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《続・「真説古代史」拾遺篇》(75)



「倭人伝」中の倭語の読み方(18)
「21国」の読み:邪馬国(1)


 今回から〈第二グループ〉の国々の読みと所在地の比定を検討するが、そのうちの(24)邪馬国と(29)奴国については『「女王の境界の尽くる所」(3)』で既に取り上げている。従ってまた「女王の境界の尽くる所」の南にある狗奴国(第三グループ)の所在も決定している。

 さて、古田さんは
『今回のわたしの解読の方法による帰結が、決して「究極の決定性」をもつものではなく、一つの可能性の「示唆」にすぎない。』
と、「当然至極の道理」を記している。私もこの「道理」にならって、「井に中」の説も取り上げることにする。どちらがより信憑性があるか、判定できればよいが、保留せざるを得ない事例も出てくるかも知れない。すでに古田説を紹介済みの上の2国(邪馬国・奴国)について、改めて「井の中」の諸説の紹介をしておこう。

邪馬国

 『評訳倭人伝』から引用する。

 邪馬壹国の邪馬であるならば、「ヤマコク」と訓むべきである。しかし一般には「ヤメコク」と訓む。これは筑後国の八女なる地名を念頭におくからであろう。「馬」は、音「ボ」「ム」という呉音のほかに、漢音では「バ」「メ」であるから、「ヤメ」と訓んで悪くはない。これを「ヤメ」と訓むならば、邪馬壹国・邪馬臺国は、「ヤメイ(チ)コク」・「ヤメタイコク」と訓むべきであろう。そうならば、私はしたがって「ヤマコク」、あるいは「ヤバコク」と訓むべきだと思うのである。

 「…と訓むべきであろう。そうならば、私はしたがって…」というずいぶん変な文脈がある。私の転記間違いかと調べなおしたが間違っていなかった。でも言いたいことは分かる。次のように主張している。

 「邪馬壹国を「ヤマイチ」と読んでいるのに「邪馬国」を「ヤメ」と読むのは一貫性がない。「邪馬壹国」を「ヤマイチ」と読んでいるのだから、当然「邪馬国」も「ヤマ」と読むべきだ。 ― その通りである。しかし並記している「ヤバ」も、結論先出しの読み「ヤメ」もあり得ない。「バ」や「メ」は漢音だから、『「倭人伝」中の倭語の読み方』の「ルール・その一 漢字の音は呉音」に反する。もちろん例外はあるだろう。そのようなケースと思われる場合は当然再考しなければならないが、私としてはこのルールを重要なフィルターとして使っていきたい。どうやら「井の中」では呉音・漢音を区別する認識が全くないようだ。

 では、「マ」は呉音にも漢音にもないのに、どうして「邪馬」を「ヤマ」と読めるのだろうか。「マ」は慣用音なのだった。

 慣用音については、私にはよく分らないことがある。「慣用」と言うけど、いつ頃からの「慣用」?…これは漢字毎に異なるだろうと思う。では「馬」の慣用音「マ」は三世紀にも使われていたのだろうか。それは誰にも分らないのではないだろうか。ただ、万葉仮名の「マ」の中に「馬」があるので、三世紀にも「マ」が使われていたと考えるほかない。

 ここで思い付いて『…なかった』の「邪馬壹国をどうよむか」を読み直してみた。次のような論拠が挙げられていた。

「馬」―母下(もか)切〈集韻〉ma3

 では「邪馬国」を「ヤマコク」と読んで、水野氏はこれをどこに比定しているだろうか。

 すでに白石は、邪馬国を筑後国上陽郡の八女国と比定し、本居宣長もそれに同じ、牧氏また筑後国八女郡としている。宮崎氏は「ヤマのくに」と訓み、筑後国三瀦郡・上妻郡・山門郡・三宅郡の地で、現在の福岡県三瀦郡・八女郡・山門郡・三池郡およびこの郡の中にある各市を含む地域とする。この時代に三瀦郡はほとんど海中にあり、大川市などが点々と島になっていた。山門郡も鉄道以西の大半が海で、筑後川の河口は、佐賀県三根町天建寺附近と、筑邦町住吉附近を結んだ線であって、それより下流は筑紫海と呼ばれた大湾入であった。一方大和説では、内藤氏は伊勢国員弁郡野麻に比定し、米倉氏は播磨国好摩駅(赤穂郡上野町山野里)かとする。

 水野氏は諸説を紹介しているだけで、氏自身の説を提出していない。「ヤメ」説は「ルール・その一」により除外。内藤説の「ノマ」、米倉説の「ヤマノ」など、「ヤマ」との類似音を探し出す手法での比定である。宮崎説は「ヤメ」と「ヤマト」と欲張って二つもある。それにしても「福岡県三瀦郡・八女郡・山門郡・三池郡およびこの郡の中にある各市を含む地域」という広大な所在地比定にはびっくりした。この広さは邪馬壹国をもしのぐのではないだろうか。私の感覚では21国中の国の広さは大きくともせいぜい「郡」ぐらいだ。

 「この時代に三瀦郡はほとんど海中にあり、……それより下流は筑紫海と呼ばれた大湾入であった。」
という指摘にもびっくりした。出典が示されていないのでその信憑性を確認できないが、信じてよいだろう。ウィキメディアで「筑紫平野」を検索した。次のようなくだりがあった。

「筑後川と矢部川により形成された三角州は非常に平坦で、クリークが発達している。三角州の外側には鎌倉時代以降すすめられてきた地が有明海に向かってのびており、ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている。」

 「クリーク」とは潅漑用の水路である。手元の地図帳から「筑紫平野」を転載する。

筑紫平野地図

 ウィキメディアからの引用文も文脈がはっきりしない点がある。「鎌倉時代以降…ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている」と読めてしまうが、私は「有明海に向かってのびている」と文はここで切るべきで、「(三角州は)ほぼ100年に1キロメートルの割合で陸地化したと推定されている。」と読んだ。

 当時の筑後川の河口が水野氏の言う通り佐賀県三根町天建寺附近だとすると、現在の河口より約20㎞ほど上流になる。そうすると当時の河口から現在の河口まで陸地化するのにおおよそ2000年かかったことになり、水野氏の記述とほぼ一致することになる。氏が言う「鉄道以西」の鉄道が鹿児島本線を指しているのなら三潴市・大川市・柳川市などは海の中だったことになる。東側では佐賀市辺りも海だった可能性がある。

 ここまで書いて、もっと確かな情報はないだろうかと」筑紫平野古地図」という検索をしてみた。なんと「古田史学会報 四十四号」がヒットした。下山昌孝という方の論文「古代の佐賀平野と有明海」だった。これを読むと、これまでの私の考察はペケだった。この論文を読むと、水野氏の用いた資料はどうやら「久留米市史第一巻」あるいはその原典「九大教養部地質研究報告第4集(昭和三二年)」だったようだ。詳しくは直接読んでいただくこととして、下山論文の結論部分を引用する。

 縄文時代前・中期には「古筑紫海」が大きく広がっていたが、後期から弥生時代にかけて筑後川周辺の陸地化はかなり進んだ様である。図4は、佐賀県教育委員会編集「吉野ケ里遺跡」(2000年2月発行)に示された「吉野ヶ里を中心とした集落(弥生時代後期)」である。これを見ると、現諸富町の辺りが筑後川の河口になっていて、多数の「環濠をもたない集落」遺跡が分布している。そして吉野ヶ里を中心とする「国」の構成を説明した一節に「(弥生)終末期から古墳時代初頭に属する諸富町の三重檪ノ木遺跡や土師本村遺跡など当時の海辺の遺跡からは、東海地方以西の系統の土器が多く出土することから、吉野ヶ里集落など山麓部の拠点的な集落のための港であった可能性が高い」と記されている。最近の考古学的調査結果を反映した、佐賀県教育委員会による説明を見れば、諸富町の津は弥生時代に既に港として機能していたことは明白である。

 上の地図で諸富町を確認してください。弥生時代にはもうそこまで河口は南下していたのですね。考古学的調査結果をふまえた議論なので、疑問の余地はない。

 ということでした。出来上がったものを発表しているのではなく、一緒に考えましょうという趣旨で、考えながら書いているのでこういう事がよく起こる。改めて書き直しはしないで、このまま記録しておきます。まったく知らなかったことを学ぶことができたので、無駄骨を折ったとは思っていない。
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