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《続・「真説古代史」拾遺篇》(68)



「倭人伝」中の倭語の読み方(11)
投馬国(つまこく)(2)


 仮に投馬国が邪馬壹国の北にあるとしよう。水野氏は投馬国の所在を「筑後川上流々域」としているが、「南…水行二十日」をどのように解釈すればそのような比定ができるのだろうか。水野氏は次のように説く。

 では、この水行二十日をいかに解すべきか。私は伊都から海上に出て九州西岸を迂回し、有明海に入り、筑後川を遡航して投馬国に至るものと考える。筑後川遡航の日程が加えられて邪馬壹国より倍の日程を要することになっているものと思う。この部分より里程の記載がなく、日程で示すように記載上の変更があるが、これは要するに、『三国志』の記載がこの辺から変質してくることを意味する。すなわち魏使は伊都国より奥地には入らず、したがってそこまでの里程が明らかでないので、倭人に尋ねて大略の距離を推測するにとどまったことを示すものであろう。

 正に噴飯ものである。有明海まで南行して次は北行して筑後川河口に到り、さらに筑後川を北東行して投馬国に到ると言うのだ。本当にそこが投馬国なら、倭人は魏使に、例えば、「伊都国より南東に四百里」などと最も分りやすく伝えればすむ話だ。「南…水行二十日」などというトンチンカンな応答をするわけがない。

 もう一例、『狗奴国と鉄』の場合を紹介しよう。著者・菊池氏は所々にできるだけ論理的たらんとする姿勢があって、その点では好感を持てる。しかし、伊都国から邪馬壹国(菊池氏は「邪馬台国」を使っている)までの行程記事に関しては、「井の中」の通説に縛られて誤読をしているため、四苦八苦の詭弁だらけになる。氏は伊都国から邪馬壹国までの行程を「伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国」と、傍線行路(古田説)でも放射行路(榎説)でもなく、単純に直線行路(菊池氏自身は「連続式」と呼んでいる)としている。つまり、榎説以前の「井の中」の通説に退行している。

 菊池氏の投馬国の比定記事を理解するためには、「連続式」による都国・奴国・不弥国の比定地が必要なのでその部分から読んでいこう。

東南陸行、五百里、伊都国に到る。

 この行程記事について菊池氏は次のように考察している。

 ここで問題となるのは、〈東南〉という方角である。末廬国は東松浦半島付近にあった国で、伊都国は糸島半島付近にあった国である。国の中心と想定されるのが、末廬国は唐津湾奥の唐津市の松浦川河口あたり、伊都国は糸島半島の付け根、前原市の平原遺跡あたりで、この位地関係だと伊都国は末廬国の東北となる。

 末廬国と伊都国の比定には異論はない。そして伊都国が末廬国の東北にあり、「南東」と矛盾することもその通りだ。この矛盾を「井の中」では「里程は誇張であり捏造」として短里に見向きのしないが、方角についても「倭人伝の方向記述は少なくとも90度前後の狂いがあることは確実」と陳寿に責任をなすりつけている。しかし、菊池氏は陳寿のせいにはしない。菊池氏は一応原文を尊重する立場を取っている。次のように解決を図っている。

 ところが東松浦半島の先端から伊都国を望むと東南と言えないこともない。東松浦半島の先端は壱岐の島に近く、上陸地点としてふさわしい。唐津湾の奥に上陸したとしたら、壱岐から直接伊都国に向かうのと距離はほとんど変わらない。はたして唐津湾の奥に上陸する意味はあるのであろうか。

 「東南」問題を解決するために上陸地を変えようというのだ。東松浦半島の先端は壱岐に近いからそこが上陸地点としてふさわしいというのがその理由である。しかし、東松浦半島の先端地方より唐津地方の方が早くから開けていたのではないだろうか。唐津は中国・朝鮮からの着港地として古くから知られていた。「郡使の往来、常に駐る所」(伊都国)に近い方が良いに決まっている。また、何よりも東松浦半島先端を末廬国とすると里程記事にも矛盾する。地図でたやすく確認できるが、狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国の行程は全て「水行千里」なのに、一大国→末盧国は約五百里ほどしかない。菊池氏は、古田さんの「短里」説を無視して、里程を比率で考えればよいとしてスタートしているが、その比率も捨ててしまったわけだ。そして、菊池氏は魏使を強引に東松浦半島の先端に上陸させる。その論拠を次のように述べている。

 話が複雑になってしまうが、東松浦半島の西側を南下して伊万里市に達し、そこから東南の方向に進むと、有明海の北岸、筑紫平野の西端に達する。このコ一スの方が福岡湾から南下して筑紫平野に達するコースよりはるかに距離は短い。したがって古来からの交易ルートが想定され、東松浦半島の先端にあった港は大陸への入り口として重要な意味を持つ港であったと思われる。そうした重要なポジションの港であるならば、この場所から伊都国の位置を説明してもおかしくない。つまり、伊都国を東南と言ってもおかしくない。

 ちょっと分りにくい部分があるが、菊池氏が水野氏と同様、邪馬壹国を「筑紫平野矢部川流域」に比定していることを知ると理解出来よう。東松浦半島から「有明海の北岸、筑紫平野の西端に達する」コースを重要視しているのは邪馬壹国へのコースと考えているからである。そして、東松浦半島の先端からなら伊都国の位置を「東南と言ってもおかしくない」と納得しようとしている。しかし残念なことに、これも地図を見ればすぐ分るように、東松浦半島の先端からでも伊都国はほとんど真東の方向であり、とても東南とは言えない。

 この「東南」問題もすでに古田さん(『「邪馬台国」はなかった』)(『「邪馬台国」はなかった』)によって解決されている。いままで取りこぼしていた事項なので、稿を改めて紹介しようと思う。今はこのまま菊池氏の論考を追っていく。

 奴国・不弥国については実に簡単に済ましている。

東南奴國に至ること、百里。
 奴国の中心は春日市の岡本遺跡の付近と想定される。奴国までについての記述は距離も方角も問題はない。

 奴国までの位地については、畿内説、九州説を問わずほぼ通説で認められている内容で、関連する遺跡によっても証明がなされている。次からが謎のゾーンとなってくる。

 「距離も方角も問題はない」と断言しているが、距離も方角もまったく合っていない。この比定では奴国は伊都国のほとんど東である。また里数比率も全く合わない。「末廬国―伊都国―奴国」行程の里数比率は五百里:百里=5:1のはずだが、地図で見るとほとんど1:1である。ここでも里程をまったく無視している。

「東行不弥國に至ること、百里。
不弥国については諸説あるが、筆者は太宰府市もしくは筑紫野市北部付近にあったと想定する。

 ここでは論証そのものを放棄してしまった。それでは投馬国のばあいはどうだろうか。菊池氏は「連続式」行路という大前提が間違っているため、ここでもたいへんな四苦八苦を余儀なくされる。

南、投馬國に至ること、水行二十日

 不弥国の南には海がないし、菊池氏が比定した不弥国は内陸部なので水野氏のように西海岸を南下するコースもとれない。どうする? やはり筑後川に目をつける外ない。「陸行」「水行」の意味解読をかなり長々と行っているが、結論部分だけを紹介する。

 筑紫野市の北側には、九州で最も長い筑後川の支流の宝満川が南に向かって流れている。宝満川は、太宰府市の東部にある宝満山(標高869メートル)を源とする一級河川であるが、筑紫野市北部あたりの標高は20メートル程度しかない。筑紫野市北部から筑後川の河口まで直線でも40キロ近くあり、高低差がほとんどない川であるので、通常期であれば流れはかなりゆるやかで、水深も浅い。このような地形のところでは、水運が通常の交通手段として発達したと考えられる。

 さて、筑後川を下りたいのだが、河口まで40キロしかない。のんびりゆっくり歩いたとしても20時間ほどで河口に到着してしまう。「水行二十日」をどう解釈するのだろうか。

 時間を要した要因として、使節団の規模の問題があったのではないだろうか。外交使節ならば、それなりの布陣で日本に来たと思われる。代表大使の他に、下級役人、上記の人達を世話をする使用人、通訳や道先案内人、そして当然のこととして護衛の軍人がいる。使節団の数は最低でも二十人以上はいたのではないだろうか。そして、前述した人達の最低限の生活用具、武器、その他、日本へのみやげの品などを加えると荷物の量は相当なものとなると予想され、それらの荷物を運ぶ人夫も必要となってくる。

 核心となるが、交通路が未発達の地で多くの人と荷物を短時間で大量に運ぶことができたであろうか。前述したとおり、舟を交通手段として使用したならばどうであっただろうか。普通に考えるならば、人が運ぶよりも船の方が効率的なはずである。しかし、当時の日本には構造船があったか疑問で、仮にあったとしても水深の浅い所では使用されていなかったはずである。したがって、丸木舟やいかだのような小型の舟を使用していたと思われる。つまり、使節団は何回かに分けて分乗して舟に乗ったのではないだろうか。「水行二十日」は、たとえ一日の距離であっても舟が不足して二十のグループに分かれて行なえば二十日を要してしまうことになる。

 日数に関する記述は、距離に関する情報ではなく、要した日数の結果を述べたものというのが私の推察の結論である。

 「井の中」での最も新しい論考として何か新しい進展があるだろうかと『狗奴国と鉄』を選んでみたが、行路解釈についてはやはり水野氏に負けず劣らずのあきれるばかりの解釈であった。もう論評を加える気も失せた。最後に、筑後川を下った二十グループ一行が到着するはずの投馬国と邪馬壹国がどこになるのか、確認しておこう。


 さて、そうなると投馬国と邪馬台国はどこにあったのであろうか。記述どおりに読んでいけば、不弥国から南へ水行二十日の所に投馬国、そこから水行十日の所に邪馬台国があったことになる。

 不弥国があったと想定される筑紫市付近から、南の方面には大牟田市付近まで筑紫平野がひろがっている。大牟田市は筑後川流域ではないが、当時の筑紫平野は低湿地帯で天然のクリークのような水路があったであろうから、舟で移動することが可能であったと思われる。

 投馬国と邪馬台国をピンポイントで推定することは困難であるが、強いて推定するとしたならば、投馬国は久留米市の付近、邪馬台国はみやま市の付近ではないかと思われる。

 みやま市の瀬高町山門(やまと)は九州説の本命の地でもある。

 やれやれ、なんのことはない。最初に「邪馬台国=瀬高町山門」という「本命の地」(結論)があって、そこに行くための論証めかした作文だった。「井の中」は相変わらずだった。
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