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《続・「真説古代史」拾遺篇》(73)



「倭人伝」中の倭語の読み方(16)
投馬国(7):考古学的根拠および官職名


 「投馬国=薩摩」という比定が妥当であることを考古学上の事実から補強できないだろうかと考えていたら、おかしな問題にぶつかった。「投馬国」問題をもう1回続けたい。

 私がぶつかった「おかしな問題」を説明しよう。

 「投馬国=薩摩」の妥当性を鉄の出土状況から確認しようと思った。「狗奴国の滅亡(20)」に掲載した表(表①と呼ぼう)や図は『日本古代新史』(1991年)からの転載である。それは20年ほども前の資料なので新しい資料を探していた。『狗奴国と鉄』を借りて来たのはそのためでもあった。その本に①と対応する表が二つあった。一つは奥野正男著『邪馬台国はここだ』(1981年)からの転載(表②)で、もう一つは安本美典著『「邪馬台国畿内説」徹底批判』からの転載(表③)である。それぞれ必要な部分(九州部分)を切り取って表示する。

表①
古冢期の出土鉄器分布表

表②
鉄器出土数表2

 この表は奥野氏が自らの研究をまとめられたもののようだ。氏は主として「古代の鉄」を研究されている。それだけに表①より詳しいものとなっている。

 表①と表②はおおよそ同じような様子が読み取れるが、一つだけ著しく違う点がある。表②では熊本が武器は少ないのに「工具・他」が突出しているのが目立つ。これはどういう事なのだろうか。

 九州に注目しよう。武器の出土数を見比べると、表②では岡に次いで長崎が多いが、佐賀・大分・鹿児島はほとんど同じ数を示している。ただし、「鉄剣」を見ると、鹿児島県は第三位になっている。鹿児島県のどの辺りからの出土なのか分らないので確実なことは言えないが、表①・②は「投馬国=薩摩」という比定を支持していると言ってよいだろう。

 ところが、表③ではとても「おかしな問題」に遭遇する。(「鉄刀」が二列あって、その第一列が表②の「鉄刀」と同じデータだった。明らかに編集ミスなので削除した。)

表③
鉄器出土数表3

 この表は川越哲志編「弥生時代鉄器総覧」(2000年)を元に安本氏が作成したものだという。菊池氏によると「弥生時代鉄器総覧」は非売品に近くて一般には入手しずらいもの」だそうだ。図書館にはなかった。なお、表①の脚注によると、古田さんが利用した資料「弥生時代鉄器出土土地地名表」の編者の一人は川越哲志氏である。

 「狗奴国の滅亡(20)」で表①を用いたとき、私は次のように書いた。

「ここで用いている図表の数値は、その後の発掘調査などの進展により現在明らかになっている数値とは多少の違いがあるかも知れない。しかし、その基本的な傾向には変わりはない。岡が圧倒的に多い。権力の中心が北九州にあったことが一目瞭然である。」

 「弥生時代鉄器総覧」は「弥生時代鉄器出土土地地名表」の約20年後の編纂である。表①②と表③を見比べると「多少の違い」どころではない。出土数は約2倍に増えている。この20年間にたいへん件数の遺跡発掘調査が行われたことを示している。

 この新しい資料・表③によっても「権力の中心が北九州にあったことが一目瞭然である」が、一点「おかしな問題」がある。

 ここでたぶん誰もが「おかしな問題」に気付くと思う。そう、九州の中では鹿児島が極端に少ないのだ。この20年間、鹿児島だけ追加の遺跡調査がなかったのだろうか。もしそうだとしても、それでもおかしい。表①②では鹿児島の武器出土数は21なのに表③ではたったの3なのだ。表①②と表③とどちらが正しいのか、私には判断する材料がない。表①・表③はそれぞれ「弥生時代鉄器出土土地地名表」・「弥生時代鉄器総覧」を用いて作られた。川越氏はその基礎資料の両方の編纂を手がけている。ますます不可解だ。図書館で弥生時代の鉄を扱った本を何冊か調べたが、手掛かりは見いだせなかった。

 なお、菊池氏は表③では熊本の出土数が岡に次いで多いことをもって、狗奴国を熊本に比定する論拠にしている。

 もしも表③の方が正しいとすると、「投馬国=薩摩」説の考古学的根拠が怪しくなるけど、私にはこれ以上の資料は思いつかないので、この問題はここでひとまず終える。そして、ここで視点をすこし移して、縄文時代の鹿児島を調べて見よう。

 『「神代紀」再論:考古学が指し差すところ』で、鹿児島県北部は「アカホヤ火山灰」で壊滅的なダメージを受けたことを紹介した。壊滅的と言われているが、わずかではあっても生き残った人々はいただろう。その人々は、一時は他の地へ移住をしたりしながらも、逞しく生き続けたとことだろう。その壊滅的打撃を受けた頃の鹿児島は縄文先進国であった。新東晃一著『南九州に栄えた縄文文化 上野原遺跡』から引用する。

 上野原遺跡は、鹿児島県霧島市国分の市街地の南東部で、鹿児島湾周縁の姶良カルデラの火口壁上の標高約260メートルの上野原台地の先端部に所在している。遺跡は最先端技術の工業団地(国分上野原テクノパーク)造成にともない1986年に発見され、その後継続的に発掘調査がおこなわれた。

 まず、1994年度を中心としたⅢ工区の発掘調査では、縄文時代早期にはみられない壷形土器や耳飾りなどを所持した成熟した縄文文化が発見された。その後、1996年度を中心としたⅣ工区の北東側の調査では、52軒の竪穴住居跡で構成する集落跡が発見され大いに注目された。これらの発見は、縄文時代草創期から早期にかけての、先進的で成熱した南九州の縄文文化の集大成となり、日本列島の縄文文化観の転換を迫る成果を提供したことになる。

 上野原台地は、姶良カルデラや桜島などから噴出した多くの火山灰堆積層からできている。火山灰層は、腐植土層と互層になって17層以上の層位が確認されている。腐植土層は人類の生活跡を残した文化層であり、火山灰層は激しい火山活動があったことを教えてくれる。つまり、上野原台地の縄文人は、幾多の激しい火山活動と戦いながら生き続けてきたことがうかがえる

 上野原遺跡の地層は、まず、現代の耕作土の下には、近世から中世の生活層(2層)、弥生時代の住居跡や畑跡など(3層)、縄文時代晩期や後期(4層)および前期(5層上面)の生活層となっている。

上野原遺跡

 5層は、屋久島の北海底(硫黄島付近)の鬼界カルデラから噴出したアカホヤ火山灰層である。この火山灰層は、約60センチ以上の厚さで上野原台地を被っている。このアカホヤ火山灰層は、約6400年前の降灰とされ、韓半島南部や関東地方の遠隔地でも確認できる超広域火山灰で、完新世(縄文時代)最大の火山爆発とみなされている。

 続く6層は、縄文時代早期後葉(7500年前)の遺構や遺物が出土しており、Ⅲ工区の文化層はこれに該当する。そして、続く7層は、早期中葉から前葉(9000年から一万年前)の遺構や遺物が出土しており、Ⅳ工区の集落跡が存在する層に該当するものである。

 そして、8層は無遺物層であり、上面にはP13(約9500年前)とよばれる桜島の火山灰が混入している。10層は、約15~20センチ程度の厚さに堆積した薩摩火山灰層(P14)とよばれる桜島の噴出物で、この爆発によって現在の桜島ができたと考えられている。上野原遺跡では、この10層以下では人類の生活した跡は確認されてない。

 さて、投馬国の官職名は大官は「弥弥(ミミ)」、副官は「弥弥那利(ミミナリ)」であった。この倭語を古田さんは次のように解読している。

「ミミ」の地名は、日本列島(西日本)各地に少なくない。たとえば、大阪府の仁徳陵のあるところは「耳原」である。「耳(ミミ)さん」というのが、土地の旧家である(「うどんすき」の店、「ミミウ」など)。京都でも山科に「耳塚古墳」がある。「土地の長官の墓」である。京都市東山区の豊国神社前の耳塚は「(秀吉のとき)切った耳を持って帰って埋めた」といった類の〝解説″があるけれど、これは〝こじつけ″の「俗説」にすぎない(別述)。やはり「土地の長官の墓」の意の「耳塚との混線」なのである。

 「ミミ」は「ミ」(女神)の〝二重反復語″であり、南方(太平洋方面)に多い語型である。日本語の「言語伝統」を〝正しく″伝えた「官名表示」なのである。決して「弥生時代」あたりに〝造られた″「新規の官名」ではない。鹿児島県の縄文期における「神々への祭祀」期に淵源する「大官名」と「副官名」なのではあるまいか。

 縄文時代の文化・言語・風習などは古冢時代にはまったく消滅するなどと考える人はまずいないだろう。それは天族(征服者)や渡来人などと相互に影響を与え合いながらも受け継がれていく。倭人伝の倭語に縄文期の痕跡が残るのは当然のことだ。いや、古層に残っている言葉はむしろ縄文語から解き明かすことができるケースの方が多いだろう。私は古田さんの「言素論」はその試みの一つだと理解している。
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