏の「地名学」ではどう解決されているだろうか。氏は「紀」の二つ記事を受けて、次のように続けている。

 この地がなぜ八女と呼ばれたのか、という疑問が残る。通説では、上妻・下妻二郡を貫流する矢部(やべ)川の名が同韻相通でヤベ―ヤメに転訛したとされており、吉田東伍『大日本地名辞書』などもこれに従っている。

 同韻相通は、とくにバ行とマ行の間では地名でもしばしば起きる。たとえば、映画『男はつらいよ』の舞台の東京・葛飾区柴又(しばまた)は奈良時代の養老5年(721)の「下総国葛餝郡大嶋郷戸籍」には「嶋俣」と記されており、のちにシママタ→シバマタと転訛したもの。

 だが、八女の場合、ヤベーヤメの同韻相通だったのかどうか、一考を要する。なぜなら、シマやシバのつく地名は全国に無数にあり、それが相互に音韻交替した例も数多く見られるのだが、ヤメという地名の例は全国でたった一カ所、ここだけなのである。

 ヤベ(矢部・屋部・谷部など)は九州から関東地方まで全国に十数カ所、ヤノメ(矢目・矢野目・谷目)も全国に数カ所存在するが、ヤノべはない。つまり、ヤべ地名の語尾の「べ」が同韻相通で「メ」に転じる場合、語調の関係で助詞の「ノ」が入った語形になるのだと思われる。

 また、地名の意味・語源的にも疑問がある。ヤベの語源はアヒ(合)・ベ(辺)→ヤベで、「谷間」を呼んだものあろう。だが、この意味の地名は矢部川の中・上流域には適切な名称だとしても、「八女」と呼ばれた地域の中心部であった現・八女市北西部の地形には合致しない。八女市と八女郡広川町の境界に延びる長峰(ながみね)丘陵とその南側の八女台地は後述するように古墳の一大密集地帯だが、およそ「谷間」と名づけるような地形ではない。

 ならば、「八女」とはどんな地名で、何を呼んだのか、あらためて疑問がつのる。結論をいえば、ヤメとは「倭人伝」が記す「邪馬」の転訛である、と私は推測した。その論拠は以下のとおりである。

 「ヤメ」という地名は一例しかないという理由で「ヤマ→ヤメ」という同韻相通説をとることに慎重になっている。こういう論理の運び方には共感を持てる。では「ヤメ」を「ヤマ」の転化だとする論拠を読んでみよう。

 まず前述した『日本書紀』景行紀18年条は、八女県の藤山を越えて南方の粟岬(あわのさき)を望んだ天皇が詔して、「其の山の峯岫重畳(みねくきかさな)りて、且美麗(またうるわ)しきこと甚なり」とのたまわった、という記事である。第Ⅳ章の「末廬国」で松浦の郡名起源に関する神功皇后の故事は暗に地名語源の真実を示唆していたと述べたが、この景行天皇の何気ない一言も、案外、事の真相を語っているかもしれない、と考えたのである。

 『「21国」の読み:準備編』で紹介したように、楠原氏の「ヤマダコク(邪馬臺国)」比定の方法は「稜線が直線状に高みを増していく」山探しだった。現地に出かけていって、「神聖な山が神々しい錐形に見える地」を見つけてそれを論拠としている。邪馬国の場合も同様、この時点から氏はそのような形の山探しを始めている。しかし、今度は現地に出かけての確認ではなく、パソコンで展望図を作ったという。そのようなソフトがあるのだろうか。そのソフト、すごいなあ! 次のようなことが出来るそうだ。

 景行紀の記事の「藤山」の遺称地である現・久留米市藤山町を基点にして南方を望む展望図をパソコンのディスプレー上で作成してみたが、とくに特徴ある景観は得られない。そこで、基点をもう少し南にずらせて、古墳密集地帯である八女市西部から逆に北方を見た景観を映しだしてみた。すると、筑紫平野に向かって長々と延びる耳納山地の秀麗な稜線が出現した。

 一方、さらに北東方向に視界をずらすと、名のとおり東に高まりながら長々とのびる長峰丘陵が筑肥(ちくひ)山地北縁の支脈上にある高峰(たかみね)(標高567.2m)まで、約12㎞にわたって稜線が見事な一直線を示しているのである。

 景行紀の記事はやはり、何の根拠もないフィクションなどではなかった。地元で数百年前からヤマ(邪馬)と呼ばれてきた地名を踏まえて、それなりの脚色を加えて語られたのが景行紀の記事なのであろう。

 「地元で数百年前からヤマ(邪馬)と呼ばれてきた地名」というくだりの「数百年前」は、『日本書紀』が編纂された頃から「数百年前」という意だろう。ここで論理が顛倒している。八女が邪馬国であることが証明されていないのに何ら根拠のない推測をしている。いや、氏は「其の山の峯岫重畳(みねくきかさな)りて、且美麗(またうるわ)しきこと甚なり」にピッタリの山景が見つかったことで証明完了と考えているらしい。

 邪馬臺国のときも写真が掲載されていたが、ここでも写真が掲載されている。どちらも私にはどこにでも見られるありふれた山景にしか見えない。その写真を転載しておこう。

楠原氏の邪馬国

 次の段では「ヤマ→ヤメ」という音韻変化の説明をしている。
 ヤマとヤベ・ヤメとの関係は、次のように説明できる。

 国郡制制定以前、現在の矢部川中・上流域はヤベ、現・八女市西部一帯はヤマ(邪馬)と呼ばれていた。国郡制で両地域は一体化されたが、その統合された地域の名として「八女」が設定された、という経緯が想定できる。  邪馬の「馬」は、奈良時代の日本流の漢字字音である呉音ではメとも発音できる。一方のヤベのほうは、同韻相通でヤメにも変わりうる。そのようにして、二つの地名を折衷したのが「八女」ではなかったか。

 「国郡制制定以前、現在の矢部川中・上流域はヤベ、現・八女市西部一帯はヤマ(邪馬)と呼ばれていた。」と、何の根拠もない顛倒した論理を繰り返している。すべて「邪馬国=八女」を前提にしたこじつけ論理としか私には読めない。ご本人も「…想定できる。」「なかったか。」と、さすがに断定することは避けている。

 氏は「地名の意味もわからずに、音の類似だけを頼りに後世の地名に当てはめようとすれば、それは必然的に〝当て物・判じ物″、挙げ句は〝当るも八卦″のレベルに陥るほかない。」と、「井の中」での従来の研究手法を正当に批判しているが、私にはその批判の対象の中に氏自身も入ってとしか思えない。
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