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《続・「真説古代史」拾遺篇》(65)



「倭人伝」中の倭語の読み方(8)
再度、邪馬壹国の所在地について


 倭人伝に記録されている33国を記載順に全て書き出してみた。

〈第一グループ〉
(0)狗邪韓国 (1)対海国 (2)一大国 (3)末盧国 (4)伊都国 (5)奴国 (6)不弥国 (7)投馬国 (8)邪馬壹国

 〈第一グループ〉は里程記事・戸数・産業・風俗・官職名などの詳しい記載があり、その所在をはっきりと決めることができる。

〈第二グループ〉
(9)斯馬国 (10)已百支国 (11)伊邪国 (12)郡支国 (13)弥奴国 (14)好古都国 (15)不呼国 (16)姐奴国 (17)対蘇国 (18)蘇奴国 (19)呼邑国 (20)華奴蘇奴国 (21)鬼国 (22)為吾国 (23)鬼奴国 (24)邪馬国 (25)躬臣国 (26)巴利国 (27)支惟国 (28)烏奴国 (29)奴国

 国名だけが列記されている21国である。

〈第三グループ〉 (30)狗奴国

 この反女王国については「井の中」で提出されている仮説を検討する予定です。

〈第四グループ〉
(31)侏儒国 (32)裸国 (33)黒歯

 この四グループに分けて古田さんの新しい知見を学習していこう。

〈第一グループ〉

 このグループの国はその所在をはっきりと決めることができると書いた。古田さんによる比定地図を再度掲載しよう。

邪馬壱国

 これから学習の進行に従って倭国全体を俯瞰する地図を作っていこうと考えている。さっそく第一グループを記入しておこう。

「21国」の比定地

 (0)~(4)は短里を受け入れない「井の中」でもその所在を間違いようのない国々だが、(5)~(8)については未だ誤った議論をしている。その多くは古田さんが批判し尽くした榎説に固執した比定を行っている。例えば『評釈倭人伝』で水野氏は「私はこの点に関しては全く榎氏の説に賛意を表する」と述べて、次のように榎説をなぞっている。

 そこでこの部分は伊都国を基点として、各国に対する関係を個別的に考えなければならない。すなわち『魏志倭人伝』の記載は、九州島に上陸して以後は伊都国を中心として倭国の地誌的記載をすすめることにしていることがわかる。伊都国までの記載と、伊都国以下の記載とで、その確度が異なっていることも考えられるし、とにかく、ここで「倭人伝」の記述に変化が現われてくることはまぎれもない事実である。それは魏の使者が倭国に来た場合でも、伊都国までしか入って来ていなかったことを示すのである。伊都国まではしばしば魏の使者も往還して、具体的な知見をもっていたのであるが、伊都国より内奥の国については、魏人は直接的な、具体的知見をもたず、それらに関する知見はすべて倭人よりの伝聞に基づく知見であったことを考えなければならない。  すなわち『三国志』がそれまでの距離を明瞭な数字で示しているのに、奴国や不弥国のような、北九州沿岸の、伊都国と接近して存在した国までは里程で説明しながら、投馬国や邪馬壹国のような遠隔の地になると突然里程を捨てて水行二十日、陸行一月のように、日程に変更しているが、これも使者の直接の知見を得ていないためにそうした漠然たる記載をしたのであろう。だから後に、帯方郡より邪馬壹国までを万二千余里などとあらためていい出すのは、この点からみてもおかしなことである。伊都国に中心を置いて記述をすすめでいることも、魏使は伊都国に駐滞し、邪馬壹国はまた女王の政治・外交・交易権の代行者としての一大率をその地に常駐させ、魏使の接待より外交交渉にいたるまで、用務の一切をそこで処理させたので、いわば伊都国は邪馬壹国の表玄関であり、女王の都城についで重要な倭首長国連合の政治・外交の中心地であったがためにほかならない。この新解釈をとると、伊都国以下の邪馬壹国統属諸国の関係は訂正されなければならず、また邪馬壹国を近畿大和とするの学説は文献学上よりは全く成立しがたいこととなる。  奴国は『後漢書』にいう「倭奴國」の後身である。奴国がわが国の古典にいう「儺縣」、那津官家の地域であり、那珂郡博多、今日の福岡市を中心とする地域にあたることはほぼ異論はない所である(倭奴国については拙稿「倭奴国考」、に詳説してあるので、ここでは略す)。

 ここで書かれていることは全て古田さんによって批判尽くされている。その古田さんの論旨は『「邪馬台国」論争は終わっている。(3)』『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』で紹介済みなので繰り返さない。ただし、「井の中」での混乱の根源である一番の問題点(赤字部分)ついては再度取り上げておこう。古田説を無視して未だに喜劇を演じ続けているのだ。

 水野氏は一応「邪馬<壹>国」という表記を守っているが、その所在は「筑後川下流地域筑後国山門郡地域」としている。「邪馬台国」を採用していないのだから、「邪馬台→やまと→山門」という音による比定はできない。では、どのように議論を進めているのだろうか。

南、邪馬壹國に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月。

 「井の中」ではこの「水行十日、陸行一月」を基点(伊都国)から邪馬壹国までの距離としている。そして榎氏はこれを「水行十日あるいは陸行一月」と解釈している。また、氏は「邪馬台国」を「筑紫平野矢部川流域」に比定している。糸島半島から有明海矢部川河口までの距離は約60㎞ぐらい。一日10㎞ぐらいののんびり旅行でも数日の行程にすぎない。「筑後川下流地域筑後国山門郡地域」でもほとんど同じだ。

 水野氏はその榎説を是として、次のように述べている。

水行十日陸行一月
 伊都国より邪馬壹国までの行程である。船で行くと十日かかる所を、陸路を経て行くとすれば一ヵ月を要するという意味に解すべきで、まず船で十日かかって行き着いた所で船を捨て、さらに歩いて陸路一ヵ月にしてようやく邪馬壹国に到着するという意味ではない。もしそうならば、都合四十日かかることになる。古来この行程には無理な点があるとして、さまざまな解釈が生じ物議をかもして来た。

 そしてこれまでの諸説(たぶん全部)紹介して、信憑性のある説がないことを確認して次のように逃げを打つ。

 在来の説はこの日程に基づいて、いずれも事実に合致させよう、また事実に合わねばならないとする立場で解釈しているのであるが、私は事実を正確に記している部分ではないから、事実に合っても合わなくてもよろしいのであって、ただ耶馬壹国は伊都国の南にあって、そこへは舟で行くことも、陸路で行くこともできるが、とにかく大変遠くで不便な所なのであるらしいという魏人の知見だけを知ればよいのである。これをあえて事実と結びつけて解釈しようとする所に却って矛盾が生じ、議論の空転を惹起する結果となって、せっかくの努力も所詮徒労の譏りをまぬがれないこととなってしまうのであると思う。

 いや、そうではない。「魏人の知見」のせいにしてはいけない。そもそもの議論の発端が間違っているための混乱なのだ。「水行十日陸行一月」を伊都国から邪馬壹国までの行程と考えたことに原因がある。
『「区間距離」の中で「・・・里」の形で書かれているものだけが、真の「部分里程」であり、「水行二十日」や「水行十日、陸行一月」は部分里程ではない。』
という古田さんの解読こそが正しい。

東南陸行五百里にして、伊都國に到る。
東南奴國に至ること百里。
東行不彌國に至ること百里。
南、投馬國に至る水行二十日。
南、邪馬壹國に至る。…水行十日、陸行一月。

 古田さんの解読に従えば、「南、邪馬壹國に至る。」の南は「不彌國の南」ということになる。そして、「水行十日、陸行一月」は帯方郡から「帯方郡治→女王国」間の総日程である。「不彌國→邪馬壹國」間の距離が書かれていないのは隣接国だからだ。これで何の矛盾もない。
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