2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(46)



狗奴国の滅亡(27)
崇神記をめぐって(18)
俾弥呼と崇神の接点(1)


 崇神軍にタケハニヤスを討ち取られた狗奴国軍は摂津に敗走した。かくしてヤマト王権は崇神時代に河内一帯を手中に収めたが、摂津に追い込んだ銅鐸圏勢力(狗奴国)を壊滅し畿内全域とその周辺部を支配下に置くには垂仁時代を待たねばならなかった。ヤマト王権対銅鐸圏勢力の最後の決戦が「沙本城の戦い」である。そのあらましは
「沙本城の戦い(1)」
「沙本城の戦い(2)」
「沙本城の戦い(3)」
で紹介済みなので繰り返さない。

 さて、「崇神の活動時代(1)」で、崇神の活動時期を3世紀後半~4世紀初期とした。その論拠として
『箸墓古墳の周壕築造直後の土器を「放射性炭素年代測定法」によって測定した結果、240~260年代と推定された。』
という調査結果(2009年5月31日に日本考古学協会総会で発表)を挙げておいた。箸墓古墳の場合だけではない。炭素14年代測定法・年輪年代法などの理化学的年代法によるさまざまな考古学的遺跡・遺物の測定結果が、古墳時代の開始を3世紀中頃とする説を支持している。「井の中」でもこの説を無視できなくなってきているという。まともな理性を持つ学者なら当然の帰趨だ。

 崇神の活動が三世紀中頃から始まったのなら、崇神は当然俾弥呼を知っていたはずである。このことを古田さんは『俾弥呼』第10章4「俾弥呼と孔子の断絶」で取り上げている。『俾弥呼』には「鬼道に事え、見る有る者少なし」という副題が付けられているが、古田さんはこの「鬼道」を崇神と俾弥呼の接点と考えている。この題材は私にとってまだ未消化な点が多々あるが、今まで通り、学習しながら考えていこう。

 まず魏志倭人伝の俾弥呼についての記述を改めて確認しておこう。

その國、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、嚴かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

 この俾弥呼についての素描文を読んだ人はどのような人物像を描くだろうか。常識的な語句理解からすれば、
「人心を惑わす幻術あるいは妖術を巧みに使いこなすかなり年を取った独身の女性。まるで未来を予見するあのマクベスの魔女のようだ。」
といったところだろうか。倭人伝を始めて読んだ時、わたくしはこのように受け取っていたと思う。この理解の仕方はいかにも皮相に過ぎよう。問題点は二つある。
①「鬼道」とは何か。
②「年已に長大」とはどういう意味か。


 ②については『ここに古代王朝ありき』にズバリ「卑弥呼の年齢」という項目がある。古田さんは次のように結論している。

景初2(238)年直前の即位時期には35歳前後。だから10年後の正始年間(240~48)に死んだとすれば、45歳前後で永遠の眠りについたこととなろう。

 これは決して単なる推測による判断ではない。古田さんはこの判断を『三国志』での用語例を調べることによって得ている。

丕(曹丕)の、業を継ぐに逮(およ)ぶや、年已に長大。(呉志七・諸葛瑾伝)

 「丕」とは、曹操の子、曹丕だ。魏の第一代の天子、文帝である。その文帝紀(魏志二)によると、彼の即位は延康元(220)年、34歳(黄初7〈226〉年に40歳で死)。

 「業を継ぐ」とは、漢から禅譲をうけて、魏を創建した、延康元年の即位時点を指した言葉だ。したがってこの「年已に長大」は、34歳頃を指して用いられている(5世紀の裴松之も、『三国志』の孫奮伝〈呉志十〉の「30・40」に対応させて、この「已に長大」の語を用いている)。

 他にも、「後主(劉禅)漸く長大」(蜀志九董允伝)の表記が20代後半を指して用いられているから、陳寿の用法として、この「長大」の語の使用方法は明確かつ安定している(古田「九州王朝の方法」『東アジアの古代文化』1978爽秋号、参照)。

 したがって陳寿が倭人伝で「年已に長大」と書いたとき、当時の『三国志』の読者は、“三十代なかばの女性”として、東方なる女王国の王者のイメージを思い浮かべたこと、それは確実だ。“鬼気せまる、白髪の女妖術者”、そのようなイメージを誰人かあって、もし卑弥呼に対して抱いていたとしたら、それはひっきょう、一片の錯覚、現代の虚像にすぎなかったのである。

 この年齢だとすると、イメージはがらっと変わる。たぶん俾弥呼は才媛兼備の堂々たる女王だったことだろう。「衆を惑わす」という表現があるが、この「惑わす」は「たぶらかす」というよな意味合いではなく、むしろ「人心を掌握していた」という意味だろう。これに対して壱与は13歳(二倍年なので6・7歳)の時に女王に擁立されているから、倭国統合の象徴的な存在だったろう。ただし、俾弥呼の血族として正当性が認められての擁立だから政治的な権威は備えていたと思う。

 この俾弥呼の年齢の推定から、古田さんは、「見る有る少なし」にもかかわらず、「魏使は俾弥呼に会っていた」という命題を引き出している。ただし、ここでの魏使とは倭人伝の原資料を記録した魏使である。正始元年(240)の魏使・梯儁(ていしゅん)は詔書・印綬ををたずさえての来国だから俾弥呼と会っていたのは当然のことだ。

 もし、これが実際には会わず、〝倭人からの聞き書き″だったとしたら、倭人は卑弥呼の年齢をいくつだと言っただろう。それは〝七十歳″だと言ったはずなのだ。なぜならわたしの 『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社刊、第六章Ⅲ)でのべたように、当時倭人は「二倍年暦」に従っていた。つまり〝一年に二回としをとる″数え方である。したがって〝三十五歳″は、その二倍の形で表現されたはずだ。とすると(陳寿には、この「二倍年暦」という概念が欠如していたから)、卑弥呼のことを「年巳に長大」でなく、「年漸く老ゆ」とか、「年巳に寿考」といった形で表現したはずなのである。しかるに史料事実はそうなっていない。「年己に長大」だ。ということは、魏使が実際に卑弥呼に会い、実際にその「衆を妖惑する」顔を見、そしてこの表現をした、そう考えるほかないのである。

 すなわち〝魏使は倭都(邪馬一国)に至り、卑弥呼に会っている″。卑弥呼の年齢表現をしめす史料は、この事実をまざれもなく証言していたのである。

 「倭人伝は伝聞による記録であり、全てを信用することは出来ない」と言い、勝手な原文改定をする論者が後を絶たない。そのような論者にダメを押す意味で、古田さんのこの発見は重要である。
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