2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(48)



狗奴国の滅亡(29)
崇神記をめぐって(20)
俾弥呼と崇神の接点(3)


 『俾弥呼』に戻ろう。
 論語には「鬼」あるいは「鬼神」について述べている条文が4件ある。古田さんはそれらの条文を用いて「鬼」の概念を追及するとともに、孔子と俾弥呼の鬼神に対する態度の違いを論じている。初めにその条文を読んでおこう。筑摩書房版・世界古典文学全集『論語』(吉川孝次郎編著)を用いる。(筑摩書房版の読み下し文と古田さんの読み下し文には少し違う点がある。筑摩書房版の方を採用した。また訳文は吉川氏の解説を参考に作成した。)

(一)
子曰わく、其の鬼に非ずしてこれを祭るは、諂(へつら)い也。義を見て為(な)さざるは、勇無き也。(為政第二)

(訳文)
じぶんの先祖の霊魂でもないのに祭るのは、本来祭るべきものではないのだから、卑屈なおべっかである。また、自己の行なうべきことをしりごみして実行しないのは、勇気のない人間である。

(二)
樊遅(はんち)、知を問う。子曰わく、民(たみ)の義を務め、鬼神を敬して之(こ)れを遠ざく。知と謂(い)う可(べ)し。仁(じん)を問う。曰わく、仁なる者は先ず難(なや)んで後に獲(う)。仁と謂う可し。(雍也、第六)

(訳文)
 弟子の樊遅が、知とは何であるかを、孔子にたずねた。孔子はこたえた。「人としての道理を大切にし、人間以上の存在である鬼神に対しては、尊敬はするけれども、距離をおいた存在としてあつかう(「敬遠」する)、これこそ知である。」
 樊遅はさらにたずねた、仁とは何であるか。孔子はこたえた。「仁ある人は安易な成果を求めず、先ず労苦して後に功を得る。これこそが仁である。」

(三)
子曰く、禹は吾れ間然(かんぜん)すること無し。飲食を菲(うす)くして、孝を鬼神に致す。衣服を悪(あ)しくして、美を黻冕(ふつベん)に致す。宮室を卑しくして、力を溝洫(こうきょく)に尽くす。禹は吾れ間然すること無し。」(泰伯第八)

(訳文)
禹に対して私は非のうちどころがない。なぜ非難の余地がないかといえば、日常の食生活はきりつめつつ、しかも鬼神の祀りのお供えは立派にしてまごころを尽くした。日常の衣服はきりつめつつ、お祭りのときの大礼服はたいへん立派なものにした。また、自らの居宅は粗末にしつつ、農業のため灌漑の水路に力をつくした。禹に対して私は非のうちどころがない。

(四)
李路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰く、「未だ人に事うる能わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼に事えんや。」敢(あ)えて死を問う。曰わく、「未まだ生を知らず。焉んぞ死を知らん。」(先進第十一)

(訳文)
 季路が鬼神に仕えることをたずねた。孔子はこたえた。「人間に対する奉仕さえまだ充分にできないのに、どうして鬼神への奉仕が可能であるか。」
 子路は、果敢に今度は死を問うた。孔子はこたえた。「生のことさえもわからない、どうして死後のことがわかろうか。」

 古田さんは(四)について次のように述べている。

 ここでは「鬼神に事える」というテーマが主題になっている。倭人伝で俾弥呼が「鬼道に事える」ことを中心の信条としていたのと、はなはだ「近い」テーマであることが注目せられよう。けれども、孔子は直接にはそのことの意義を「否定」はしていないけれど、「わがことに非ず」という立場をとっている。俾弥呼の主導する道と、孔子の「儒教」とは、おのずから異なった方向へと向かっていたようである。

 しかし(三)によれば、孔子は決して「鬼事」を否定しているわけではない。古田さんは次のように続けている。

 ここでは「鬼神に孝を致す」というフレーズを、禹の〝無上のすばらしさ″の証拠の一つとしている。孔子は、一方では「鬼神に事える」ことに対して「敬遠」しながらも、他方では〝自分以上の″無類の「ありかた」へと擬している。いわば、自分の未だとどきえぬ「理想の境地」と見なしていたのである。

 陳寿は当然、これらの「論語の一節」そして「孔子の言説」を知った上で、倭人伝における、倭国の女王俾弥呼についての、「鬼道に事え」のワン・フレーズを書いている。そのように理解することは、あやまりだろうか。わたしは決してあやまりではない、と思うのである。

 しかも、俾弥呼の場合、「鬼神に事え」ではなく、「鬼道に事え」となっている。俾弥呼が、単に「個人的な好み」として、それを行ったのではなく、一個の公的ルールとして倭国の中に樹立していた。その状況を指す言葉、それが「鬼道」の二文字なのである。

 禹は会稽山で没した、という。その会稽山の「東治」領域の東、そこに俾弥呼の女王国があった。それを陳寿は、「当に会稽東治の東にあるべし。」と表記した。禹の「鬼神に孝を致す」の遺風を、俾弥呼の「鬼道に事える」ための公的ルールの成立している姿の中に「見よう」としたのである。この注目すべき一節をもって、単に「地理的位置」の指定とのみ理解するならば、歴史家たる陳寿の「面目」の根本を見失ったものなのではあるまいか。

 前回、私は俾弥呼は「全ての国の祖霊を祀り和解を図るような儀式を創造」したのではないか、と書いた。これと古田さんが「公的ルール」と言っている事柄とは別ものではないと、私は理解している。「公的ルール」とは吉本幻想論の用語で言えば「共同幻想」にほかならない。吉本隆明著『共同幻想論』の「巫女論」から引用する。

 柳田国男の『妹の力』によれば〈巫〉は日本では原則として女性であったとされている。そして女性は感じやすく、事があると群集のなかで異常心理作用をしめし、不思議を語りえたし、何よりも子供を生み育てるかなめが女性だから、ひとびとの依存心があつまる巫事に適するとされたにちがいないとかかれている。こういう〈想像〉は、すこしかんがえただけではもっともらしくみえる。そして〈想像〉を拒否して巫女の成立をかんがえるとすれば経済社会的な要因をみつけだすほかない。じじつ柳田国男や折口信夫もときに応じてこの方法を採用している。しかし、いずれもメダルのうらおもてのように無意味におもわれる。

 ある共同的な幻想が成り立つには、かならず社会的な共同利害が画定されていなければならない。〈巫〉がすくなくとも共同の幻想にかかわるとすれば、〈巫〉的人間が成立するには、かならず共同利害が想定されるはずである。だから〈巫〉的人間が男性であったか女性であったかということは、たんに〈巫〉を成立させる共同利害の社会的基盤が男性を主体にする局面であるか、女性を主体にする局面であるかのちがいにすぎないのである。このような意味で〈巫女〉をかんがえれば、ただ男巫にたいして女巫であるというにすぎない。〈巫女〉が〈巫女〉であるべき本質はすこしもとらえられないというべきである。

 〈巫女〉とはなにか?

 この問いにたいして、巫覡的な女性を意味するとこたえることはおそらく本質をうがっていない。また巫覡的な能力と行事にたずさわるもののうち、女性をさすといってもこたえにはならない。

 わたしのかんがえでは〈巫女〉は共同幻想を自己の対なる幻想の対象となしうるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女における〈性〉行為の対象は、共同幻想の凝集された象徴物である。〈神〉であっても〈ひと〉であっても、〈狐〉とか〈犬〉のような動物であっても、また〈仏像〉であっても、ただ共同幻想の象徴という位相をもつかぎりは、巫女にとって〈性〉的な対象でありうるのだ。

 俾弥呼が「共同幻想を自己の対なる幻想の対象となし」ていたすれば、「年已に長大なるも、夫婿なく」というあり方も何ら怪しむに足りない。

 では、俾弥呼が措定した「公的ルール=共同幻想」が「相攻伐する」諸国が全て納得し帰服するような権威を持ったのはなぜだろうか。吉本論文の続きを読んでみよう。
 フロイトは晩年の円熟した時期の講話(『続精神分析入門』)のなかで〈女性〉を簡潔な言葉で規定してみせた。かれによれば〈女性〉というのは、乳幼児期における最初の〈性〉的な拘束が〈同性〉(母親)であったものをさしている。そのほかの特質は男性にたいしてすべて相対的なものにすぎない。身体的にはもちろん、心性としても男女の差別はすべで相対的だが、ただ生誕の最初の拘束対象が〈同性〉であったことだけが〈女性〉にとって本質的な意味をもつ、というのがフロイトの見解であった。この見解は興味ぶかく、また暗示的である。フロイトにならっていえば、最初の〈性〉的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向はすくなくとも〈性〉的な拘束からの逃亡ではありえない。母性にたいする回帰という心性はありうるとしでも、男性はけっしてじぶんの〈男性〉を逃れるために女性に向うことはありえないだろう。 〈女性〉が最初の〈性〉的な拘束から逃れようとするとき、もし男性以外のものを対象として措定するとすれば、その志向対象はどのような水準と位相になければならないだろうか?  このばあい〈他者〉はまず対象から排除される。〈他者〉というのは〈性〉的な対象としては男性である他の個体か、女性である他の個体のほかにありえない。するとこのような排除のあとでなお残される対象は、自己幻想であるか、共同幻想であるほかはないはずである。ここまできてわたしなりに〈女性〉を定義すればつぎのようになる。あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして〈女性〉の本質とよぶ、と。そしてほんとうは〈性〉的対象として自己幻想をえらぶ特質と共同幻想をえらぶ特質とは別のことを意味してはいない。なぜならば、このふたつは女性にとってじぶんの〈生誕〉そのものをえらぶか〈生誕〉の根拠としての母なるじぶん〈母胎〉をえらぶことにほかならないからである。

 たんに男〈巫〉にたいして女〈巫〉というとき、この巫女には共同性の権威は存在していない。しかし自己幻想と共同幻想がべつのものになっていない本質的な巫女は共同性にとって宗教的な権威をもっている。そして人間〈史〉のある段階ではその権威が普遍的な時代があったとかんがえることができる。

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 コメント
この記事へのコメント
大和民族大移動(くどくどですが添削してください)
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒であったとき、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人物だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとか、その泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟がいて、その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟ではお墓が無く、ばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだことにしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説ですよね。
太古から日本を統治していた事にしたい。でも、本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物をたくさん創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために、書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在の人物が新旧混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の起源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
  (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
   例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしていること
   及び  稲荷山古墳の鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山の鉄剣を正確に読みました。
③地名人名の起源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 
韓(カラ)    ⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)  ⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ) ⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ)  ⇒菅谷(すがや)・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原(かしはら)・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉(くずは)・太秦(うずまさ)・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年かかりました。
通説の古墳の年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も 5世紀初頭と無意識で、そう思っていました。
さらに、百済皇子余昆が 書紀に昆支と書いてあることを忘れていました。

その昆支が 倭の5王の武であり、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が 継体であり、仁徳でもあり、仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵大王は欽明であり、継体の子ではなく、昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明であり蘇我馬子であり聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説を よくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も おかしなトンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則を根拠に 『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を 熱心に 語っている文章の迫力には 心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語っている人は誰もいない。
の文章を読んだとき、この理論の他説を圧倒する偉大さに気づきました。
通説の古墳の年代を無意識に受け入れていた私が、トンでいたのです。

なんと、小学校6年の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山古墳の鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
その辛亥年=471年としていた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままなのでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述である大泊瀬幼武の実在は真実としてスタートしていたのです。

結果的に、通説での全国の古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代のスタートはAD350年からなのです。
これは、寒かった弥生後期5期が260年から340年まででも裏付けされます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が、石渡説の基本で、他説との相違点です。最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?それは『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠がない獲加多支鹵の獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係の第一人者、斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の大阪の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳の履が百済武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論では この531年説から須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例としては『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしていることでしょう。
そして全国の主要古墳の年代を 通説より 基本的に60年新しく求めます。
さらに 古鏡や古刀の金石文と 中国の文献で実存が確実な人物の中から
その生存&死亡時期と照らして、それぞれの古墳披葬者を選び出します。
これで 書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が出来上がります。

古墳------年代---被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭国王武・余昆(宋書)・日十大王(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)--645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)--645年頃

で、ここから初めて この年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツ は典型例でしょう
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-獲加多支鹵-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&蘇我馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は うるわしの土地を求めて 大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、そして460年頃からは百済を通って。
もちろん1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇なりです。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いたくなりますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な日本列島こそ『うるわしの土地』だったのです。
新羅を置きざりにして、自ら大和民族大移動して来ていたのですよね。
さあ、もう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の書いた財布が
見つかりました。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
酒好きじいさんは お酒を飲んで お酒を買いに行き 転んじゃったのです。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻は いなかった。雄略大王も いなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は 古墳年代を正しく求めて スタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は 架空雄略大王の実在からスタートし 迷走中です。

石渡信一郎が 真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物を ふたり さんにん・・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王を ひとり ふたり・・・・30人 31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・そして神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』という叫びを痛いほど理解されていることです。

見事な万世一系の筋書とは かけ離れ飛んでいた真実があるのだから
書紀は 真実を書けば書くほどでたらめになる 自己矛盾を持っている。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石綿説がトンでるのではありません。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』を眠らせている。
これを見抜き、信じているから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は 近いうち 以上をまえがきに 『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を 東大か京大の古代史の教授に推挙するために。。。そして、
その副題は 『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』。 


たつさん ほんとうにクドクテすみません。
でも 懸命に書きました。
お願いします。
ぜひ 添削してみてください。 
   むらかみからむ
2012/01/22(日) 15:47 | URL | むらかみからむ #-[ 編集]
倭人伝の俾弥呼が鬼道に事え云々、ずっとひっかかってました
でも鬼の意味が死人のたましい(魂)だと考えるとすっきりしました

考えてみれば、現在の鬼のイメージは仏教の影響だそうですし、死んだら仏になるってのも仏教ありきの話ですものね

イザナギが黄泉の国で見た鬼も死者の魂だったのでしょうね
そして黄泉の国の食べ物を口にしてしまったイザナミは“鬼籍に入った”と言えるのかな?
2012/01/24(火) 20:28 | URL | #-[ 編集]
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