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《続・「真説古代史」拾遺篇》(64)



「倭人伝」中の倭語の読み方(7)
番外編:「燕―蓋国―倭」の補充


 『倭人伝を徹底して読む』で、古田さんは『山海経』の記事「蓋国は鉅燕の南……」を論じていた。それ(第一章『三国志』以前の倭と倭人 二箕子と燕)を取り上げることにする。

 前回の「前300年の地図」に箕氏朝鮮という国名が記載されていた。私はこの箕氏朝鮮建国の経緯を詳しくは知らなかった。その建国の経緯が『史記 世家』の「宋微子世家、第八」を下敷きに要領よくまとめられていて、大いに参考になる。まずはそれを読んでみる。なお、『史記』では「箕氏」ではなく「箕子」という表記が用いられている。

 箕子というのは、殷の最後の王、紂王(ちゅうおう)に仕えた人物です。紂王は若さにまかせて暴虐だったとされていますが、実際はこれは、あてにはなりません。滅ぼされた王は、いつも次の王朝のイメージをよくするために悪者扱いされています。ですからこれが歴史的事実だというわけにはいきませんが、『史記』などはそのように伝えています。宰相であった箕子が何度諌めても若き天子は聞いてくれない。のみならず箕子と仲がよく、賢臣だった比干(ひかん)が紂王を諌めたところ、逆に比干を殺し、聖人の胸には七竅(しちきょう)があるというが、それを見てやるといって胸を切り割いて見た。そこで箕子はこれはもうだめだと絶望して東へ去っていった。そして、いまのピョンヤン(平壌)のあたりに新天地を建設した、というようなことが書かれています。

 「竅」という見慣れぬ漢字が出てきた。調べたら「あな」という意味の漢字だった。

 ちょっと横道へ。
 「七竅」という熟語を含む漢籍を検索した。13件あった。手元にある本では『荘子』がその中にあったので、それを読んでみた。「内篇 応帝王」の最後の寓話だ。(金谷治訳注「荘子」(岩波文庫)を用います。)

 南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。儵と忽と、時に相(あ)い与(とも)に渾沌の地に遇(あ)う。渾沌これを待つこと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀(はか)りて曰わく、人みな七竅(きょう)ありて、以て視聴食息す、此れ独り有ることなし。嘗試(こころみ)にこれを鑿(うが)たんと。日に一竅を鑿てるに、七日にして渾沌死せり。

 次のような注が付いている。

『「儵」「忽」「渾沌」という名まえには寓意がある。「儵」「忽」はいずれも迅速の意味で、すばやく機敏なことから人間的有為にたとえ、「渾沌」は未分化の総合態で自然にたとえている。』
『この章は「渾沌、七竅に死す」の有名な寓話である。人間的な有為のさかしらが、自然の純朴を破壊することを象徴的に説いたものとして、「荘子」の寓話のなかでも傑作である。』

 人類は人類には制御不能な「核」に手を染めてしまった。広島・長崎・福島…。次はあってはならない。今、戻る勇気が問われている。

閑話休題。 続きを読もう。
 その後、殷の臣下で、一豪族であった武王が反乱を起こし、紂王の正規軍と戦って勝ち、殷王朝は滅亡、代わって周王朝が確立した。そこで箕子は中国へ帰り、周の第二代の成王に会いに出向いた。その途中、黄河の流域のかつての殷の都のそばを通ると、そこは見る影もなかった。廃墟になり禾黍(かしょ いねときび)が生い茂っているだけだった。箕子は、それを非常に傷み悲しんで詩をつくった。それが「麦秀之詩」です。

麦秀でて漸漸(ぜんぜん)たり 禾黍油油(ゆうゆう)たり
彼(か)の狡僮(こうどう)よ 我と好(よ)からざりき

 このあと箕子は周の都(長安近辺)へ行き、自分が新しい天地(朝鮮)へ行って周辺の民を教化し、彼等に中国の天子に対する礼節を教えたことを告げた、というのです。

 このあと、古田さんは「箕子架空説」を批判している。大事な問題が含まれているので、これも読んでおこう。

 このことは、やはり歴史的事実と考えるべきだとわたしは思っています。というのは、箕子は架空だという話が、明治・大正の啓蒙主義史観の白鳥庫吉(しらとりくらきち 東洋史学、東大教授)を中心にしていわれてきました。庫吉は夏・殷のみならず、周までもが架空だ、つくりものに過ぎないと主張しました。それを受けてさらに津田左右吉(つだそうきち)が、そうした考え方を今度は日本の古代史に適用して『古事記』『日本書紀』の神話や説話は架空である、歴史的事実ではないという、有名な議論を大正から昭和にかけて発表していったのです。

 ところが、昭和のはじめの殷墟の発掘で、これがくつがえされます。庫吉が架空説をとったのは、春秋以前の話は、戦国時代あたりにつくられた、という目見当だったようです。もちろん漢代になってつくられたものも多いと。ところが周の「前半(春秋以前)」どころか、それより前の殷墟が発掘された。そしてそれがまさに『史記』で語られている、その場所から出てきたわけです。ですから、やはり殷が存在したことは、疑いの余地がなくなってしまった。それで、現在は殷(後半)を架空だという人はいなくなっています。

 にもかかわらず、「箕子は架空だ」という人はまだいる。しかしわたしはおかしいと思うのです。なぜなら殷が「架空」なら、箕子だけ「実在」というわけにはいかない。当然、箕子も「架空」でなければならない。しかし逆に、『史記』に書かれている場所の地下から殷墟が出てきた。その殷墟に箕子が通りかかって詩をつくっている。それにもかかわらず「箕子だけが架空だ」というのでは、今度は逆に「架空の証明」をしなければならないわけです。それなのに、「箕子についてまだ実在の証明がない」などというのでは、これは方法論上、本末転倒です。わたしはやはり、箕子も実在であると考えています。

 しかし、最近朝鮮半島側の(北も南もふくめて)民族主義的な学者たちは、「箕子架空説」を唱えているようです。というのは、楽浪や帯方は、朝鮮民族が築いたものであって、それを中国人が「箕子」などという架空な名前を当てふっているにすぎない、という民族主義的な立場をとっているからです。そういう考えが非常に根強い。しかしそういうナショナリズムで、歴史的事実は消したり、作くったりすることのできるものではなく、箕子の実在は、中国の古い文献、さらに殷墟の実在からしても、やはり史実と考えなければならない。こういう歴史上の実証の問題と民族主義の問題とは、別個に、それぞれの本領が矛盾しない形で考えなければならないと思います。事実を無理しても消さなければ保てないようなナショナリズムが、もしあるとすれば、それは健全なナショナリズムではないことを、われわれはすでに敗戦前に身をもって経験したはずです。

 いま日本でも事実を歪曲する「自慢史観」という病巣が大手を振ってはびこっている。つい最近も河村たかしというポピュリストの南京大虐殺を否定する発言があった。すると彼に勝とも劣らぬポピュリスト・石原慎太郎がさっそくその発言を擁護した。その一連の発言を『週間金曜日』(本多勝一「貧困なる精神」)で読んだが、そのごまかしだらけの卑怯な発言に今更ながらあきれている。機会があったら取り上げようかと思っている。

 さて、次は箕子朝鮮から衛子朝鮮へと替わる経緯が語られている。

 そういう箕子というのが、倭人が中国文明に接する上で非常に重要なキーポイントになっています。これが第一です。第二のポイントは、燕です。要点だけ言いますと、殷の終わり頃(紀元前1000年頃)からずっと周代にかけて、箕子朝鮮がピョンヤン近辺を中心につづいていました。ところが周の終わり頃になって衛氏朝鮮にとってかわられる。その経緯については次のようです。

 燕の豪族であった衛氏が、燕を追われて箕子朝鮮にやってきます。すると、そのときの箕子朝鮮の王が衛氏を亡命者としてかくまってやった。ところが逆に、衛氏は自分をかくまってくれた箕子朝鮮を倒して、自分が権力をにぎってしまったのです。これは衛氏の方から言わせればまた別の言い方をするかもしれませんが、そのように書かれています。それでは、そのとき箕子朝鮮の側はどうなったかというと、海を越えて韓国へ入ったといわれています。韓国のどこだと書かれていないのですが、地理的にいえば朝鮮半島の西岸部を南下したでしょうから、恐らくいまの朝鮮半島の西岸部の南半、のちの百済あたりだろうと考えられます。わたしは、そこを箕子韓国と名づけました。そしてこの「箕子韓国」が、倭人に非常に大きな影響を与えたのではないかと思われます。というのは、時期が秦の始皇帝(前246~210)の二世胡亥(こがい 前209~207)、三世嬰(えい 前207)の頃です。つまり紀元前三世紀のはじまりの頃です。ということは、日本では長かりし縄文時代が終わって弥生時代がはじまった頃です。当然そこには大陸文明の影響があったことが考えられます。ちょうどそのとき関係深い「箕子朝鮮」がぐっと近いところ、半島の南半部へ来ている。とすれば、その影響を倭人側が受けるのは必至で、そういう意味でわたしは「箕子韓国」いうものを深く注目すべきだと、前々から考えていました。

 古田さんは最後に燕と倭の関係を論じている。『倭人伝を徹底して読む』の初版は1987年で今から25年前ほど前になる。従って現在の古田さんの認識とは違っている点があってもあやしむに足らない。例えば次のような点について古田さんは現在どのように考えておいでだろうか。「鉅燕」を「燕の中の鉅というところ」としている点。あるいは燕を周の「臣」としているが、戦国時代、いわゆる戦国七雄はもはや周の「臣」ではなかったのではないか。また、蓋国をピョンヤン近辺としているが、ピョンヤンは箕子朝鮮の領域ではないだろうか。などなど前回私が考えたこととも異なっている。が、私の読解の方が間違っているかも知れないので、一応全文転載して参考資料としておきたい。

 そうした影響を受けた「箕子韓国」が南に出来、北には衛氏朝鮮が出来る。衛氏は燕の系列ですから衛氏朝鮮に倭人が接触すると、それは同時に燕に接触する方法でもあったはずです。それ以前、箕子朝鮮の場合でも、箕子朝鮮は周王朝の一国ではなく、朝鮮で自分の独自の領域を広げていました。周の一代武王はこれを「臣」としなかったのです。「是(ここ)に於て武王、乃(すなわち)箕子を朝鮮に封ず。而して臣とせざるなり」と。普通は「封」じたら「臣」にするわけですが、「封」じたけれども「臣」扱いにはしなかった。殷のすぐれた宰相であった箕子を非常に尊んで、家来扱いにはしなかった、ということです。ということは倭人は、確かに箕子朝鮮を通じて中国に貢献したかもしれないけれども、直接的には周の「臣」である燕を通じて中国の天子に服属したことになります。だから中国側が表現する場合、「倭は燕に服属している」という表現になります。それが、次の文章です。

蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。  (『山海経』海内北経)

 『山海経(せんがいきよう)』というのは、周の戦国時代に出来たといわれる地理書です。これは、倭がはっきり「倭」という形で出てくる最初の文献だといわれています。蓋国というのは、大きくいってピョンヤン近辺のようです。『三国志』に蓋馬大山(がいばたいさん)という言葉が出てきますが、この蓋馬大山というのは、朝鮮半島の北半部で、南北につらなる山脈の中の山を指しているようです。この「蓋」という言葉は朝鮮半島の北半部近辺でよく使われているみたいです。また中国の東北地方(旧満州)の近辺にも「蓋」のついた地名があるそうです。けれどもここでの「蓋国」というのは、「鉅燕の南、倭の北に在り」であって、燕の中の鉅というところの南に当たっている。と同時に倭の北に当たっている。ですからこれによると倭は、どうも日本列島だけではなくて、朝鮮半島の南半部にも及んでいたような感じがします。  これは『三国志』において、倭人伝のみならず、韓伝でもくりかえし説かれていることです。要するに倭人の領域が、朝鮮半島の南岸部およびかなり奥地まで入った南半部に及んでいるということです。それが、『山海経』にも出てくる。そしてその最後に「倭は燕に属す」と。まさに中国から見て一番東夷に近い諸国の一つが燕であって、倭はその燕に服属する、周辺の種族の一つであったのです。

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2012/04/07(土) 17:26 | | #[ 編集]
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