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《続・「真説古代史」拾遺篇》(40)



「倭人伝」中の倭語の読み方(4)
読み方のルール:番外編


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 前回の「どなたか分る方おりましたら、教えてください」という私のコメントに対して、さっそく「愛読者」さんから回答を頂きました。出典はやはり諸橋大漢和辞典でした。

(「愛読者」さんのコメント)
四巻の三九Pに
「對」こたへる・・[詩、大雅、桑柔]聴言則對。[箋]對、答也。
諸橋六巻一一六〇Pに
「海」・・水の神[左氏、昭、二十]海之鹽蜃。[疏]海、是水之大神。 とあります。

 ところで、私は「海之鹽蜃」がなぜ「水の神」なのかが分らなかった。直接『春秋左氏伝』を当たってみたが、やはり分らない。分らなかったので報告する必要はないのだけれども、せっかく調べたのだから記録しておくことにした。

 「左氏」の「海之鹽蜃」という語句を用いているお話は斉侯(以下「公」と書く)の説話だった。次のようお話です。(以下、新釈漢文大系『春秋左氏伝 4』が教科書です。)

 公の病が治らないのは鬼神をまつる祝史の罪だから、祝史を誅すべきだと、斉の大夫が公に薦めた。公は晏子にこのことを相談した。晏子は大夫の進言を批判した。すると、

公曰く、
然らば則ち之を若何(いかむ)せむ、と。
對えて曰く、
爲す可からざるなり。山林の木は、衡鹿(こうろく)之を守り、澤の萑蒲(くわんぼ)は、舟鮫(しゆうこう)之を守り、薮の薪蒸(しんじよう)は、虞候(ぐこう)之を守り、海の鹽蜃(えんしん)は、祈望(きぼう)之を守る。縣鄙(けんぴ)の人、入りて其の政(まつりごと)に從(したが)ひ、偪介(ひょくかい)の關(くわん)は、其の私(し)を暴征し、承嗣大夫は、強ひて其の賄(くわい)を易(か)へ、常(つね)を布(し)くこと藝(のり)無く、徴斂、度無く、宮室日に更め、淫樂違(さ)らず、内寵(ないちょう)の妾(せふ)は、肆(ほしい)ままに市に奪ひ、外寵の臣は、僭(いつは)りて鄙(ひ)に令し、私欲を養求し、給せざれは則ち應ず。民人苦痛し、夫婦皆詛ふ。祝すること有るも、誼ふも亦損有り。聊攝(れうせふ)より以東、姑尤(こいう)より以西、其の人たるや多し。其れ善く祝すと雖も、豈(あ)に能く億兆人の詛いひに勝たんや。君若し祝史を誅せんと欲せば、徳を修めて而る後に可ならん、と。公説(よろこ)び、有司をして政を寛(ゆる)くし、關を毀(こぼ)ち、禁を去り、斂(れん)を薄くし、責を巳(や)めしむ。

 晏子の「爲す可からざるなり」という答は、「祝史を誅しても事態は改善されません」という意だろう。現代文訳は次のようになっている。

「どうにも手の下しようがございません。今や山林の木は衡鹿が看守し、沢地の萑(すげ)や蒲(がま)は舟鮫が看守し、藪地(そうち)の薪は虞候が看守し、海の塩や貝は祈望が看守していて、人民にはどうにもなりません。……」

 衡鹿・舟鮫・虞候・祈望は官職名であり、祈望については「○祈望 海を看守し、その祭りを掌る官。祈望は海を祭る意」という注が付いている。山がご神体になるように、海そのものが畏怖すべき神とされてきたことは容易に理解出来る。そして、
「[疏]海、是水之大神。」
とあるから、「海」に「水の神」という意味があることは納得する。しかし、私はどうして「海之鹽蜃」から「海=水の神」という意味があることを引き出せるのか、さっぱり分らないのだった。

 もうひとつ、[疏]と略記されている出典が分らない。諸橋漢和大辞典の「凡例」を調べたら[皇疏](皇侃の論語義疏)があったが、ただの[疏]はない。[皇疏]=[疏]なのだろうか。「『論語義疏』テキストデータ」というサイトに出会った。『論語』で「海」を含む文章を調べ、それを「『論語義疏』テキストデータ」で確かめたが、「海、是水之大神」には出会わなかった。
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 さて、「愛読者」さんのコメントには前回のテーマの一つ「対海国」についての意見が書かれていた。なるほど一理あるな、と思った。検討してみよう。

 ただ個人的には倭語の島名は津島(ツシマ)、国名は半島(馬韓?)に対峙する上県が「対馬国」、玄海(対馬海峡東水道)に対峙する下県が「対海国」だと思っています。何故なら古田さんの倭人伝の里程解析上有名な「島廻り読法」では、上県は通過せず」下県を半周しているわけで、これから見ると倭人伝の対海国は下県になるからです。

 上下で県が分かれているということは別国であった名残ではないでしょうか。

(追加)
 玄海(対馬海峡東水道)などといわなくとも「始度一海。濶千餘里。名瀚海。至一支國。」ですから「瀚海に対峙する国」としての名でよかったですね(倭語で対馬と壱岐の海峡をどう呼んでいたか不明ですが・・)

 「島廻り読法」の図を再掲示する。



 この図では上県・下県を合わせて「対馬」とし、下県を「対海国」と呼んでいる。これに対して「愛読者」さんは上県を「対馬国」、上県・下県全体の島名を「津島ツシマ」としている。そうすると「対海国」「対馬国」はそれぞれ「タイカイコク」「タイバコク」と読むと思われるが、この場合、対馬を原点とした命名だから当然倭語ということになる。しかし、この場合次のような難点がある。

 地名は後世になって変更されたものもたくさんあるが、3世紀頃の場合は、倭人が漢字を知らない頃(もしかすると石器時代)に付けられた倭語による地名が残っていたと考えてよいであろう。その地名に「音が同じ」かあるいは「意味が同じ」という理由で最も適した漢字を選んだと考えてよいだろう。「津島ツシマ」は「津の多い島」ほどの意味で確かに倭語と考えられるが、「タイカイコク」「タイバコク」という倭語はあり得ないのではないだろうか。あるいは意味の上で「対海」「対馬」という漢字表記を選んだのなら、その元になる倭語地名がなければならない。そうした記録が残されていないのなら、何とも判断できないことになる。古田さんは「一大国」と「対海国」については、元になる倭語地名として「亦の名」を取り上げたのだった。

 ところで、古田さんは『俾弥呼』では「瀚海」に触れていない。念のため「新・古代学の扉」で検索したら、『邪馬一国の証明』(角川文庫)のネット版テキスト「古代船は九州王朝をめざす」と講演録「神話実験と倭人伝の全貌2」でこの問題を取り上げていた。『俾弥呼』で取り上げていないのはまだ確定的なものとは考えていない(保留している)からだろう。このことを念頭に置いて、古田さんの考えの変遷をたどってみる。まずは「古代船は九州王朝をめざす」から。

飛鳥(ひちょう)の海流

 ある人がわたしに言った。「古田さんの本を読んでいると、あまりにもハッキリと分かりすぎてしまう。古代史はあんなに割り切れるものだろうか?」と。わたしは答えた。

 「いや、古代史は分からないことだらけです。その中で自分にハッキリ分かったこと、それだけを書いたのです」と。『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』から最近の『盗まれた神話 ーー記・紀の秘密』まで、みんなそうだ。

 たとえば『三国志』魏志倭人伝。どうにも分からない所があった。「狗邪韓国 ―(A)― 対海国 ―(B)― ―大国 ―(C)― 末盧国」と三つ海域があるのに、(B)だけしか名前(「瀚海」)がついていない。これが解(げ)せなかった。また「瀚」は“広大なさま”だというのだが、こんな狭い海域になぜこんな名前が? 分からない。だから、私の本には書いてないのだ。

 ところが今度、ふとしたことで解けた。「三水編」をとって「翰」で調べた(たとえばこの三海域を「わたる」ときに度と渡が使われている。卑弥呼も帝紀では俾弥呼だ)。この字は“飛ぶ鳥(やまどり)”“速くとぶさま”とある。わたしは躍り上った。「対馬海流だ!」百科事典を調べた。流速1ノット。黒潮(流速3~5ノット)を知っている倭の水人から見れば、たいしたことはない。だが、袋小路で淀んだ海の、黄海や東シナ海しか知らぬ中国人から見れば、まさに“速く流れる海”だ。それにしても、海流を飛鳥になぞらえるとは、いかにも中国人らしい雄勁な造語力ではないか!

 “この解釈にまちがいない”と自信がもてたのは、ほかでもない。海流なら三海城それぞれに名のあるはずはない。中心の対馬海峡の所だけしるされていて当然だからだ。つまり、これは海名ではなく、海流名だったのである。ここでも陳寿(と漢代以来の中国人)の目は真実(リアル)だった。

 この段階では、倭語ではなく、中国側の命名としている。しかし、講演録「神話実験と倭人伝の全貌2」の質問応答の部分では、「瀚海」の意味については上と同じ説明をしているが、その海流名は倭語であるとしている。

質問一
 『魏志倭人伝』の「一大国」や「対海国」は、いままでの考えと違って、中国が付けた名前でないなら、それでは「瀚海かんかい」は同じく日本側が付けた名前となりますが、どのように考えられていますか。


 「一大国」や「対海国」は中国側ではなくて、倭人側が付けた。そこで「瀚海かんかい」ですが、初め困って、どうしてもうまく理解できなかった。辞書を引いてみると「瀚」そのものは、広いという意味です。それで、あのような狭い海を、このようには理解できないので困りました。それでサンズイ扁をとりました「翰かん」。これは速いという意味である。これなら良いのでは。

 わたしは、この時代は文字がかなり形成されて、まだ固まっていない時代。かなり形成された時代ですが一〇〇パーセント形成された時代ではないと思っています。だからサンズイがある文字とない文字が、ともに混用されている段階の時代です。例をあげると金印の「委」、これは本来は「倭」である。ところが両方とも使っている。

 ご質問の「瀚海」に戻ります。サンズイを取りますと、書簡の意味の「翰」、あるいは鳥が並んで速く飛んで行くという意味である。これは「広い」という意味ではなく、「速い」という意味です。そうしますと、この海は対馬海流上の速い海です。そう理解し納得しました。

 倭人にとって「瀚海」は壱岐と対馬を結ぶ重要航路である。その海に倭人が名前をつけないはずはない。漢字を使うようになってから、従来使い慣れた名前を捨てて、まったく新らしく「速い海」という意味の漢字表記を作ったとは考えがたい。やはり、漢字使用以前に「広い海」という意味の倭語海名があったことを示さなければいけないのではないだろうか。その倭語が残されていないのであれば、結論は保留する外ないだろう。

 最後にもう一つ。
 ついでなので「対馬」という地名の由来を知ろうと思い、『日本地名ルーツ辞典』(創拓社)を読んでみて驚いた。次のようである。(必要なのは赤字の部分だけなのだが、とりあえず全文転載する。)

 県北部、朝鮮半島と九州本土の中間にある島。上島・下島の二島と95の小島が点在し、古代より日本と大陸の往来の要地であった。

 ツシマは『魏志』倭人伝では「対馬」、「隋書」倭国伝では「都斯麻」、『古事記』では「津島」と書かれている。『和名抄』には「西海国対馬島・都之万」とあり、『古事記伝』は名称の起こりを「韓国と往き来するときに停泊する港のある島である」と説明し、吉田東伍の『大日本地名辞書』には「対馬は津島の義なるべしと云は最も通じ易き談なり、然れども島中にか豆酘(つつ)郷の名あれば、豆酘島と呼べる者再転して津島と為れるにあらずや、疑なきにしもあらず」とし、ツシマはツツシマからきているとしている。

 永留久恵は韓国の研究者の説として、韓国語で「二つの島」をTu-semといい、島はSnemと発音すること、韓国のほうより対馬を見ると南北二つの島に見えることを紹介しているが、結論として確固たる定説ではないとしている。

 『津島紀事』には、「むかし島と号(とな)へしを天智天皇の御時更めて国とせられ、文武天皇の御宇に又島と称せられる。後花園院の朝嘉吉年以来大宰府及び本州の書物には定て国としるし、他国にては国又は島としるして一定せず、……天正年以来公私一定して国と称せり」とある。

 対馬は明治時代、陸地を開削して上下二島に分かれたが、もともと一つの島だった。しかし、上・下が向かい合う地形から、二つの島が対になっているように解された。(越中)

対馬地図
(帝国書院版「中学校社会科地図」より)

 開削したのは「万関橋」当たりだろうか。もしこれが真実なら、「島廻り読法」は修正しなければならなくなる。
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 コメント
この記事へのコメント
コメント掲載して頂き有難うございます。対馬・対海何れも「ツシマ」とは読めませんから、「表音」ではなく「表意」による国名ではないでしょうか。
同様の表現では「対蘇国」がありますが、これは倭人伝中の国名の並びから、蘇奴国(蘇の国)あるいは「蘇」に「対面・対峙」する国と思われるからですが、いかがでしょうか?
古田さんも「瀚海」の瀚を「飛ぶように速い海流」を意味する語、「表意による海の名」とされていますよね。
2012/03/27(火) 19:00 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
http://kochizu.gsi.go.jp/HistoricalMap/

こちらのURLにて古い地図が閲覧出来ますね
2012/03/28(水) 08:45 | URL | #-[ 編集]
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