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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(47)



狗奴国の滅亡(28)
崇神記をめぐって(19)
俾弥呼と崇神の接点(2)


(2月10日、大幅に追記・書き換えをしました。)

 かつて問題①『「鬼道」とは何か。』を本格的に論じた人はいるのだろうか。ウィキペディアには次のように書かれている。

「この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。」

 「中国の史書には……」と書いているが、このように出典を明らかにしていない言説は取るに足らない。自ら調べることにした。

 日本では鬼と言えば、ツノがあり腰には虎の皮の褌を巻いた裸の化け物、というのが相場だが、このような鬼は日本だけのものらしい。諸橋大漢和辞典では〔邦〕と分類されている。その辞典によると「鬼」には10通りもの意味がある。そのうちの「おに」の項は次のようになっている。
おに
(イ)
 死人のたましひ。人が死ねば心思をつかさどる魂は天にのぼってとなり、形體は地に歸り、形體の主宰である魄は鬼となる。

(ロ)
 ひとがみ。人鬼。祭られた死人の幽魂。天神地祇の對。
(ハ)
 ひとがみの中、特に定められた位を安置する場所のないもの。新死者が出来るごとに先組の位を、其の安置してあった處から一代だけ上の安置する場所にくり上げて、安置する場所のなくなったものを鬼とする。鬼にくり入れる世代は身分によって異なる。天子は九代、諸侯は七代、大夫は五代、上士は三代、中士は二代以前のものが鬼となり、下士・庶人は父から直ちに鬼とよぶ。
(ニ)
 冥冥の中にあって不可思議の力ありと信せられる人格。一に聖人の精気を、賢人の精気を鬼といふ。
(ホ)
 人を賊害する陰気、又は現體。もののけ。ばけもの。
(ヘ)
 姿が見えなくて禍難を齋らすものと信せられる人格。

 俾弥呼の「鬼道」の「鬼」は(イ)(ロ)(ハ)で説明されている亡くなった人の魂という意と思われる。熟語の部で「鬼道」を見ると次のように説明されている。

【鬼道】キドウ
①鬼神のみち。人道に對していふ。又、祭壇に於ける鬼の通路。
②あやしい術。魔法。妖術。
③[佛]夜叉・羅刹・餓鬼等の趣く境土。六道の一。鬼趣。

 ③は仏教用語だから除外する。

 ②の出典として次の二例が挙げられている。(1)
〔後漢書、劉焉傳〕
沛人張魯、母有姿色、乗挟鬼道
(2)〔魏志、張魯傳〕
魯遂據漢中、以鬼道教民、自號師君

 (1)を含む文節は次のようである(吉川忠夫訓注の岩波書店版『後漢書』を用いた。)

沛の人張魯(ちょうろ)、母は姿色有って、兼ねて鬼道を挟(たばさ)み、焉の家に往来す。遂に魯を任じて以て督義司馬と為し、別部司馬張脩(ちょうしゅう)と与(とも)に兵を将(ひき)いて漢中太守蘇固(そこ)を掩殺(えんさつ)せしめ、斜谷(やこく)を断絶し、使者を殺す。魯既に漢中を得るや、遂に復た張脩を殺して其の衆を幷(あわ)す。

 注には「シャーマニズム」とあった。〔魏志、張魯傳〕の方は手元にある筑摩書房版「世界古典文学全集」から引く(現代語訳です)。

張魯(ちようろ)は字(あざな)を公祺(こうき)といい、沛(はい)国豊県の人である。祖父の張陵(りよう)は、蜀に身を寄せ、鵠鳴(こくめい)山の山中で道術を学び、道術の書物を著わして人民をまどわした。彼のもとで道術を学ぶ者は五斗の米をお礼に出した。そのために、世間では米賊と呼んだ。張陵が死ぬと、息子の張衡(こう)がその道術を行なった。張衝が死ぬと、張魯がまたこれを行なった。益州の牧劉焉(りゆうえん)は張魯を督義(とくぎ)司馬に任命し、別部司馬の張脩(しゆう)とともに、軍隊をひきいて漢中太守の蘇固(そこ)を攻撃させた。張魯はけっきよく張脩を襲撃して殺害し、その軍勢を奪い取った。劉焉が死に、子の劉璋(しよう)が代わって立つと、張魯が服従しないという理由で、張魯の母と家族を皆殺しにした。張魯はそのまま漢中を占領し、妖術によって住民を導き、みずから「師君(しくん)」と号した。

 前者では母の妖術によって張魯が出世した話になっているのに対して、後者では張魯自身が妖術使いになっている。また後者では、その妖術の淵源は祖父の「道術」であると言っている。ウィキペディアが「黎明期の中国道教のこと」と書いているのはこれが出典のようだ。これらは「鬼」の意味の(ニ)に当たる。私的な現世利益を目的とした妖術であり、俾弥呼の鬼道とは相容れない。

 ①の出典としては次の三つが挙げられている。
1'
〔国語、魯語上〕
犯鬼道二、犯人道二。
2'
〔史記、封禪書〕
為壇開八通之鬼道。
3'
〔説苑、正諫〕
若以鬼道諫我、我則殺之。

 2'は「壇をつくって八方に鬼神の道を開く」という意であり、原文からもそれ以上の意味は組み取れないのでこれ以上は立ち入らない。1’は次のよう文節に現れている。(3'は図書館にも蔵書が無いので省略する。)

1'
夏父弗忌は必ず殃(わざはい)有らん。夫れ宗有司の言は順なり。僖又未だ明(めい)有(あ)らず。順を犯すは不祥(ふしやう)なり、逆を以て民(たみ)に訓(をし)ふるも亦不なり、の班を易(か)ふるも亦不祥なり、明かならずして之を躋(のぼ)すも亦不祥なり。鬼道を犯すこと二つ、人道を犯すこと二つ、能(よ)く殃(わざはひ)無からんや、と。

 夏父弗忌が祭祀をつかさどる宗伯という役職に就いて先君僖公を祀った。そのときにこれまでのしきたり廟制(祭神の順序)を無視して祀った。宗伯の役人がそれを諫めたが聞き入れなかった。このことを知った展禽という人が批評した言葉が上の引用文である。ここでは鬼道と人道が対句になっている。「鬼神のみち。人道に對していふ」という鬼道の意味の出典である。つまり「鬼道」とは「鬼神のみち」であると言う。では「鬼神」とは何か。

【鬼】キシン

 死人の靈魂。祖先の靈。日知録、巻六に見ゆ。

 明叡知な神靈。

 形體の靈と精神の靈。魂魄。

おにがみ。あらぶる。あらがみ。冥冥のに人に害を及ぼす怪異な存在。

 天地創造の。造化玄妙の理。

 俾弥呼の「鬼」とは①の意と思われる。『春秋左氏伝』の「桓公六年」条に俾弥呼が行ったであろう鬼道の意味するところを彷彿させる説話がる。少し長いが引用しよう。(筑摩書房版「世界古典文学全集13」から。読みやすいように段落を設けた。)

 楚の武王が随(ずい)(侯爵、姫姓の国)を侵(おか)し、楚の大夫、〔艹/遠〕章(いしよう)をつかわして和平を申し込ませ、瑕(か 随地)に陣を張って相手の使者を待った。随の人が大夫の少師をやって和平実現の成否を見さだめさせた。

 楚の大夫、闘伯比(とうはくし)が楚子(そし 楚の君、子は子爵)にいうには、
「わが楚国が漢東(漢水の東)の国々を思うように支配し得ないのは、こちらのやり方が然らしめたのです。こちらが三軍を弓矢甲冑にて武装し進軍せしめると、向うは恐れて諸国がいい合わせて楚を牽制しようと謀るのです。だから諸国を分裂させ難いのです。漢東の国では随がいちばん大きい。随が諸国に権勢を張るようにしむければ、随は他の小国を見すてるでしょう。小国が離れれば、それは楚の利益であります。みたところ、少師はおごった風の男ですから、こちらの軍をヘらしで彼をおごらせるようにしてはいかがでしょうか。」
 楚の大夫、熊率且比(ゆうりつしょひ)が
「季梁(きりよう)というきけ者がいる。そんなたくらみをしたとて何の益がありましょうか」というと、闘伯比が
「それはあとの謀りごとということになります。さしずめ少師は大夫の筆頭でもあり、随の君のお気に入りです」
と言った。

 そこで武王は、わざとその軍を弱めて少師を陣中に通した。少師はその軍勢を見、帰国して、楚の軍は弱そうだから追いつめて伐ちましよう、と進言した。季梁がこれを止(とど)めていうには、
「天命はどうやら楚に傾いているようです。楚の軍が弱いと見えたは、我れをあざむく謀りごととおぼえます。わが君には何ゆえ事を急がれますか。むかしからこういいます。『小にして大に敵し得るのは、小国に道がよく行なわれ、大国が乱れているからである』と。いわゆる道とは民に対して忠(まこと)、神に対して信(偽わらぬ)なるをいいます。上(かみ 政府)が民に有利にしてやろうと思うのは忠です。祝史(しゆくし 神を祭る役人)が辞(ことば)を正しくするのは信です。いま随国では民は飢えているのに君は我慾をたくましくされる。祝史は祭においていつわりごとを神に告げています。こんな有様で楚を伐つのは、よいことだとは申し上げかねます。」

 〔随〕公がいうに
「わしが神に供える牡(いけにえ)はよく肥えて毛並みもよい。わしの供える穀物はまことにゆたかである。どうして神に対して信でないのか。」
 季梁
「民は神の主(こころ 注1を参照)であります。このゆえに、聖主はまず民をよく治めて、しかるのちに力を神に致すものです。ゆえに牲(いけにえ)を供えては『民の力がゆきわたり、家畜はよく肥えましたから』と神に告げるのですが、これは民の力があまねく、畜類が大いに繁殖して皮にも毛にも疵(きず)も病(やまい)もないことをいうのです。また穀類を供えて『清潔な穀類がいっぱいできましたから』と神に告げるのは、農耕の三時(春夏秋)に災害がなく、民は和し、みのりは豊かであることをいうのです。よき酒を供えては『よき、きよき酒でございます』と告げるのは、上下ともども嘉(よ)き徳があって、逆らう心がないのをいうのです。いわゆる『君の香(かんば)しきかおりありて、邪心のかくるるなき』をいうのです。このゆえに、民は農の三時を精出して働き、五教(注2)を修め、その九族(注3)に親しみ、その鬼神(祖霊など)をよく祀(まつ)ります。ここにおいて万民よく和し、神はこれに福を降します。従って、することなすことみな成就します。ところがわが国においては、いま民はおもいおもいの心をいだき、鬼神もどの民を助けてよいか分らない有様です。わが君だけがゆたかであっても、何の幸がありましようか。わが君においては戦争などはおいて、しばらく政務につとめ、兄弟の国(漢東の諸国)に親しむようになされば、今日の難は免れられるでしょう。

 隋侯はおそれて政(まつりごと)を修めたので、楚はあえてこれを伐とうとはしなかった。

(注記)
(1)神の主(こころ)
 「神の主(こころ)」の主は施主の意。民があって祭れば神威は増すが、民がなくては神威も発揮されないとの意。
(2)五教
 父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝。以上を五教という。
(3)九族
 外祖父・外祖母・従母の子・妻の父・妻の母・姑(おば)の子・姉妹の子・女子の子をいう。母方の姻戚。

 「倭國乱れ、相攻伐すること歴年」という争乱を治め、民を安んじたのは卑弥呼の鬼道であった。『「邪馬台国」論争は終わっている。(11)』で取り上げた『筑後国風土記』の次の一節を再録しておこう。

昔、此の堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いたく)く多(さは)なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に筑紫君・肥君等占ふ。今の筑紫君等が祖、甕依姫、祝と為りて祭る。爾(それ)より以降(このかた)、路行く人、神に害(そこな)はれず。是(ここ)を以(も)ちて、筑紫の神と曰ふ。

 もちろん俾弥呼の鬼道は漢籍が描く祭事そのものではないだろう。「相攻伐する」諸国が全て納得し帰服するような独自の儀式、たぶん全ての国の祖霊を祀り和解を図るような儀式を創造したのであろう。
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