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《続・「真説古代史」拾遺篇》(67)



「倭人伝」中の倭語の読み方(10)
投馬国(つまこく)(1)


南、投馬國に至ること、水行二十日。官を彌彌と曰い、副を彌彌那利と曰う。五萬余戸なるべし。

 投馬国の読みとその所在地について、水野氏は次のように述べている。

南至投馬国
 伊都国より北九州沿岸を東へ行くと奴国と不弥国とがあり、それよりもさらに東については魏の使者は知見を有せず、また女王国の支配は東方に対してはこの二国のみにとどまり、それより東にはおよんでいなかった。このため『三国志』は伊都国を中心としてそれから東の記載は前の二国に終り、ここで筆を転じてさらに南へと記述を進めていく。そして南方については、もはや魏人は直接的な知見を有せず、すべて魏使の女王国などより派遣された使者の伝聞に基づいた知見であることに注意しなければならない。

 投馬国については、これを「トウバ」「トウマ」と訓むことから、「トマン」「ツマ」「トモ」などのわが国の地名に比定しようとする見解が現われる。すなわち宣長は、「トウマ」をもって南九州の日向国児湯郡都万神社附近であるとする。太田亮博士は、九州において邪馬壹国と考えられる地が肥後北部であるとすると、投馬国は筑後川沿岸のほかに求むべき地がないとし、筑後川附近に投馬国を求めれば、上妻郡・下妻郡・三瀦郡の存在が注意される。この上・下・三を除いた「ツマ」が、すなわち古の投馬国にほかならないとする(太田亮『日本古代史新研究』一〇二頁)。また吉田東伍博士は「投馬」は、「殺馬」あるいは「設馬」の誤りで「サツマ」だから薩摩国であるとする。

 これら九州に求めようとする説に対して、内藤博士は、周防国佐婆郡玉祖郷だとし、三宅米吉・志田不動麿両氏は、瀬戸内の備後国鞆の津であるとし、山田博士は日本海の但馬国であるとされる。また出雲国に比定する者もある。諸説紛々として決しがたい。私は『三国志』の方位里程より推して、筑後川上流々域にあるものと考える。

 『問題の焦点は「狗奴国』で、私は
『「投馬国=薩摩」という比定は「井の中」だけでなく、ほとんどの論者が一致している比定である。』
と書いたが、訂正しなければならない。私の誤った先入観だった。上の引用文のように、「井の中」では諸説紛々なのだった。

 読みについては、吉田博士以外は「とうば」または「とうま」と読んでいるようだ。古田説は「つま」で、薩摩に比定している。しかし、もちろん吉田博士のような原文改定した上での比定ではない。現在の地名「薩摩(さつま)」は「つま」に接頭語の「さ」が付いたものであり、薩摩は「投馬(つま)」と対応していると言う。では「投馬」を「つま」と読むことが出来るのだろうか。

 「投」には「とう」のほかに「づ」という音があるが、「つ」はない。3世紀頃の倭国では「投」を「つ」とも読んでいたのだろうか。万葉仮名にはそのような例がある。「豆」「頭」「図」が「つ」という音としても使われていた。「投」の場合については、私にはこれ以上の判断材料がないので断言は出来ないが、とりあえず「つ」とも読めるとしておく。

 水野氏は「方位里程より推して、筑後川上流々域」という比定をしている。なぜそういう比定になるのか。「水行二十日」についての解説でその理由を述べている。
水行二十日
 この記載が、実に投馬国の位置決定に重大な混乱をひき起したのである。「水行二十日」とあるので、これは海上を船で航して二十日を要するという意味になるとし、在来はこれを不弥国から南へ水行二十日と解釈し、あるいは九州南端に至る航海と考えたり、あるいは瀬戸内航路だと解したり、また同じく大和をさして東へ向う航路としても北九州より日本海を東航する日本海航路だと解釈したり、まちまちな推測が試みられた。

 水行二十日を要する地点までを里程とするとどれほどであるかは測定困難であるが、『延喜式』では平安京から大宰府までを海路三十日と規定しているので、よほどの距離と考えられる。さらに後文に、邪馬壹国までが南へ水行十日とあるので、これを加算すると、不弥国から邪馬壹国までがちょうど水行三十日となり、これはほぼ『延書式』の大宰府平安京間の海路三十日に合致するので、三宅博士のごとく邪馬臺国を大和として不弥よりの里程が解決できると説かれることになる(三宅米吉「邪馬臺国について」、『考古学雑誌』十二の十一所収、六五二頁)。けれどもこれは、伊都国から南への距離である。とすれば、船で伊都国から九州の南へ出るとすれば、そして西回りにせよ、東回りにせよ、二十日を要するとすれば、相当遠方でなければならない。また同じく伊都国より南に船で行く邪馬壹国は水行十日で、あたかも投馬国の日程の半分であるので、常識的に判断すれば投馬国は伊都国と邪馬壹国の距離の、さらに倍だけ南にあることになるわけであり、これだけならそう解してもよい。けれども投馬国は邪馬壹国より北に位する国と記されているので、邪馬壹国よりさらに水行十日の日程を要するような南方の地点にもっていくことは不可能である。ゆえに邪馬壹国が北九州であるかぎり、投馬国は日向や薩摩であってはならない。

 赤字部分に出会って、「ああ、そうだったのか」と納得できたことがある。『問題の焦点は「狗奴国』で転載した下の地図である。投馬国がなぜその地図のようになるのか、納得できたのだった。

北九州勢力図

 「井の中」の「邪馬台国=筑後山門」説論者の大方は投馬国を「邪馬台国」の北と考えているのだ。その論拠は倭人伝の次のくだりであろう。

南、邪馬壹國に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。 (中略) 女王國自(よ)り以北、其の戸数・道里は得て略載す可(べ)し。其の余の旁國は遠絶にして得て、詳(つまびら)かにす可からず。

 つまり、「井の中」では赤字部分を、この文以前に出てくる全ての国が邪馬壹国の北にある、と解釈しているのだ。だから投馬国も邪馬壹国の北になければならない。

 この文章の解釈のポイントは「道里」と「得て」である。私は、「道里」とは行程の里数のことであり、「得て」とは「実際に見聞して得た」という意だと解釈する。投馬国だけは「道里」ではなく「水行20日」と書かれている。そして水野氏は
「南方については、もはや魏人は直接的な知見を有せず、すべて魏使の女王国などより派遣された使者の伝聞に基づいた知見である」
と述べているが、これも誤解だろう。投馬国への行路は「道里」ではなく「水行20日」と表現されているが、このことから魏使は投馬国については「直接的な知見を有せず」と断定することは出来ない。ここの文脈からは投馬国は明らかに「其の余の旁國」ではない。魏使は実際に投馬国に行っていると読める。

 また、水野氏は魏使が実際に行ったのは伊都国までと考えているようだが、それも間違った憶測だ。詔書を携えた魏使が女王に会っていないなどあり得ない。邪馬壹国の風俗などの詳しい記録、特に女王の居処についての「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」といった臨場感あふれる記録が単なる伝聞であるはずがない。

 仮に投馬国が邪馬壹国の北にあるとしよう。水野氏は投馬国の所在を「筑後川上流々域」としているが、「南…水行20日」をどのように解釈すればそのような比定ができるのだろうか。(次回に続く。)
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この記事へのコメント
先のコメントで、「使者の伝聞=魏使は南方に行っていない」という水野氏の論旨を非難したのは、南の侏儒国は距離が示されかつ描写もリアルであることから、魏使は当然そこまで至ったというのが論理的だという趣旨です。(投馬国については距離記載がないので伝聞としていいと思います)
「女王国の東、海を渡ること千余里にして、複た国あり、皆倭種なり。又侏儒国ありて其の南に在り、人の長三・四尺、女王を去ること四千余里」
単に距離が書いてあるだけではありません。侏儒国訪問には重大な意味があったと考えられます。
古田氏は「侏儒国で日出る処に近い裸国・黒歯国を確認した(魏の権勢圏を極めた)事が魏使の最終成果であり、陳寿が三国史を著す最大の誇りであった」とされています。(『俾弥呼』ほか)
「班固は『漢書』で『日没する処に近い』西限は極めたというが国名は書けなかった。私(陳寿)は東限の国名も所在場所(水行日程)も書き得たのだ」という事でしょう。
南方侏儒国訪問がそれほどの意義を持つものなら、魏使は行きもせず又聞き(長老⇒使者⇒魏使)を魏帝に報告したなどという事があろうはずもありませんよね。
2012/04/13(金) 13:55 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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