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《続・「真説古代史」拾遺篇》(36)



番外編
二世紀の俾弥呼?


 『二世紀の卑弥呼 「前方後円墳」真の構築者』(草野善彦著)には表題にもある通りの「二世紀の卑弥呼」という章が立てられている。(以下、本文では「俾弥呼」という表記を用いる。)

 私がこの本を図書館から借りて来た理由の一つはこの表題だった。既に私(たち)は「俾弥呼と崇神の接点(1)」で、俾弥呼は「三十代なかばの女性」という古田さんの確かな論証を確認している。俾弥呼の一回目の遣使は景初2年(238)だから、「二世紀の俾弥呼」はあり得ない。しかし、草野氏はキチンとした論理的な論証を心懸けているし古田史学の成果にも目配りをしている方なので、その論拠を知ろうと思った。

 「三国史記」の次の記事を取り上げていた。

倭の女王卑弥乎、使を遣わし来聘す。
(第2、阿達羅尼師今20年〈173〉5月条)

 「ひみか」の「か」の字が異なるが、紛れもなく倭人伝の卑弥呼と同一人物だ。そして確かに二世紀の記事である。(ちなみに岩波文庫版は「ひみこ」と読んでいる。)

 173年、景初2年(238)より65年も前のことである。草野氏は「魏志倭人伝」や「後漢書倭伝」との比較をしながら詳しい論考を重ねている。それは必要に応じて検討することにし、結論部分を転載する。


 卑弥呼の死に関して『北史』に「正始中(正始は240~248年)、卑弥呼死す」とあることから、卑弥呼の最後は正始9(248)年と考える。なお通説では卑弥呼の死の年をめぐって「卑弥呼〝以て″死す」の〝以て″を理由に、「すでに死んでいた」と解釈する例もあるが、死の前年の正始8年の記事を読めば、「倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説」かせたのは卑弥呼に決まりきっているので、ここでは特に取り上げない。もし卑弥呼を「すでに死んでいた」と解すならば、「正始8年」の使者を、倭国側はだれが派遣したのか不明となろう。「魏志」倭人伝が「国家間の交流記」である以上、「正始8年」の使者派遣の責任者が不明ならば、魏が問題にしないなどはあり得ない。

 以上にたって卑弥呼の死亡年から阿達羅尼師今の20(173)年を差し引けば、その間75年(一年暦)となる。問題は、卑弥呼が何歳で女王に「共立」されたかである。それはもちろん不明である。しかし卑弥呼の「共立」の事情として、「その国、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす」とあり、また壱与の「共立」に関しても、「更に男王を立てしも、国中服さず、更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年一三なるを立てて王となし、国中遂に定まる」とあるので、卑弥呼もまた「一女子」の段階で「共立」されており、その年齢を壱与同様に13歳と仮定すれば、卑弥呼はその生涯を88歳で閉じたことになる。  したがって卑弥呼の年齢は「女王」に「共立」された年齢で動き、あり得ないと思われるが計算上は、生まれた年に「共立」されれば13年短縮されることになる。したがって卑弥呼の実際の生涯の年齢は75歳以上となり、88歳での死亡はかなり現実性のあるものといえよう。ここから『三国史記』の卑弥呼の記事は、人間の自然な年齢の範疇におさまり、その意味で『三国史記』のこの記事を、否定する根拠はないことになろう。ただし後述するが当時の倭人の年齢計算は、「一年を二年に数える二倍年暦(半年を一年と数える年暦)であって、壱与の13歳は6歳~7歳と考えられるのである。したがって卑弥呼も壱与同様に13歳で擁立されたとすれば、75年+(13歳÷2)となり、その生涯は81~2歳と考えられる。

 草野氏は壱与の擁立年齢から「女子」を「少女」と解しているが、そうだろうか。「その国、本また男子を以て王となし」というように「男子」は「男性」という意で使われている。「男子」は「女子」は対語で使われているのだから、「女子」も単に「女性」という意だろう。俾弥呼擁立年齢を壱与の場合とほぼ同じとする仮説は危うい。仮に壱与と同じとした草野氏の推定を認めるとしても、次のような疑問が残る。3世紀において80歳以上という長寿はまったくあり得ないとは言えないが、神武~崇神までの没年齢(二倍年暦)の最長は『古事記』では崇神の168歳、『日本書紀』では孝安の137歳である。80歳以上は崇神一人だけである。俾弥呼の没年齢81歳以上というのは、やはり信じがたい。

 それでは『三国史記』の記録がウソなのだろうか。岩波文庫版の解説を読むと、『三国史記』・『三国遺事』に対する「井の中」での史料批判は混沌としている。次のように書き始めている。

「従来、『三国史記』新羅本紀の倭関係記事の大半は、造作されたものであって信憑性に欠けるとするもの、あるいは史料的に利用できるものは、4世紀後半の奈勿(なもつ)麻立干(356-401)のころからの記事とするものの、そこに記載されている倭は、のちの日本のこととみなすのが大勢であった。この通説に対して、……」

 以下、諸説紛々。「記紀」を金科玉条としながらの議論だから当然の結果である。私(たち)にはほとんど意味のない議論である。ともかく信頼されていない。

 もちろん、草野氏は『三国史記』の記録を疑っていない。その論拠は次のようである。

 『三国史記』は高麗の仁宗23(1145)年の成立であるから、『古事記』『日本書紀』よりも、はるかに遅いものであるがその史料的価値は低いとは思えない。例えば
「『三国史記』と『三国遺事』は著しく遅れて書となり、その史料価値は、同時代史の性質を持つ中国の史籍と同列に論じることはできない。しかし、日本の史籍の『記紀』と比較すると信頼性は高くなる。金富軾と僧一然がこの書を編纂したのは、当時残っていた朝鮮の古籍に依拠しただけではなく中国の史籍も参考にしたのである」(沈仁安著、『中国からみた日本の古代』、23頁)
という指摘がある。

 『三国史記』の記事を疑う根拠がないとすると、卑弥呼は「三十代なかばの女性」という古田説との矛盾はどう解決できるのだろうか。私には全くのお手上げ。

 ここで思いついた。このような大事な問題を古田さんが取り上げていないはずがない。度々お世話になっている「新・古代学の扉」で検索をしてみた。ありました。まず『三国史記』の史料批判。(「大化の改新と九州王朝」からの転載です。)

 朝鮮半島に『三国史記』という歴史書があります。これが成立したのは鎌倉期の頃ですが、内容は大変古い資料を使っておりまして、大体において信用のできる性格の史料でございます。ただ統一新羅がこの資料を集めて高麗が受けついで歴史書にしましたので、敵国であった百済や高麗の資料は非常に脱落が多いですし、新羅自身も六世紀段階ではかなり脱落があるという、欠点といえば欠点があります。しかしその欠点を歴史家がいいかげんに埋めていない、という点が、逆に信用できるわけです。脱落しているから大体の判断で補って書いておこうとやられると、見た体裁はよくなるけれど、資料としては困るわけです。そういうことをしていないわけです。無いところは無いままにしているわけです。そういう点が『日本書紀』とは違うところです。

 古田さんも「三国史記」の史料価値を認めている。しかし、俾弥呼の遣使記事には疑問を呈している。(以下の資料は「倭国紀行」です。)
 では、草野説と古田説の矛盾はどう解決されるのか。カギは「後漢書倭伝」(岩波文庫版より転載)の次の記事にあった。(以下は「倭国紀行」での古田さんによる謎解きの要約です。この部分の論考には大変分りにくい点がある。私なりに翻案します。誤りがあれば、もちろんその責は私にあります。)

桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々(こもごも)相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。年長じて嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑わす。ここにおいて、共に立てて王となす。

 「桓・霊」とは後漢の天子を指している。第11代・桓帝(147~167)と第12代・霊帝(168~188)である。

 「後漢書倭伝」の記事は明らかに「魏志倭人伝」を下敷きにして書かれたものだ。「魏志倭人伝」では次のようになっている。

その国、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。

 後漢書の著者・范曄(はんよう)は「住まること七、八十年」について二重の錯誤をおかしている。
① 「七、八十年」は「倭国大乱」の期間である、と誤解した
② 短里に気付かなかったと同じ、「二倍暦」に気付かなかった。

 この錯誤によると「倭国大乱」の勃発時期は、俾弥呼の擁立は第一回遣使(238)の直前と思われるが、一応238年を基準にすると、
238-(70~80)=158~167
となり、まさに「桓・霊の間」(147~188)になる。范曄はこの計算により「桓・霊の間」という表現を用いたと考えられる。

 そして、、「三国史記」の編纂者の手元には保存されていた独自の断片記事として「卑弥乎」の遣使記事があった。その記事を当てはめる時代考証を「後漢書倭伝」の記事に依拠して行った。くだんの記事を次のように解読した。いや、私はこのようしか読めないと思う。

 まず、「桓・霊の間」は「大乱」の期間を示している。そして「大乱」は「暦年」続いたとある。「暦年」だからそんなに長い期間ではない。7・8年くらいか。その期間は「桓帝末・霊帝初」と考えてよいだろう。

次はの私の遊び。
「桓・霊の間」をそれぞれの元号内から4年ずつとると「163年~172年」。「卑弥乎」遣使記事は173年だ。これは出来過ぎ。

 草野氏も「後漢書倭伝」の記事の検討を行っている。次のようである。

 (「住まること七、八十年」は)今日の年暦に変えれば35年~40年間ということになる。すなわち「桓・霊の間」の「41年間」と符号する。この間、男の王がいて、その間に「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」という状況に至ったということになる。いまもし173年を卑弥呼「共立」年と仮定すれば、それ以前の35年~40年の間に男王がいて、「倭国大乱」があったことになろう。つまり133年または138年から173年までの間に男王が存在して、その間に「大乱」があったということになる。『後漢書』の編者の范曄はこれを漢の王位で表現して「桓・霊の間」、すなわち桓帝の147年から霊帝の188年までの41年間に該当するとしたと思われる。

 「魏志倭人伝」の「住まること七、八十年」を「倭国大乱」の期間としている点で范曄と同じ間違ったスタートをしている。そして、范曄も「二倍暦」を使っているという解釈をしているが、これも誤解だろう。草野氏も二重の錯誤に陥っている。(この問題は「まぼろしの倭国大乱 ― 『三国志』と『後漢書』の間」 で古田さんが克明に論じている。)

 やはり「二世紀の卑弥呼」は虚構だった。
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