2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(52)



狗奴国の滅亡(33)
「崇神大和侵入」説の再検討(2)
三王朝交替説(水野説)の崇神(1)


 水野祐氏は「交代」ではなく「交替」という表記を用いているのでそれに改めた。また私(たち)にとっては言うまでもないことだが、ヤマト王権は701(大宝元)年までは九州王朝傘下の一分国に過ぎないので、「王朝」という用語は不適切である。しかしここではヤマト王権一元主義の土俵に乗るのだから、以後は「井の中」で流布している用語に一々こだわる煩は取らないことにする。

 さて、水野氏は主として『日本書紀』を用いていて、崇神の和風諡号も『日本書紀』での表記「御間城入彦五十瓊殖」を用いている。その崇神の和風諡号の中の「御間城」について、水野氏は次のように解釈している。

 「御間城」「入彦」「五十瓊殖」という三つの言葉の複合として構成されるこの名前は、何を意味するのでしょうか。

 まず「御間城」は、「御」と「間城」という言葉の合成とみるのか、それとも「御間」と「城」という言葉の合成とみるのかで意味が違ってきますが、私は「御」と「間城」に分解するのが正しいと解釈します。

 「御」と「間城」に分解して考える場合、「御」は美称であり、「御間城」という言葉の本体は「間城」であるとみます。この「間城」は、『古事記』では「真木」の字を当て、同じ字は「神功(じんぐう)紀」の中にも「真木の灰を瓠(ひさご)に納れて」という文に出ています。つまり、「間城」=「真木」であり、真木とは植物の槇(まき)なのです。

 真木を檜とする説もありますが、私は槇でいいと思います。槇は古くは一種の呪木であり、聖樹であるため、神木であるのを尊んで「御」をつけて「みまき」という名前になったと考えられます。つまり、聖樹・神木の名が天皇の名前に付けられている、ということになります。

 水野氏が傍証に使っている「神功紀」中の文「真木の灰を瓠に納れて」を確認しようと調べたが、なかった。ヤマト一元主義者であってもその知識は信頼できると思っているが、こういう事例に出会うと私の氏への信頼はがた落ちになってしまう。

 と書いたところで、ふと思いついて『古事記』を調べた。ありました。私もよく思い違いをするが、水野氏の思い違いだった。「仲哀記」の「功皇后の新羅征討」説話の中に出てくる神のお告げであった。

「是は天照大の御心ぞ。亦底筒男、中簡男、上筒男の三柱の大ぞ。今寔に其の國を求めむと思ほさば、天地祇亦山神及河海の諸のに、悉に幣帛を奉り、我が御魂を船の上に坐せて、眞木の灰を瓠に納れ、亦箸及比羅傳を多に作りて、皆皆大海に散らし浮かべて度りますべし。」

 「真木」という言葉は『万葉集』でも使われている。検索したら22件ヒットした。初出はあの「軽皇子の安騎の野に宿りましし時、柿本朝臣人麿の作る歌」(巻1、45番)である。(「日並知皇子の謎(1)」で取り上げた。)この「真木」について、〈大系〉の頭注は「檜・杉・松など。」と説明している。水野氏は「槇」について「ここでは杉の古名」と注記している。広辞苑には「古くは神事に用いた」という記述がある。

 以上から「間城=槇」という水野説は一つの仮説としてそれなりの論理性はあると思う。

 次は「入彦」についての水野氏の解釈である。

 次に「入彦」ですが、「入彦」は「入姫」と対をなす語で、これは覡(げき)を意味する称号と考えられます(ミコのことを男の場合は硯といい、女の場合は巫(ふ)という。)

 「入彦・入姫」という言葉に対して「寄彦・寄姫」という言葉が別にあります。いずれも巫覡(ふげき)を意味する点は同じですが、巫覡としての成り立ちの違いによってどちらの言葉を使うかが変わってきます。

 神霊の方から能動的に人間の男女に寄りつき、その人間が神霊を帯して神聖な存在となり、巫覡になったという場合は「寄彦・寄姫」です。それに対し、人間の方から能動的に神聖なる存在の領域に入っていって神霊に接し、奉仕する身となり、その神霊を体に受けて神聖な霊能を有する巫覡になったという場合に、「入彦・入姫」という言葉が適用されるのです。

 私は「寄彦・寄姫」という表記には初めてお目にかかった。『古事記』『日本書紀』『風土記』を調べたがこのような表記はない。どんな文献からこのような表記を引き出してきたのだろうか。失礼ながら、たぶん出典はない。あの甕依姫(みかよりひめ =俾弥呼)の「依」を「寄」で置き換えたと思われる。俾弥呼は「甕」を「依代(よりしろ)」として神に仕える巫女であった。(詳しくは「卑弥呼(ヒミカ)の比定」を参照覧して下さい。)

 「依彦・依姫」は巫覡と考えてよいだろう。「依姫」は、『古事記』には、「狹手依比賣・玉依毘賣」(神代)、「比賣多多良伊須氣余理比賣」(神武記)、「息長水依比賣・水穂五百依比賣(開化記)、「河俣稻依毘賣・活玉依毘賣」(崇神記)、「香余理比賣命」(景行記)などが見えるが「イリ」と同様、この後はない。また、「依彦」の方は「神代記(国生み説話)」に「讚岐國は飯依比古と謂ひ…」という一例だけである。これは国に人名形式の「亦の名」を付けた古い形の国名である。少なくとも『古事記』『日本書紀』には巫覡としての「依彦」はいない。民間レベルでは男性の巫覡もいたと思うが、部族国家レベルでの宗教的な共同性において権威となり得るのは巫女だけなのではないだろうか。(「俾弥呼と崇神の接点(3)」を参照してください。)

 先に私は、水野氏は「依」を「寄」で置き換えた、と推測した。もしそうだとするとなぜこのような置き換えをしたのだろうか。水野氏は巫覡には、の方から巫覡に「寄」ってくるタイプと、巫覡の方から神域に「入」っていくタイプの二つのタイプがあると言う。そしてそれを、「寄彦・寄姫」だけでなく、「入彦・入姫」も巫覡なのだという説の論拠としている。

 二つのタイプの巫覡とは、私には初耳だ。「依姫」は依代を媒介にして神霊と交感する巫女、というのが私の理解で、二つのタイプなどないと考える。つまり、「寄」「入」という言葉で表現すると、依代を媒介にして巫女の方から神霊に「寄」っていき、神霊が巫女の中に「入」ってくる。いわゆる「神憑り」である。「寄」「入」の方向が水野氏とは逆であるし、それは一人の巫女と神霊との交感のあり方を示す語としてなら意味がある。

 以上、「イリ」についての水野説は今のところ私には受け入れ難いが、結論を急ぐのはよそう。

 ところで、「愛読者」さんから「イリ」について次のようなコメントを頂きました。

 「イリ」ですが、イリ=西だと考えます。西表島(イリオモテジマ)のイリ、沖縄では今も西をイリと言い、近畿天皇家から見て、倭国=九州王朝が「西=イリ」となります。栄えある九州王朝の系列であることを誇るのがイリヒコ(西彦)名で、氏族or地名+イリヒコという構造なのでは。その中でミマキ・豊は任那、豊の地名、十市、久米は九州に由来する氏族を示すもんかと・・(十市は都市牛利、久米は久米部などの例)
いかがですか?

 「イリ=西」で、4・6・7・8・9代の和風諡号に使われている「チクシ(大倭)」と同様の意味を持った表記と解釈している。なるほど、まったく思いも及ばなかった。これはかなり有力な仮説ではないかと思った。

 ヤマト王権の和風諡号の意味を解釈するルールは確立されていないのだから、色々な仮説があり得る。しかし、それらの中から正しいものを選ぶ基準はある。他の問題と同様である。いみじくも水野氏も自らの三王朝交替説について次のように適切な指摘をしている。

『大切なことはそうした三王朝交替説をもって、「記紀」のさまざまな矛盾点が説明できたり、他の史料や考古学的事実とも整合する古代史が描けるか、ということです。』

 このようは条件が満たされた時、歴史に関する仮説は歴史的真理となる。そういう意味で、私は多元史観による古田歴史学を「相対的真理」(本質的に正しいがいくらかの誤謬もある)、ヤマト王権一元主義による歴史学を「相対的誤謬」(本質的に誤謬であるがいくらか正しい部分もある)と呼んでいる。

 私(たち)にとっては「三王朝交替説」は既に破綻した説だが、崇神の和風諡号の解釈については、その事とは切り離して(部分的問題として)取り上げている。

(思いがけず長くなってしまった。次回に続く。)
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