2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(49)



狗奴国の滅亡(30)
崇神記をめぐって(21)
俾弥呼と崇神の接点(4)


 次いで古田さんはあの筑後国風土記の甕依姫説話を取り上げている。そして次のように「公的ルール」の肉付けをしている。(甕依姫説話については『「邪馬台国」論争は終わっている。(11)』を参照してください。)

 筑前と筑後の間に「狭き坂」があった。その坂に「麁(ソ)の猛(タケル)神」があり、倭国の支配下に入ったあとも、なお戦乱がくりかえされ、人々の「死」が絶えなかった。

 「今」(現在。風土記成立時)の筑紫君や肥君等の祖先に当たる、甕依姫が「祝(ハフリ)」(司祭者)となって、(敵・味方の)霊を祭った。その結果、「敵・味方」とも、これに「心服」して、〝争い″が終結した、というのである。

 古田さんは、敵の靈も祀ったという俾弥呼(甕依姫)の鬼道を示す「真実(リアル)な痕跡」があると言う。吉野ヶ里遺跡である。『「邪馬台国」論争は終わっている。(13)』で『古代史の未来』から引用した文の一部を再録する。

 延々(えんえん)と何キロもつづく外濠(そとぼり)。そそり立っていた、10メートルを越える物見やぐらの痕跡。そしてなによりも甕棺(みかかん)の大群。累々(るいるい)たる屍(しかばね)の海だ。それも激烈な戦闘の存在を証(あか)しする、12本の鏃(やじり)の突きささったままの遺体。見る人をふるえあがらせる首なし遺体の数々。それらが次々とわたしの眼前に立ち現われていた。

 この甕棺に葬られた戦死者たちは敵兵だと、古田さんは考えている。

 筑紫野市(福岡県)から吉野ヶ里(佐賀県)に至る弥生遺跡では、「首の斬られた遺体」が、甕棺の中に入れて〝葬られ″ている。「敵の遺体」を丁寧に〝祭った″のである。

 その上、吉野ヶ里には「一列甕棺」が何層か存在し、その「向き」は、一見〝バラバラ″である。各遺体の「故郷」に向かって、それらの遺体を〝葬った″のであろう。

 いずれも「敵の遺体に対する、深き思いやり」の表現である。

 上の引用文によると「首の斬られた遺体」は吉野ヶ里遺跡以外にもあるようだ。それらの遺体が敵のものであるという論拠が明確に語られていないので疑念が残るが、「相攻伐する」倭国の争乱を治めた俾弥呼の鬼道が敵の靈をも祀るものであったことは確かだろう。

 例えば古代においては、戦場に放置された遺体を敵味方の区別なく弔うといったように、一般の住民が「敵の靈をも祀る」という行為を個人的に行うことは大いにあり得ると思う。しかし、国家が「公的なルール」として「敵の靈をも祀る」ことは、たぶん、古今東西例がないだろう。例えば靖国神社は家族が祀られることを拒否するのにもかかわらず強引に祀るという余計事をしているが、敵を祀るなど金輪際しないだろう。千鳥ケ淵戦没者墓苑でも同じだ。詳しいことは知らないが、多分どの国の戦没者墓地にも敵の靈は祀られていないだろう。しかし国家の「公的ルール」としてではないが、日本には「敵祭」の例があるという。古田さんは次のような例を挙げている。

 弘仁4(813)年6月、最澄の記したところ、とされている「長講金光明経会式」には「桓武天皇ノ御霊等」と並んで、
「東夷毛人ノ神霊等」
「結恨横死ノ古今ノ霊」
に向かって、その冥福が祈られている(古田武彦『親鸞思想』明石書店、260ページ、参照)。

 この「道」は、楠正成にも受け継がれた。赤坂の千早城に、自分の側(南朝)以上に立派な墓碑が、敵(北朝、北条側)側のために建造されている。

 近代に入っても、乃木希典が「敵(ロシア)を祭る」立場に左坦(さたん)(賛成)していること、知る人ぞ知るところである(松本郁子『太田覚眼と日露交流』第-部第五章、ミネルヴァ書房、参照)。

 この「道」は、現代の日本でも、公的に受け継がれている。大下隆司氏が「敵を祀る - 旧真田山陸軍墓地」(『古田史学会報』七六号所収)でも紹介されたように、大阪市の中心、真田山にある旧陸軍墓地においても、この立場が確実に表現されているのである。第一次大戦のドイツ兵や日清戦争における清国兵の墓碑が今も存在している。

 第二次大戦の後に「裁判」の名において敗戦国側の将兵を処刑し、「戦犯」扱いを日本の全国民に対してPRしつづけた連合国とは、〝異なった″立場がここには見事に表現されているのである。

 いずれが、人類の未来を決すべき普遍の「道」なのであろうか。「祝詞」を淵源とし、女王俾弥呼によって宣明された「鬼道」こそ、より普遍的な、地球の未来を正しく指ししめすものなのではないか。日本と世界の思想史の中で、俾弥呼はなお生きている。そしてその未来において、いよいよ大きく生きつづけ、復活するのではあるまいか。わたしはそれを信ずる。

 俾弥呼は永遠の女王である。

 どの例も「公的ルール」によるものではない。「旧真田山陸軍墓地」のケースが「公的ルール」によるもののようにも思えるが、それはあり得ないだろう。始めて知る墓地なのでネットで調べてみた。「大阪市内で戦争と平和を考える」というサイト内に「真田山陸軍墓地」というページに次のように書かれていた。

「これらの墓の中に獨逸(ドイツ)○○軍曹ヘルマン・ゴル、兵卒ルードリヒクラフトの2名のドイツ人名も見える。彼らは大阪衛戍(えいじゅ)病院で死亡している。また清国○○楊永寛など5人の名も見える。
 なお、○○は俘虜と刻まれていたが、戦後セメントが埋められた。これらの墓は他の墓に比べて一段と低い場所になっている。」

 病院でなくなった捕虜の死体を放棄するわけにはいかない。やむを得ずそこに埋葬したという程度のものであり、このような処置はどこの国でも行うのではないだろうか。もちろん、その埋葬に携わった人々は味方の将兵の場合と同様に丁重に葬ったことであろう。しかし「公的ルール」による祭祀と言うにはほど遠い。
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