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《続・「真説古代史」拾遺篇》(72)



「倭人伝」中の倭語の読み方(15)
投馬国(6):古田説の検討(4)


 投馬国の検討が思いがけず長くなってしまったが、もう一回続ける。というのは、これまでは『「邪馬台国」はなかった』(古田さんにならって第一書とよぶことにする)で論じられた説(旧説と呼ぶことにする)を検討してきたが、実は古田さんは『俾弥呼』では投馬国について新説を提出している。それを検討したい。新説では次のように述べている。

 「伊都国」(糸島郡。現在の糸島市および福岡市)から「投馬国」(鹿児島県)まで、果して水路で何日かかるであろうか(なお、帯方郡はソウルの西方部の可能性あり。また投馬国は川内(せんだい)の可能性あり)。

 「投馬国」の中心部を現在の鹿児島神宮(姶良郡隼人町宇内)あたりにとっても、上野原遺跡(国分市)にとっても、薩摩半島を迂回して鹿児島湾を北上するルートとなるであろうけれども、そのさい、右の「水行十日」に当たる、
 (A) 帯方郡治~韓国西北端
 (B)狗邪韓国~対海国~一大国~末廬国
の両行程と比較すれば、その「二倍」には当たりえないこと、明白であろう。

 もしかりに、九州の東岸部を南行した場合でも、右の(A)(B)の「二倍」には当たりがたいであろう。

 もちろん、
(α)伊都国から投馬国へ
(β)投馬国から伊都国へ
の二つのケースについて、海流の向きからして「同一の日程」ではないであろうけれど、それでも、右の「二倍」に〝当てる″ことは、相当無理なのではあるまいか。


 旧説では投馬国への行路は不弥国から始められていたが、新説では伊都国を出発点にしている。第一書では、伊都国は糸島半島の付け根当たりというだけで、その中心地は特定できていなかった。ここでも「現在の糸島市および福岡市」と広い範囲を示しているだけだが、「女王国所在地の結論」という項で少し突っ込んだ論考をしている。

 現在の、わたし自身の「考え方」に立ってのべよう。

 第一のポイントは、「伊都国」の〝位置″だ。末廬国から「五百里」。「直線行路」ではない上、終着点の「伊都国の中心地」も、必ずしも明確ではない。「糸島半島近辺」であることは確かでも、その「近辺」のどこに「中心点」をとるか、で、次への展開(「不弥国」への百里)が〝変動″するのである。

 第二のポイントは、「一大率」の存在である。第一書ではこれを「一つの大きな軍団の長」と考えた。まちがいだった。倭人伝中の「直前」ともいうべき文面に「一大国」が存在する。壱岐だ。その「一大国の軍団のリーダー」のいたところは、どこか。それが問題なのである。

 現在のわたしは「壱岐の松原」近辺に、それを「見る」のである。対馬・壱岐は著名の二島だ。その一つ、「壱岐」をわざわざ、この博多湾岸の西域に〝名付け″て「壱岐の松原」と呼んだのは、なぜか。 ― それが「一大率」の存在をしめす地名だったのではないか。現在のわたしは、そのように考えているのである。

 第三のポイントは、基点をなす「不弥国」である。その〝新たな位置付け″である。右の「壱岐の松原」より、さらに「百里」東寄りとなろう。当然、那珂川、御笠川の流域、現在の博多の中心部を含む地帯とならざるをえないであろう。

 その「南」とは、いわゆる「弥生銀座」と俗称されるところ。「須玖岡本」も、「筑紫神社」と筑紫野市も、そして太宰府も、いずれもその線上に存在する。「女王国の中枢部」として、考古学的出土上、何の不足もないのである。

 「壱岐の松原」(現在の表記では「生の松原」)を伊都国の中心と考えている。念のため私の得意技(?)の地図上糸測定をしてみたら約40㎞。「五百里≒38.35㎞」にふさわしい地点だ。そこは博多湾の西海岸、能古島の南である。不弥国・伊都国のどちらを出発地と考えても投馬国までの距離は同じと考えてよいだろう。しかし、『九州の東岸部を南行した場合でも、右の(A)(B)の「二倍」には当たりがたい』という判断は間違っていると思う。前回に書いたように、私の糸測定は実に大雑把ではあるけれども、東海岸周旋ならば丁度「二倍」ぐらいになった。

 古田さんの新説の文章は次のように続く。
 端的に言おう。「この『二十日』は、倭人側の『二倍年暦』による記述である。」と。

 「伊都国と投馬国との間」は、「里程」で書かれていない。すなわち、魏使は投馬国に至っていないのである。したがってここに書かれている「日数」は、「倭人側からの報告」によって書かれた。そのように見なす他はない。その倭人側は「二倍年暦」の国であった。だから、当然この「二十日」も「二倍年暦」であり、通例の「中国側の表記」では、「十日間」に相当しているのである。

(以下、「」付きの年月日数は「二倍年暦」でのものであり、「」のないものは「一倍年暦」(普通)の年月日数である。)

 つまり、古田さんは「二倍年暦」は年数だけではなく、月数も日数も二倍になっていると考えている。
「裸國・黒歯國あり、……船行一年」
の「一年」を論じているところで次ぎのように述べている。

 わたしは三国志の魏志倭人伝をもって「二倍年暦」表記の世界とみなした(第一書参照)。すでにこのテーマにふれた先人がいた。安本美典氏である。けれども氏は「二倍年暦は、寿命計算だけです。」と、わたしに語った。その一点で、わたしは氏と見解を異にしたのである。「寿命」であろうと、「日数」であろうと、「二倍年暦は二倍年暦」であり、別概念をもってこれを〝扱う″べきではない。これがわたしの学問の方法だったのである。

 この立場に立つとき、この「一年」は「半年」であり、その「半年」によって黒潮は人間を「南米の中央部」へと導き、……(以下略す。いずれ詳しく取り上げる予定です。)

 「二倍年暦」なのだから『6ヶ月が「1年」』という説は至極当然である。そうでなければ「暦」とは言えない。しかし、日数も月数も二倍になるというのはどうだろうか。

 「二倍年暦」を証言する文献として倭人伝で裴松之が引用した文章がある。

魏略に曰く「其の俗、正歳四節を知らず、但ゝ春耕・秋収を計りて年紀と為す」

 農業(特に米作)を社会基盤とする共同体では「春耕」と「秋収」を区切り目として、6ヶ月を「1年」とする暦を用いたと言っている。もちろん倭人とて春夏秋冬を知っている。当然なことだ。しかし、暦は社会生活を律する重要な共同観念だから、農業共同体においては「二倍年暦」はそれなりの合理性がある。そのような暦という共同観念は、支配者による強制ではなく、自然発生的に生まれた可能性が大である。

 月の場合はどうか。例えば「満月から新月」までを「1ヶ月」として1ヶ月を「2ヶ月」と数えることも、人々の生活を混乱させる要因はなさそうだから、あり得るかも知れない。しかし、どんなに古い時代でも人々は、春夏秋冬を知っているように、月の満ち欠けには上弦と下弦の違いがあり、満月(新月)から次の満月(新月)が1サークルであることを当然知っているはずだ。それに、1年を「2年」とすることとは違い、1ヶ月を「2ヶ月」と数えることを共通観念としなければならない必然性はない。「1年」を「12ヶ月」としなくとも共同体に何の不都合もないだろう。

 日数の場合も同じだ。例えば1日を昼夜に分けて「2日」と数えるとしよう。これは社会生活にかなりの混乱を招くのではないだろうか。「では四日後に合いましょう」とか「それは五日前に終わりました」とかいった会話すら混乱しかねない。そして何よりも一日のサークルは人間の生理面に大きく関与している。私は1日を「2日」とする必然性もないと思う。

 私には『「二倍年暦」では日数や月数も二倍になる』という考えは納得しがたいが、仮に倭人は日数も二倍に数えたとしよう。この場合の投馬国はどこになるだろうか。

 倭人が言う「水行二十日」は魏朝の暦では「水行十日」となる。これは魏使の狗邪韓国から邪馬壹国までの全水行と同じで「4500里=345㎞」である。またまた糸測定をやってみる。東海岸周旋では日向あたりになる。西海岸周旋では川内川あたりになる。

 ここで、「ああ。そういうわけなのか」と気が付いた。上の『俾弥呼』からの第一引用文の括弧内に「投馬国は川内(せんだい)の可能性あり」という一文があった。古田さんはこの可能性の根拠を何も語っていないが、西海岸周旋を念頭に置いての推定だったのかも知れない。次のような地図が掲載されていた。

投馬国への航路

 もしも実際には「水行十日」だったという新説が正しいとすると、日向と川内と候補地が二つあることになる。そのどちらを選ぶにしてもその論拠を示さなければならない。そういえば水野氏が、投馬国を「トウマ」と読んで「南九州の日向国児湯郡都万神社附近」とした宣長の説を紹介していた。「井の中」の所在地比定は、倭人伝の記述とは無関係に、読みの類似した地を探し出すという手法によっている。その方法論は私(たち)とはまったく異なるが、「投馬国=日向」という可能性が出てきたことになる。

 川内川近辺が正解だとしよう。姶良・川内間は直線距離で30㎞ぐらいである。投馬国は「五万余戸」で邪馬壹国に次ぐ大国だから、その領土は姶良・川内をともに含んだ広がりがあっただろう。そういう意味では投馬国を鹿児島湾北岸近辺としても川内川近辺としても同じと考えられる。しかし、その論拠(水行日数)が異なるので、どちらかを選ぶ必要がある。私は『「二倍年暦」では1日は「2日」』という説を納得できないので、「投馬国は鹿児島湾内の北岸近辺」の方が正しいと考える。もちろん、『「二倍年暦」では1日は「2日」』ということを示す確かな論拠があれば訂正するのにやぶさかでない。
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この記事へのコメント
おっしゃるとおり、西回りだと対馬海流を逆行しますから。東だと時間によって南下する早い潮に乗れます。景行紀の東岸征伐も周防から大分へと南下ですし、九州王朝にとっては了知のコースで、魏使も足足摺まで行っていると古田先生も言っておられ、それなら20日と10日を混同することはないと思います。
尚、1月を2ヶ月とするのは、インド発祥の、1月を満月までの「白月」、新月までの「黒月」とする歴があり、能楽羽衣にも「白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。一月夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。」、つまり1月を3×5=15日にわけて白・黒2月とし、夜毎に天乙女が舞曲を奉仕するという意味の句も残っていますので、否定はできないかと。
なお、この「天人の舞楽」は高良大社が「月神」を祭るとされ、また、玉垂宮は琴弾宮とも呼ばれ、舞楽、神楽の祖神とされており、多利思北弧の夜の統治や志賀海神社の夜神楽(八乙女の舞)等を併せて考えると、九州王朝の夜の舞楽の伝統を受けたものだと思っています。
2012/04/25(水) 10:57 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
ふと思ったのですが、この時代って、方位とか方角ってどれくらい正確だったのだろう?
というか、現代と同じ方法で測っていたのかしら?
2012/04/28(土) 09:35 | URL | #-[ 編集]
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