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《続・「真説古代史」拾遺篇》(51)



狗奴国の滅亡(32)
「崇神大和侵入」説の再検討(1)
「イリヒコ」の「イリ」の意味


 まとめとして、「崇神の大和侵入」という古田説を再検討しておこう。旧説(a)(『日本列島の大王たち』『ここに古代王朝ありき』)と新説(b)(『俾弥呼』)の論旨を対比しながら、私見を述べることにする。(青字が新説)

(1)
(a) 崇神とタケハニヤスは、崇神側からの「政略結婚」により、義兄弟(タケハニヤスが兄で崇神が弟)であった。
(b) タケハニヤスは崇神の庶兄であった。

 (a)では「孝元記」の系譜(タケハニヤスは孝元の子)は偽入であるとし、「庶兄」を「義兄」と解釈している。(b)では文字通り「庶兄」としているが、「孝元記」との系譜上の矛盾には触れていない。

 この問題については
崇神の狗奴国攻め(4)
崇神の狗奴国攻め(5)
で詳しく検討した。結論だけを再掲載する。

 『古事記』の記述では「庶兄」は異母兄を意味する。「義兄」という解釈はできない。そして、タケハニヤスの系譜はあくまで「偽入」であって、タケハニヤスと崇神とは全く縁戚関係はない。(ただし、義兄弟であった可能性は排除できない。)

(2)
(a) 崇神は大和を本拠地とする豪族であり、タケハニヤスは河内・山城を勢力圏とする豪族であった。
(b) 崇神は不倫の子として任那へ追われて、任那を根拠地とした。庶兄タケハニヤスがヤマト王権の正当な後継者だった。

   崇神の和風諡号の称号部分「ミマキイリヒコ」について、古田さんは「ミマキ」は「ミマナ」の「キ」で、「任那の要害」と解釈をしている。このことは既に紹介済みだが、「イリ」の解釈を取り上げていなかった。改めて検討しよう。

 古田さんは「イリ」を「入り江」の「イリ」と解釈している。つまり、不倫の子・崇神は「任那の要害」全体の将軍ではなく、たかだか「要害の入江」部分の長に過ぎなかったと言っている。これも私が持っているイメージとずいぶん異なっている。

 任那は九州王朝の直轄地だったと考えられる。そして、崇神の和風諡号で述べたように、任那の南は海であり、そこの津(港湾)は交易の中心施設として任那の重要な拠点の一つであった。もちろんそこにも治安維持や海賊対策のための警備施設はあっただろう。古田さんは崇神はこの津(港湾)の入江の長官だったと言っているようだ。

 しかし、任那全体の最重要要害はむしろ北部の辰韓・弁韓・馬韓との国境にあったのではないだろうか。

東夷伝地図
(「東夷伝」地図。筑摩世界古典文学全集『三国志Ⅱ』より転載)

 私は崇神はその最重要要害の将軍に任じられたと考えている。また、孝昭(御真津日子訶恵志泥 ミマツヒコカエシネ)は任那の津(港湾)の長官だったと考えられる。崇神の同母妹・御眞津比賣命は崇神と共に任那に渡り、津(港湾)の長官を務めたのではないだろうか。崇神がたかだか「入江」の長だったとはとても考えられない。

 余談ながら御眞津比賣命にはおかしな事がある。崇神の系譜記事に次の記述がある。

大毘古命の女、御眞津比賣命を娶して、生みませる御子、伊玖米入日子伊沙知命。

 ここでは御眞津比賣命は、なんと、崇神の妃である。その妃は崇神の伯父(大毘古命)の娘であり、垂仁(伊玖米入日子伊沙知命)の母親となっている。「孝元記」では大毘古命の系譜が詳しく記録されているが御眞津比賣命の名はない。一方、「開化紀」(『日本書紀』)では崇神には同母妹はいない。「開化記」(『古事記』)の御眞津比賣命(崇神の同母妹)が誤記入なのだろうか。そうだとすると崇神には同母妹はいなかったことになり、上の段の御眞津比賣命の件は削除しなければならない。しかし、崇神に同母妹はいなかったとしても以後の議論には支障はない。

 もう一つ、「崇神紀」では皇后の名は「ミマツヒメ」ではなく「ミマキヒメ(御間城姫)」である。夫・御間城入彦五十瓊殖と同じ称号「御間城」を共有しているのも妙だ。〈大系〉『日本書紀』は頭注で
「ミマキヒメとミマキイリビコは一対の名。同様の例がこのころ多く見え、いわゆる姫彦制の存在を示すともみられる。」
と述べている。「このころ」がいつ頃までを指すのか判然としないが、本当に「多く見え」るのだろうか。こういう場合は一例でのいいから他の例を挙げて欲しいと思う。私が思いつくのは「仲哀・功」の「タラシナカツヒコ・オキナガタラシヒメ」だけである。

 それにしても、「姫彦制」ってなんだろうか。俾弥呼の例のような、姉が祭祀・弟が政治を司るという制度を指しているようだ。タリシホコの兄弟統治は俾弥呼の例と同類である。「姫彦制」に倣うと「彦彦制」とでも言うことになる。崇神の例はこれらにはあてはまらないだろう。「姫彦制」「彦彦制」は兄弟姉妹による統治形態であり、夫婦による統治形態ではない。

 本題に戻ろう。

 古田さんは崇神は任那の「入江」の長に任命されて任那に追われたとしているが、誰が任命したのだろうか。ヤマト王権の「正当なる王」だろうか。そんなはずはない。任那が九州王朝の直轄領だとすれば、任那の要害の将軍や津(港湾)の長官を任命するのは当然九州王朝だ。たとえ崇神が「不倫の子」だとしても、それは九州王朝の勘案するところではないだろう。「不倫の子」を理由として身分の低い役職を任命するとは考えがたい。逆に任那の要害の将軍という要職に任命したとするとその被任命者は、孝昭(御真津日子訶恵志泥 ミマツヒコカエシネ)の場合のように、「正当なる王」でなければならない。つまりその場合は、崇神はヤマト王権の「正当なる王」だったはずだ。

 また「イリ」の解釈にも疑念がある。称号に「イリ」を含むヤマト王権の王は崇神だけではない。「開化記」には他に八瓜入日子王(神大根王の別名 あの「11王」の1人)という名がある。崇神の系譜では豐木入日子命・豐鉏入日賣命・大入杵命・八坂入日子命・沼名木入日賣命・十市入日賣命・伊玖米入日子伊沙知命などがある。

 伊玖米入日子伊沙知命は垂仁であり、「垂仁記」では万葉仮名で「伊久米伊理毘古伊佐知命」と表記されている。「伊理」という表記を用いた名が開化の系譜にもある。伊理泥王である。

 その垂仁の系譜では印色入日子命・若木入日子命・阿邪美能伊理毘賣命・布多遲能伊理毘賣命がある。さらに景行の系譜では五百木入日子命・五百木入日賣命・若木入日子王という名が見える。景行以後は「イリ」を含む名は見えない。

 崇神系統の氏族が崇神の「イリ」を引き継いだとも考えることもできるが、「イリ」が「入江」の「イリ」だとすると、子孫が好んで引き継ぐような名誉ある言葉とは思われない。私には古語を読み解く素養はないが、当たるも八卦当たらぬも八卦、古田さんの言素論まねて、「イリ」の意味をひねり出してみた。

 古語辞典を引くと、「イ」は「名詞について神聖なものである意を表す」接頭語と解説している。『俾弥呼』にも次のような一節がある。

『現代のアイヌ語でも……名詞の上につけられた「i」は「神聖であること、タブーであること」をしめして用いられているというのである。』(P.106)

 「リ」は吉野ヶ里の「リ」。古田さんは「一点をしめす言葉である。」(P.128)と解説している。ちょっと拡大解釈をして「拠点」。

 「ヒコ」は言わずと知れた「対海国」と「一大国」の最高官名。「狗奴国」の長官も「ココチヒコ」だった。転じて、一般に「ヒコ」は男子の敬称に使われるようになるが、崇神の場合は最高指揮官という称号と考えたい。

 以上により、「ミマキイリヒコ」は「ミマキ(任那の城)」という「神聖な拠点」を統率する「将軍」という意である。

 なお、騎馬民族征服説や三王朝交代説では、九州から侵入してきて大和を征服した応神が崇神王朝に取って代わったとしている。これらの説は、「景行記」をもって「イリ」が消えるという資料事実を論拠の一つにしているようである。「イリ族」などという用語も使われている。手元に水野祐著『通信講座 日本古代史の謎』がある。ついでなので水野氏の三王朝交代説を調べてみることにする。(次回に続く。)
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この記事へのコメント
再開おめでとうございます。
「イリ」ですが、イリ=西だと考えます。西表島(イリオモテジマ)のイリ、沖縄では今も西をイリと言い、近畿天皇家から見て、倭国=九州王朝が「西=イリ」となります。栄えある九州王朝の系列であることを誇るのがイリヒコ(西彦)名で、氏族or地名+イリヒコという構造なのでは。その中でミマキ・豊は任那、豊の地名、十市、久米は九州に由来する氏族を示すもんかと・・(十市は都市牛利、久米は久米部などの例)
いかがですか?
2012/02/29(水) 21:41 | URL | 愛読者 #KUmnAu4w[ 編集]
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