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549 新新宗教批判(15)
オウム―サリン事件は全仏教の問題だ。
2006年7月13日(木)


 今回からオウム真理教を取り上げる。
 オウム真理教については「第448 3月910日」~「第454 3月17日」で一度 取り上げた。そのときのモチーフは『オウム真理教事件を前にして、なお「正義の 原理」は有効か。』という観点からオウム真理教事件が私たちに突きつけた問題 を考えることだった。今回はオウム真理教の教義を検討することがテーマである。

 さて、オウム真理教は教祖・麻原彰晃が裁判中で東京拘置所に収監されている。 そして今麻原はその拘置所で廃人同様の状態だという。(そのような状態になった のは東京拘置所で麻原が薬づけにされたためだという情報がある。) オウム真理教は壊滅した。それでもなおオウム真理教の教義を取り上げる意味が あるだろうか。

 教祖を失った教団は上祐史浩を新たな指導者として教団名も「アーレフ」と 変えて、細々ながらなお活動を続けている。上祐は「菩薩=慈愛の救済者」であり 「マイトレーヤ正大師」と称号している。教義がどのように改変されているか 詳らかでないが、信者はオーム真理教時代と同じような修行を積んでいるよう だ。若者をとらえてきた教義はなお生きている。
 また、オウム―サリン事件はどの宗教教団(特に仏教の)も引き起こす可能性のある 宗教の負の側面を如実に示している。しかし、オウム―サリン事件をもって 他山の石となした教団は皆無だったようだ。オウム真理教が陥った陥穽からど の宗教も無縁ではないはずだ。その陥穽とは何なのか。
 このようなわけで、オウム真理教の教義を検討することは決して無意味なこと ではないと思う。

 天理教の教義は中山みきが更年期の神憑り症候になってつくりだしたものであり、 幸福の科学の教義は持続的なパラノイアに特有な誇大妄想に大川隆法とりつかれて つくりしたものであった。それに対して麻原彰晃は密教的な過酷な修行(ヨーガ)で得たイメージを もとに教義をつくりだしている。その点では全く仏教(原始仏教)的である。

 次の吉本さん文章はサリン事件の犯行がオウム真理教によるものと断定できない 時点でのものである。「もしオウム真理教と結びつけるとしますと」と慎重な言い 方で書き始めている。(まだ起訴以前から容疑者を犯人扱いして言論的暴力を振るって 憚らない最近のマスコミは見習うといい。)

 これを、もしオウム真理教と結びつけるとしますと、何処に関係があるんだと いうことになります。僕が理解しているヨーガは一種の瞑想法でして、瞑想法に よって、医学用語を使えば幻覚を作り出す。それから色彩を作り出す、光を作り 出すというふうにして行き着く所は仏教全体のイデオロギーと同じで、つまり 如何に修錬して死を作り出すかということが、ある程度大きな意味を持つと思 います。つまりヨーガは究極するところ、死を人工的に作れるところまで修練 をする。瞑想法によってそこまで持っていくことが、とても重要だということ があります。

 そういうふうに死を人工的に修練によって作れるようになりますと、あらゆ る仏教がそうであるように、死後の世界は在るという理屈になります。ちゃん とイメージできるんだから実在するという理屈になります。そうして実在の死 の世界、あるいは死後の世界に自由に、というか人工的にいつでも行けるとい うことになります。そういうことが要するに仏教の持っている無常観の基礎、 根本になっているわけです。つまり生であっても死であっても、同じように同 じイメージで同じ手触りで同じ見え方で見えるし、体験できるんだから、生と 死は同じじゃないかという観点になります。

 それは、やっぱりある意味で死を軽んじることになりそうです。ヒューマニ ズムと違ってアンチヒューマニズムと言いますか、死は何でもないことなんだ と思いやすい傾向が出来あがります。これは仏教の全部がそうで、仏教の修鎌 は全部そんなもんだと僕は思います。ですからオウム真理教がサリン事件と関 係があるとすれば、この行為でもって少なくとも鎌倉時代以前までの日本にお ける仏教の修練の仕方が全部否定される要素と結びつきうることがはっきり したと思います。いつだって殺戮と結びつけられるんだよ。それくらい死は 軽いものなんだよっていう、その意味ではあらゆる仏教における僧侶の修行は、 全部「無化」されたと解釈できると思います。つまり、それだけの大きな意味 があると思います。(「わが情況的オウム論―より普遍的倫理へ」より)


 この後で吉本さんは「もしオウムがサリン事件と関係あるとして、わずかに 仏教の内に潰減を免れているのは、日本における浄土教の系統だけだと思いま す。」といっている。「それはなぜか」と問うことにも大きな意義があると 思うが、今はおく。(成り行きではこの問題を取り上げる機会が出てくるかもし れない。)
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