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《続・「真説古代史」拾遺篇》(74)



「倭人伝」中の倭語の読み方(17)
「21国」の読み:準備編


 本題に入る前にちょっと横道へ。
 『評釈 魏使倭人伝』はいわば『「井の中」の諸説総覧』の観がある。これまで「井の中」での邪馬壹国比定は断片的に知っていただけだった。これを用いて、その諸説を総覧してみようと思い立った。どこかで役に立つかも知れない。

 水野氏作成の表を転記する。〈学者名―比定地―出典〉という三つの項目から成っている。


《南九州説》
本居宜長―邪馬臺国すなわち熊襲、卑弥呼は熊襲の女酋長。―馭戎慨言(全集)
鶴峯戊申―邪馬臺国は熊襲にして、襲国に他ならず。―襲国偽僭考
菅政友―邪馬臺国は大隅薩摩地方なり。―漢籍倭人考(全集)
吉田東伍―邪馬壹国は大隅国囎唹郡姫城なり。―日韓古史断
那珂通世―邪馬壹国は姫城、投馬国は筑前国托摩郡なり。―那珂通世遺書

《北九州説》
近藤芳樹―肥後国菊池郡山門郷、投馬国は肥後国托摩郡。―征韓起源
白鳥庫吉―肥後国菊池郡山門郷説。―卑弥呼問題の解決
太田亮―筑後国山門郡を含めた肥後菊池郡山門郷説。―日本古代史の新研究
星野恒―筑後国山門郡説。―史学叢説第一輯
久米邦武―邪馬台国は筑前国山門郡(八女国)なり、投馬は薩摩国。―日本古代史
橋本増吉―邪馬台国は筑後国山門郡なり。―東洋史上より見たる日本古史研究
喜田貞吉―邪馬台国は筑後国山門郡なり。―漢籍に見えたる倭人記事の解釈
藤井甚太郎―邪馬台国は肥後国内なり、投馬は肥後当麻郷なり。―邪馬台国の所在について
榎一雄―邪馬台国すなわち山門は筑紫平野矢部川流域なり。―邪馬台国増補版
水野祐―邪馬壹国は筑後川下流地域筑後国山門郡地域である。―日本古代国家

《ヤマト説》
三宅米吉―邪馬台国は大和国、投馬国は備後国の鞆(トモ)。―邪馬台国について
内藤虎次郎―邪馬台国は大和国、投馬国は周防国佐婆郡玉祖郷。―卑弥呼考
山田孝雄―邪馬台国は大和国、投馬国は但馬国。―狗奴国考
笠井新也―邪馬台国は大和国、投馬国は出雲国。―卑弥呼時代における畿内と九州との文化的並に政治的関係
中山太郎―邪馬台国は大和国である。―魏志倭人伝の土俗学的研究
富岡謙蔵―邪馬台国は大和国である。主として魏晋鏡が大和から出土する故―古鏡の研究。
高橋健自―邪馬台国は大和国である。―考古学上より見たる邪馬台国
梅原末治―邪馬台国は大和国である。―考古学上より見たる上代の畿内
中山平次郎―邪馬台国は大和国である。―漢委奴国王印出土状況より見た漢魏時代の倭国の動静
肥後和男―邪馬台国は大和国。―大和としての邪馬台国
和歌森太郎―大和国を邪馬台国とする。―私観邪馬台国
志田不動麿―大和国を邪馬台国とし、投馬国は備後国鞆とする。―邪馬台国方位考


 初めて知る学者さんもいる。まさに百花繚乱、いや徒花(あだばな)繚乱である。水野氏のほかに「邪馬壹国」という表記を選んでいる人が2人いるが、あとは全て「邪馬台(臺)国」である。水野氏は「邪馬壹国」を選んでおきながら「山門郡」に比定している。「邪馬台(臺)国」と手が切れていない。いまだに「邪馬台国」を大前提にした書物が次々と出版されている。「邪馬台国」という疫病の絶滅はかなり難しい。

 上の表で「邪馬台国」とともに投馬国の比定を行っている人がかなりいる。しかし全て方向記事や水行記事を無視したものばかりで、学者という肩書きが泣いている。

 さて、今回から〈第二グループ〉の国々の比定を検討する。その検討の参考にと思って、楠原祐介著『「地名学」が解いた邪馬台国』(以下、『地名学…』と略称する)という本が目に付いた。あいかわらず「邪馬台国」なので、所在地比定に関しては全く期待をしていないが、「地名学」を標榜しているので、「21国」の読みについて何か有効な知見に出会えるかも知れない思って借りて来た。

 楠原氏は実に52冊もの参考文献を挙げている。その中に古田さんの『「邪馬台国」はなかった』(以下、『…なかった』と略称する)が挙げられていた。しかし、全く誤読(あるいは読んでいない?)をしているのでせっかくの名著が何の役にも立っていない。次のような按配である。

 古田氏はまた、ヤマと呼ばれた地域の首都・中心地を「壱」と称したのだとも主張するが、この論も首肯しがたい。日本ではこれまで、ある地域の中心部を指して「~壱(一)」と表現するような命名習慣はない。私は中国の文献には疎いので断言するつもりはないが、中国国内の一地域にせよ周辺の蛮族の国を呼ぶにせよ、ある地域の中心地を「~壹(壱)」と呼ぶ習慣はやはりないのではないか。
 どこをどう読めばこのような解読ができるのだろうか。古田さんは「壹(壱、一)」がある地域中心部を指す、などと、どこにも書いていない。『三国志』における「壹」の使用例を調べ上げて、その文字が「魏朝の天子に対して、二心なく忠義を尽くす」という特別の意味があることを、「歴史的由来」と「同時代の政治的状況にもとづく理由」の二面から克明に論証している。

 ついでなので「地名学」による「邪馬臺国」(氏は「臺」と表記している)を紹介しよう。氏は「邪馬臺」を「ヤマダ(タ)」と読むという新説を出している。そして、その「タ」は「彼方(アナタ)・此方(コナタ)」の「タ」であり、「ヤマタ」は「山になった所」「山のあるあたり」「山のある方向」「山の見える方向」という意味であると説く。さらに氏は、肥前国佐嘉(さが)郡山田郷に目をつけ、実際にそこに出かけて「甘南備山」と呼ばれている山に引きつけられる。そして「ヤマタ」とは「神聖な山が神々しい錐形に見える地」であろうと推測して、「邪馬臺国」の所在地は肥前国佐嘉郡であると結論する。また、吉野ヶ里遺跡に近いことをその論拠の一つにしている。

 実際に現地に出かけて、「歴史は足にて知るべきものなり」を実行している点は高く買いたいが、「邪馬臺国」という間違った表記を前提にしているかぎり、無駄足に終わる。里程記事も考古学的事実(三種の神器・青銅器・鉄器・絹などの出土品)も無視した比定はすべて無効である。

 なお、『「地名学」…』に「井に中」の「邪馬台国」九州説の比定地が一目で分る地図があるので転載しておこう。『評釈 倭人伝』とちがって、かなり新しい人たち(私はほとんど知らない)が多い。「井の中」では「三セズ」(採択せず・論争せず・相手にせず)協定を結んでいるらしく古田説を全く無視しているが、この地図には古田説も加えられている。この点は評価しておこう。

「邪馬台国」比定地
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