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《続・「真説古代史」拾遺篇》(70)



「倭人伝」中の倭語の読み方(13)
投馬国(4):古田説の検討(2)


 帯方郡治から狗邪韓国までの7000里を「水行」と「陸行」に配分する手掛かりは「陸行」の方にある。「階段式」読法である。下の図は韓国の実地形(距離は100短里数)である。

陸行里数

 △BDEは三角定規にも使われているあの有名な(?)直角三角形。階段行路の合計里数は
 BD+DC=(2√3+2)×100(里)≒5500(里)
となる。従って「水行」は
 7000里-5500里=1500里

 これで「魏使の一日の行程」が計算できる(前回の部分里程表を参照してください)。

「水行十日」の合計里数は4500里だから
「水行…4500里÷10日=450里/日」

 また、「陸行一月」の合計里数は7500里だから
「陸行…7500里÷30日=250里/日」

 この計算結果はリーズナブルだろうか。古田さんは「陸行」については次のように論述している。

 さて、魏・晋朝の「陸行一日」の里程はつぎのようである。

昼夜、三百里来たる。
〈魏志六、裴松之注所引「英雄記」〉
鴑牛(どぎゅう)一日三百里を行く。
 (右の「鴑牛」は顧劭(こしょう)を比喩す)
〈蜀志七、裴松之注所引「張勃呉録」〉


 これらは「車駕(しゃか)による陸行」である。

陸行、車に乗る。水行、舡(こう)に乗る。泥行、橇(そり)に乗る。山行、檋(きょく)に乗る。〈『史記』夏本紀二)
翻、嘗(かつ)て船に乗りて行く。‥…後、翻、車に乗りて行く。〈呉志十二)


 このように、貴人・将吏の「陸行」は「車」によったものであるから、魏使も、当然「車駕による陸行」に従ったものと思われる。

 一方、「歩行」については、

翻、能(よ)く歩行す。日に二百里なる可(ベ)し。 (呉志十二、裴松之注所引「呉書」)

とあるごとくである。

 「邪馬壹国」にむかった魏使が韓国内歴観の場合、右の正規による「車駕の陸行」に従ったことは疑いないであろう。しかし、倭国の領域に入り、「対海国半周」「一大国半周」「末廬国~不弥国」の場合には、地形上、一部「歩行」をまじえざるをえなかったことと思われる。そうすると、「陸行全行程」の平均値が二百五十里というのは、ほぼ妥当な数値であると思われる(「末廬国 - 伊都国」間は五百里で あるから、その半分に当る)。

 また、韓国内の「陸行」(五千五百里)は、「車駕の陸行、一日三百里」で計算すると、二十日弱となる。したがって、倭国内の「陸行」は、十日強となる。そのうち、「末廬国 - 不弥国」の行程は、約二~三日の行程となり、実地の状況によく適合している。

 古田さんは「陸行」の方がリーズナブルなら、「水行」の方も当然リーズナブルと考えられたのか、「水行」についての論述がない。自分で調べることにしよう。

 当時の船はどの程度のものだったのだろうか。サイト「海事博物館ボランティアあれこれ」さんの「古代の船(2)」と「古代の船(4)」を使わせてもらおう。必要な部分だけ要約する。

 1975年に日本と韓国とが協力して、古代船による「韓から倭」への実験航海が行われた。下の写真はそのときに作られた「古代推定船」である。宮崎県西都原古墳出土の船型埴輪や他の古墳に残された船壁画などを参考にして設計されたという。

古代の船

 このタイプの船は「準構造船」と呼ばれていて、日本では13~4世紀頃までこのタイプの船が主流だったという。また、上の実験航海では「ほぼ順調に漕航のみによる」行路での速度は1.5~2ノットだったという。

 実験航海では帆を全く無視しているようだが、3世紀頃の「準構造船」には帆はなかったのだろうか。またまた「中國哲學書電子化計劃」で検索をして見た。『後漢書』の「馬融列傳上」と『釋名』(後漢の劉熙著の辞書)の2件がヒットした。帆は後漢時代頃から使用されたらしい。

 「中國哲學書電子化計劃」には『三国志』が入っていないので、三国時代の場合は別途に調べよう。三国志で船と言えば「赤壁の戦い」。『十八史略Ⅲ』(徳間書店)から引用しよう。


 瑜の部将黄蓋曰く、「操軍まさに船艦を進め、首尾相接す。焼きて走らすべし」。すなわち蒙衝(もうしょう)・闘艦十艘(そう)を取り、燥荻枯柴(そうてきこさい)を載せて、油をその中に薙(そそ)ぎ、帷睦(いまん)に裹(つつ)みて、上に旌旗(せいさ)を建て、予め走舸(そうか)を備えて、その尾に繋(つな)ぐ。まず書をもって操に遺(おく)り、詐りて降らんと欲すとなす。  時に東南の風急なり。蓋、十艘をもって最も前に著(つ)け、中江に帆を挙ぐ。余船、次をもってともに進む。操の軍みな指さして言う、「蓋降る」。去ること二里余、同時に火を発す。火烈しく風猛く、船の往くこと箭(や)のことし。北船を焼き尽し、烟焔(えんえん)、天に漲(みなぎ)る。人馬溺焼(できしよう)し、死する者甚だ衆(おお)し。瑜ら軽鋭を率いて、靁鼓(らいこ)して大いに進む。北軍大いに壊(やぶ)れ、操走り還る。

 確かに帆が使われている。

 魏使が乗った船は「帯方郡治―韓国西北端」までは自前のもだろう。狗邪韓国以降の「水行」では倭国が用意した船だったかも知れない。北九州に「天下り」した人たちはもともと対馬・壱岐などを本拠地とする海洋民だった。倭国も当然帆を使った航海術を持っていたと考えてよいだろう。どちらの船を用いたとしても大きな差違はないと思う。

 「準構造船」は14世紀頃まで主流だったと言うことだから、紀貫之さんが乗った船も「準構造船」だったと考えられる。次ぎに「土佐日記の航海記」(著者・西野ゆるすさん)を訪ねてみた。

 貫之さんの船は十梃櫓、つまり10人で漕ぐ船で、帆も備えていた。ただし、帆を用いたのは一回だけだったようだ。西野氏は航海部分の記録を分析して次のように述べている。

「帆は補助的に使われて、ほとんど漕いで京へ行った。海上でも河に入ってからでも所により陸から曳いて貰った。外洋船ではなく、沿岸用の底浅船で海から河に入ってもそのまま川のぼりのできる河船でもあった。」

 魏使の用いた船と比べて見劣りがするようだが、この船の速度は約1.8ノットと算出している。実験航海の速度と一致している。

 ここで「投馬国(1)」で水野氏が教えてくれた史料
『「延喜式」では平安京から大宰府までを海路三十日と規定している』
を使ってみよう。瀬戸内海と日本海では潮流や天候(とりわけ風力)に違いがあり、単純な比較はできないが、ともかく計算してみる。

 地図上で測ってみた。大阪湾から博多湾まで直線距離でおおよそ450㎞。糸を使って瀬戸内海をクネクネとそれらしく測ってみたら720㎞だった。「水行」30日だから24㎞/日となる。

 魏使の「水行」1日の行程450里をメートル法に換算すると
76.7m/里×450里/日=34515m/日≒34.5㎞/日

 約10㎞/日の差がある。しかし、前者は毎日停泊地で休養しながらの航海なのに対して、後者は「狗邪韓国一対海国」・「対海国-一大国」・「一大国-末廬国」のそれぞれの「水行1000里」は昼夜通しての航海であったろう。このくらいの差は当然ではないだろうか。

 実験航海での速度は海1.5~2ノットであった。1ノットは1.852㎞/時だから、2.8㎞/時~3.7㎞/時(小数点第2位で四捨五入)となる。34.5㎞/日を2.8㎞/時~3.7㎞/時で割ると、一日の航海時間の平均は12.3時間~9時間となる。これも納得できる数字であろう。
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