2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(63)



「倭人伝」中の倭語の読み方(6)
番外編:燕―蓋国―倭


(「山海経」海内北経)
蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。

 私は「山海経」を「さんかいきょう」と読んできたが、正しくは「せんがいきょう」と読むようだ。「山海経」がどのような史料なのか、まったく知らなかったので、「山海経」海内北経を全文読んでみた。(平凡社版「世界古典文学大系8」からの転載です。)

第十二 海内北経

海内、西北隅より以東のもの

 蛇巫(だふ)の山の上に人がいて、杯をもって東に向って立つ。西王母が几(つくえ)にもたれて勝(かみかざり)と杖をのせている(注一)。その南に三羽の青い鳥がいて、西王母のために食物をはこぶ。昆侖(こんろん)の虚(おか)の北にあり。
 人あり、大行伯といい、戈(ほこ)をもつ。その東に犬封国あり、弐負(じふ)の尸(し)は大行伯の東にあり。犬封国は犬戎(けんじゆう)国ともいい、その状は犬のよう。ひとりの女子がいまし跪(ひざまず)いて、酒食を進めている。文(あや)ある馬がいる、白い縞の身、朱(あか)い鬛(たてがみ)、目は黄金のよう、名は吉量。これに乗れば寿命千年という(注二)。
 鬼国は弐負の尸の北にあり、この物は、人面にして一つの目。[虫匋](とう)犬は犬の如くで青色。人を食い、首から(食い)はじめる。窮奇は状は虎の如く、翼があり、人を食うに首からはじめる。食われるものは髪ふりみだしている。[虫匋]犬の北にあり。
 帝・堯の臺(たかどの)、帝・嚳(こく)の臺、帝・丹朱の臺、帝・舜の臺、各ゝが二つの臺で、臺は方形、昆侖の東北にあり。
 大蠭(ほう)、その状は蠭(はち)の如く、朱蛾(しゅが)はその状、蛾のよう。蟜(きょう)はその人となり虎の文あり、脛(すね)に啓(「口」の部分が「月」という字)(ふくらはぎ)あり。窮奇の東にあり。
 闒非(とうひ)は人面で獣身、青色。拠比(きょひ)の尸(し)はその人となり、頸(くび)が折れ、髪ふりみだし、片手なし。
 環狗(かんこう)はその人となり、獣の首に人の身。祩(み)というものは人身で黒い首、従(たて)の目。
 戎(じゅう)はそのひととなり人の首で三つの角。
 林氏国に珍獣あり、大きさ虎の如く、五彩みなそなわり、尾は身より長い。名は騶吾(すうご)。これに乗れば日に千里を行く。昆侖の南にある氾(はん)林は方三百里。従極の淵は深さ三百仞、(河伯)冰夷(ひょうい)つねにここに都す。冰夷は人面にして双竜に乗る。陽汙(お)の山、河が山の中から流れ、凌(りょう)門の山も河が山の中から流れる。王子夜の尸は両手・両股(もも)・胸・首・歯みな切られてばらばらである。
 舜の妻、登比(とうひ)氏は宵(しょう)明と燭光を生み、黄河の大きな沢に住んだが、二人の姫の霊はここ方百里を照らすことができた。
 蓋(がい)国は強大なる燕(えん)の南、倭(わ)の北にあり、倭は燕に属す。朝鮮は列陽の東の海、北山の南にあり、列陽は燕に属す。
 列姑射(れつこや)は海の島の中にあり。姑射国は海中にあり、列姑射に属し、西南には山をめぐらす(注三)。大きな蟹が海中にいる。陵魚は人面で手足あり、魚の身、海中にあり。大きな[魚便](おしきうお)は海中に住む。明組の邑(くに)は海中にあり。蓬萊(ほうらい)山は海中にあり。大の市(いち 蜃気楼か)は海中にあり。


 一 如渟注の『漢書]大人賦では「杖」の字がない.なければ勝は頭の上にのせているのであろう。
 二 犬封から林氏までは古代の異民族で、その奇怪な習俗とトーテムをあらわし、同時に中国人のおそれを示しているように思える。
 三 『荘子』逍遙遊にある藐姑射(はこや)の山で、「神大ありて住む。肌膚(きふ)は冰雪(ひょうせつ)の如く、淖(しゃく)約としておとめの如し」という。郭注に山名というが、これに姑射の国が属するというのでは、単なる山はせますぎるゆえに、山名の注を省いた。東山経にもあって、郝(かく)氏は北経の方が遠きに過ぎるという。


 奇っ怪な人間や動物が続々登場してくる。一読して、「なんだこりゃ」というのが正直な感想。しかし、「神武記」にも八咫烏・尾生る人・尾生る土雲などが出てくるが、それを以て史料として信用できないという判定が間違っていることを私(たち)は知っている。「山海経」がどういう性質の記録なのか、解説文から二・三引用しよう。

 『周礼』をみると、大司徒が天下の土地の図をもち、九州の地域、東西南北の里数を周知していたし、職方氏も天下の地図を登り、山師・川師は山林・川沢を掌った。また『左伝』にも、禹は鼎を鋳て、それに遠国から献上した魑魅・魍魎(山や水の中の怪物)の図絵をかたどり、ひとびとに鬼神や怪物をあらかじめ知らせておいた。従ってひとびとは山林川沢に入っても、よからぬものや妖怪変化の類にあわずにすんだという。こういう点よく『山海経』の内容と一致している。

 『山海経』はもろもろの異物、飛走の類をしるし、多く東向とか東首というのは、もともと図画によって著述したのによるのであるまいか、といっているのは、適評であろう。ただこの場合、文章の作成が戦国の時代になされたとしでも、その画材が、鼎にせよ壁画にせよ、非常に古いとか、伝誦が古くで文は新しい、ということもじゅうぶん考えられる。この方が最も大切である。こういう立場から、海外以下の後篇も決して新しいとは思われない。恐らく古代を研究する人たちによって、今後貴重な発見がなされるのは後篇だと思う。王国維は、「山海経はその文は雅馴(がじゅん)でなく、その中の人物は世間では虚構の人物だと考えられているし、また『竹書紀年』も全部が信ぜられるものでないが、王亥の名はついにト辞(ぼくじ)に於で見つかった。こうした事が全部そうとはいえないが、しかしその人物は確かに虚構でない。古代の伝説で周秦間にあるものも、絶対に根拠がないとはいえぬ」といっている。

 尸(し)は生と死の中間であり、屍であり、物であり、神である。怪獣などには人面が多いが、人面であっても神にはならぬ、しかし神とよばれるためには、人面をそなえることが条件のようだ。

 さて、問題の地理情報は蓋国と朝鮮が対となって書かれている(赤字部分)。当然同時代の情報だから、私もそれをペアにして考えてみよう。

 燕が、鉅燕あるいは全燕(史記・朝鮮列伝)と表記されるほど、最も勢力を誇ったのは昭王(在位紀元前312年~紀元前279年)の時代である。その様子を『十八史略 Ⅰ覇道の原点』(徳間書店)から転載しよう。(「まず隗よりはじめよ」ということわざはこの説話から生まれている。)

 燕は姫(き)姓、召公奭(せき)の封ぜられし所なり。三十余世にして、文公に至って、かつて蘇秦(そしん)の説を納れ、六国に約して従をなす。文公卒す。易王噌(かい)立つ。十年にして、国をもってその相子之に譲り、南面して王事を行なわしむ。而して噌、老して政を聴かず、顧(かえ)って臣となる。国大いに乱る。斉、燕を伐ってこれを取り、子之を醢(かい 塩漬け)にして噌を殺す。

 燕人、太子平を立てて君となす。これを昭王となす。死を弔(とぶら)い生を問い、辞を卑うし幣を厚うし、もって賢者を招く。郭隗(かくかい)に問うて曰く、「斉、孤の国の乱るるによって、集って燕を破る。孤、極めて燕の小にしてもって報ゆるに足らざるを知る。まことに賢士を得てともに国をともにし、もって先王の恥を雪(すす)がんこと、孤の願いなり。先生、可なるものを視(しめ)せ。身、これに事(つか)うるを得ん」。隗曰く、「古えの君、千金をもって涓(けん)人をして千里の馬を求めしめし者あり。死馬の骨を五百金に買いて返る。君怒る。涓人曰く、死馬すらかつこれを買う。いわんや生者をや。馬、今に至らん、と。期年ならずして千里の馬、至るもの三。今、王必ず士を致さんと欲せば、まず隗より始めよ。いわんや隗より賢なる者、あに千里を遠しとせんや」。ここにおいて昭王、隗のために改めて宮を築き、これに師事す。

 ここにおいて士争って燕に趨(おもむ)く。楽毅(がっき)は魏より往く。もって亜卿となし、国政を任ず。すでにして毅をして斉を伐たしむ。臨淄(りんし)に入る。斉王、出でて走る。毅、勝ちに乗じ、六月の間に、斉の七十余城を下す。ただ莒(きょ)と即墨(そくぼく)は下らず。

 昭王卒す。恵(けい)王立つ。恵王、太子たりしとき、すでに毅に快からず。田単(でんたん)すなわち反間を縦(はな)って曰く、「毅、新王と隙あり、あえて帰らず。斉を伐つをもつて名となす。斉人ただ他将の来たって、即墨の残せられんことを恐る」。恵王はたして毅を疑う。すなわち騎劫(きごう)をして代わって将たらしめ、而して毅を召す。毅、趙に奔(はし)る。田単ついに燕を破り、而して斉の城を復すを得たり。


 この頃の燕の勢力範囲を示す地図を「中国東アジア地図」さんから拝借する。(前270年頃の地図が欲しかったのだが、どういうわけか前3・2世紀が欠けているので、前300年の地図を選んだ。)

前300年の東アジア

 この地図では燕の東方の領域は遼東半島までだが、燕の全盛期には蓋国の北にまで勢力を伸ばしていたはずだ。『「邪馬台国」論争は終わっている。(13)』で用いた三国志時代の朝鮮半島の地図を転載する。「東沃沮伝」の記事から蓋国の位置が確認できよう。

(東沃沮伝)
東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り。

東夷伝地図

 燕の領域が蓋国の北にまで及んでいたことを示す史料として『史記列伝』の「朝鮮列伝」がある。次のように書かれている。

 朝鮮王の衛満(えいまん)というのは、本来燕の人である。戦国時代、まだ侵略を受けないころから燕は真番(しんばん 鴨緑江の西)と朝鮮(鴨緑江の東)を攻略して領有し、統治のために官吏を置き、城塞を構築していた。秦は燕を滅ぼすと、遼東の外がわの地帯まで領有した。漢の始め、それらの地域が遠方で守備が困難なことから、もう一度遼東の古いとりでを修理して、[さんずいに貝の字](ばい)水(鴨緑江)までを国境線とし、燕国の領土とした。

 衛満は後に箕氏朝鮮に替わって衛氏朝鮮を建国した人物である。

 「山海経」の記事に戻ると、私はこの記事は単なる地理情報ではなく、燕の支配領域拡大を誇示する意味をも込めているのではないかと読んだ。

蓋国は強大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。
については、倭のすぐ北が蓋国のように書いているのをその通りに受け取ることにする。蓋国はかなり南の方まで領域を広げていて、中国側では後の三韓あたりを倭と認識していた、と推定した。

また、
朝鮮は列陽の東の海、北山の南にあり、列陽は燕に属す。
について、「朝鮮」とは箕氏朝鮮である。「列陽」はリャオトン(遼東)半島かなとも思ったが、そこは領土拡大の以前の領有地であるから取らず、「列陽」はシャントン(山東)半島(楽毅が燕の領域に組み込んでいた)と推測した。「北山」は衛満が領有した地域と考えられるので、ちょっと遠いがチャンパイ(長白)山脈と推定した。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1734-f3180042
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
1 :ジャガー(埼玉県):2012/06/09(土) 19:54:58.57 ID:f3NFaB/HP ?PLT(12000) ポイント特典中国大手検索サイト百度の掲示板に「どうして中国文化は日韓であまり受け入れられないのか」というスレッド...
2012/06/10(日) 15:02:08 | 【豆β】ニュース速報