2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(54)



狗奴国の滅亡(35)
「崇神大和侵入」説の再検討(4)
崇神とタケハニヤスとの戦い


(3)
(a) 任那で軍事力増強に成功した崇神は大和へ帰国する。ヤマト王権は初めて大和の外へと打って出ることになった。大和から軍を三方に派遣し、銅鐸圏勢力を「包囲」する体勢をとった。
(b) 崇神は任那から出陣した。途中吉備に立ち寄り、吉備津彦の協力を得て、河内から大和へと侵入した。同時に銅鐸圏勢力包囲作戦を実行した。

 私は(a)の立場で、崇神が任那の要害の将軍であったからこそタケハニヤス軍を撃破する軍事力を用意できた、と考えた。三方への派遣と銅鐸圏中枢(タケハニヤス)との決戦。相当の軍事力を必要としただろう。たかだか「入江」の長程度では不可能だ。

 一方、古田さんは、崇神は神武と同じルートをを通ったと言い、

『「任那から大和へ」というルートの、重要な中継地、それこそ吉備だった。吉備津彦の領域、その「津(港湾)」の権力者と"協力"して、「大和への侵入」が可能となったのである。』

と書いている。これは、「入江」の長の軍事力だけでは「大和侵入」は成し得ない、という想定があっての記述だと思われる。古田さんは吉備津彦の協力を得たという仮説の論拠を、「崇神記」の「三方」に対して「崇神紀」が「吉備津彦をもて西道に遣す」を加えて「四方」としていることに求めている。上の引用文の直前の文で次のように述べている。。
『「三方か、四方か。」最初にのべた、この疑問に、今は容易に〝答える″ことができる。当然「三方」が原型だ。残る「一方」の〝西への道″は、逆だった。』

 『日本書紀』編纂者が「吉備→大和」というルートを逆方向にして挿入したと言っている。これは牽強付会に過ぎる、と言ったら言い過ぎだろうか。

 次の(b)は、崇神の大和侵入後から木津川での決戦に到るまでの経緯を古田さんは明記していないので、私の想像です。

(4)
(a) 崇神の挑戦をうけたタケハニヤスは、山城に軍をすすめ、木津川で崇神側の軍と対戦したが、撃破されタケハニヤスは敗死した。
(b) タケハニヤスは崇神の大和侵入を指をくわえて見ていたわけではないだろう。抵抗したが叶わず山城へと敗走した。山城で銅鐸圏勢力の協力を得て軍を立て直し、木津川で決戦を挑んだが、撃破されタケハニヤスは敗死した。

 タケハニヤスは孝元の系譜では「建波邇夜須毘古命」と「毘古命」いう称号で書かれているが、「崇神記」では「建波邇安」と「王」に変わっている。この「王」という称号は崇神の狗奴国攻め(3)で論じたように、「親呉倭国」の「王」である。すると(b)説では大和の「正当なる王者」が「王」を名乗っている事になり、タケハニヤス治世下のヤマト王権は「親魏倭国」から「親呉倭国」に変わっていたことになる。古田さんはそれも崇神が「正当な王者」を討つ理由の一つとしている。この点に関しては一応つじつまの合う議論になっている。

 タケハニヤスの母親は「河内青玉の女、波邇夜須毘賣」だから、タケハニヤスが「大和の正当な王」だとしても、銅鐸圏勢力の協力を得た、という設定も一応は辻褄が合っている。

 しかし(b)の場合、「三方派遣」が宙に浮いた感じになってしまう。「三方派遣」というのは銅鐸圏中枢部を襲撃するための包囲作戦である。「三方派遣」をしておいて、本隊(崇神)は大和に侵攻した、なんてちょっと変だ。

 もっとも次のように解釈することはできる。「三方派遣」は大和侵入と同時に行われたのではない。崇神がまず全軍を率いて総力で大和に侵攻した。崇神は大和を掌握したが、タケハニヤスは取り逃がした。そこで改めて作戦を練り直し、三方派遣包囲作戦を始めた。

 以上、私としては新説(b)より旧説(a)(ただし、崇神の根拠地は任那であったという修正をした上での)を支持したい。

(今回でひとまず「狗奴国の滅亡」を終わることにします。)
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