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「倭人伝」中の倭語の読み方(12)
投馬国(3):古田説の検討(1)


 今回から古田説を検討する。『俾弥呼』の投馬国についての記述には新しい見解が追加されている。その新説の検討には『「邪馬台国」はなかった』で計算された「水行・陸行」それぞれの「魏使の一日行程」を知っておく必要がある。さらにその検討の予備知識として、「階段式」読法を知らねばならない。これらの問題はこれまでに取り上げたことがなかったので、この機会に詳しく学習しておくことにする。

 まずは問題の所在を確認しよう。『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』で取り上げた「部分里程」の計算結果は次のようであった。

①7000里  帯方郡治-狗邪韓国(水・陸行)
②1000里  狗邪韓国一対海国(水行)
③ 800里  対海国(半周,陸行)
④1000里  対海国-一大国(水行)
⑤ 600里  一大国(半周,陸行)
⑥1000里  一大国-末廬国(水行)
⑦ 500里  末廬国-伊都国(陸行)
⑧ 100里  伊都国-不弥国(陸行)

計12000里(全里程)


 ①では(水・陸行)となっている。このままでは「魏使の一日行程」を計算することが出来ない。この7000里を「水行」と「陸行」に配分することが第一の課題である。

 ところで、「井の中」では①を全て「水行」として解釈している。どうしてそうなるのか。改めて読下し文を読んでみよう。(なお、今までは倭人伝の読み下し文は岩波文庫版のものを用いてきたが、このシリーズからは『俾弥呼』の巻末資料のものを用いている。)

郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓國を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍ち東し、その北岸狗邪韓國(こやかんこく)に至る、七千余里。

 「井の中」では、朝鮮半島西岸を南下し次ぎに東に方向転換して狗邪韓国に到着した、と解釈したのだ。もちろん、全てを「水行」と考えていて、韓国を単なる途中通過地点とみなしている。

 岩波文庫版では「歴(ふ)るに」を「歴(へ)るに」と訓じている。また、「乍(たちま)ち南し、乍ち東し」は「乍(あるい)は南し、乍は東し」である。古田さんはこの読みが誤りであることを詳しく論証している。まず、「乍」について。

 しかし、この解し方にとって、一番大きな障害は「乍~乍~」の文形である。これは「タチマチ~タチマチ~」という熟語的構文である。

瘴瘧(しようぎやく)、山渓の蒸毒、人をして迷困発狂し、或は唖し、乍ち寒く、乍ち熱く、乍ち有り、乍ち無からしむ。 (医学入門、感異気)

 ここで「乍ち寒く、乍ち熱く、乍ち有り、乍ち無し」といっているのは、〝寒くなるかと思えば、たちまち熱くなる。にわかに熱が出たり、寒けがしたりする″の意である。

寒熱相等しく、乍ち住き乍ち来たって間作するなり。 (医学入門、往来寒熱)

 この「乍ち往き乍ち来たる」も、〝寒熱の変化の急なこと″を示すものである。

先王の道、乍ち存し乍ち亡ふ。公、卜者の言必ず信あるを責むる、亦(また)惑(わく)ならずや。 (史記、日者伝)

 この「乍ち存し乍ち亡ふ」も、「タチマチソンシ、タチマチウシナフ」と訓じ、〝あるかと思えば、たちまちなくなる″の意である。

 このようにしてみると、この「乍(A)、乍(B)」という文形は、〝AとBとをたちまち小刻みにくりかえす″意義の熟語である。

 これを従来、「乍(あるい)は南し、乍(あるい)は東し」(岩波文庫本)と読ん できたのは、乍(タチマテ)の重用という慣用文形を無視した、安易な読み方であるというほかない。

 思うに、韓国の西岸・南岸をすべて「水行」とするための、強引な読解術なのである。

 「史記」からの引用が一件あるが、「医学入門」というとても珍しい出典が使われている。歴史書の中にこの構文を使っている例がほかにもないだろうかと、試みにサイト「中國哲學書電子化計劃」で検索して見た。枚挙にいとまがないほどある。いくつか抜き書きしてみよう。

乍寒乍暑・乍視乍瞑・乍剛乍柔・乍哀乍樂・乍高乍下・乍大乍小・乍出乍入・乍死乍生・乍晦乍明・乍同乍異……

 なるほど、「乍(A)、乍(B)」はよく使われる構文なのだった。

 つぎは「歴」である。

 この点をさらに明確化するのは、「韓国を歴る」の「歴」字の用法である。

周唐の進むる所を歴(ヘ)て、法と為す。
〔注〕歴、之を歴観するを謂ふ。(漢書、劉向伝)


 この「歴」は「注」にのべるように、「歴観」という意味である。「けみする」と訓じ、「つぎつぎに見る」という意味なのである。

 陳寿も、東夷伝序文にのべている。

遂に諸国を周観し、其の法俗を采るに、小大区別し、各(おのおの)名号有り、得て詳紀すべし。

 韓国も、この「諸国」の一である。したがって、この「韓国を歴る」の「歴」は「歴観」「周観」の意味であって、けっして単なる「海上通過」の意味をあらわすものではない。

 「ああ、これこそ本物の学問だなあ」と、改めて感じ入る。このような堅実な論証を「井に中」の学者が認めないとは、これも改めて「情けない連中だなあ」と思わざるを得ない。彼らは「さすが!」と感心するほど知識は豊富だが、論理的思考力が欠けているのだろうか。あるいはただ単にメンツにこだわっているだけなのかも知れない。

さて、ここで「階段式」読法が登場する。

 以上によって、中国文の文法・語法を忠実に守りつつ理解すると、韓国行路はつぎのようになる。

 魏使はまず、「海岸に循って水行して」帯方郡西南端(韓国西北端)にいたり、そこから上陸して陸行にうつり、左図のように、南下・東行をいわば「階段式」に、小刻みにくりかえして、狗邪韓国にいたったこととなるのである。

「階段式」読法

 では、魏使はどうしてこのような迂遠な道中を行ったのだろうか。まさか、物見遊山というわけではないだろう。これについても、古田さんの解釈で完全に納得できる。

 魏使は韓国をもって、倭国にいたるための、「単なる通過地」とみなしていたのではない。〝中国正統の、魏の天子に対する礼を守って、朝貢してきた倭国の忠節を賞美する、威儀正しい答礼使と、莫大な下賜品を連ねた行列″によって、韓人に対するデモンストレ一ションを行ないつつ、行進したものと思われる。

 すなわち、後代日本の遣唐使が、ただ長安にむかうルートとして、韓国の沿岸を「水行」したのとは、およそその時期と目的を異にしているのである。

 言うまでのないことだが、上図は説明上のイメージ図として細かい階段を描いているが、「韓人に対するデモンストレ一ション」の道中なのだから、実際には三韓全てを網羅するようにもっとおおまかな階段道中ことだったろう。
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