2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(45)



狗奴国の滅亡(26)
崇神記をめぐって(17)
崇神の狗奴国攻め(7)


③「三方か、四方か」問題。

 『古事記』は大体においてはヤマト王権内の伝承に依拠して記録された史書である。これに対して『日本書紀』は「日本旧記」(九州王朝の史書)や百済系三史料(「百済記」「百済新撰」「百済本記」)などを利用して大幅な「削偽定実」を施して編纂されたご都合史書である。従って『古事記』と『日本書紀』の記事に大きな食い違いがある場合は『古事記』の方の記事を採用するべきだ。もちろんこれは一般論であって、個々には慎重な検討を加えなければならない。

 「三方か、四方か」問題ではどうだろうか。この場合はそう難しく考える必要はないだろう。本来「四方」だったのを『古事記』(712年成立)が「一方」(「吉備津彦をもて西道に遣す」)を書き漏らした、あるいは故意にカットした、とは考えがたい。『日本書紀』(720年成立)の方がそれを加筆したのだ。  ではどうしてそのような加筆を行ったのだろうか。気まぐれに付加したわけではないだろう。なんらかの思惑があったはずだ。このような問題の解は推測するほかない。私は次のように推測してみた。

 『日本書紀』の編纂者にとってはヤマト王権の征服地図は「四方(よも)の国」でなければならない。「三方」では不完全だ。是非「四方」としたい。「吉備津彦をもて西道に遣す」を加筆して「四方」とした。もちろんこの「西道」の到達点としては筑紫を念頭に置いている。筑紫は崇神時代にヤマト王権の支配下に入ったと主張したいのだ。全くの虚構である。しかし、「吉備津彦をもて西道に遣す」には、『日本書紀』の編纂者の思惑とは別の事実があって、それなりの根拠があったと考えられる。

 任那で優良な鉄製武器を整え、十分に訓練された将兵を引き連れて、崇神は大和に凱旋した。直ちに狗奴国侵略の軍議を開いた。それには吉備津彦も参加していた。

 吉備国は銅鉾圏と銅鐸圏の境界地点に位置するが、神武が東侵時に立ち寄り8年間も滞在した国だ。明らかにヤマト王権とは親和的な親魏倭国の一つである。崇神の狗奴国攻めにとって強力な味方であった。大和で軍議に参加していた吉備津彦は加勢の軍備を整えるため自国・吉備に帰った。あるいは銅鐸圏の西端の国(播磨・摂津)への牽制も兼ねていたかもしれない。つまり「西道」の到達点は吉備国である。これは侵略のための派遣ではないから『古事記』では「三方」だけの記録となった。この吉備津彦の帰国を書き加えると「崇神遠征図」は下のようになる。(ヘタクソな書き込みで、ちょっと情けない。)



崇神の四方派遣

 この「三方か、四方か」問題を古田さんはどのように解釈しているだろうか。読んでみよう

 「三方か、四方か。」最初にのべた、この疑問に、今は容易に〝答える″ことができる。当然「三方」が原型だ。残る「一方」の〝西への道″は、逆だった。

 「任那から大和へ」というルートの、重要な中継地、それこそ吉備だった。吉備津彦の領域、その「津(港湾)」の権力者と〝協力″して、「大和への侵入」が可能となったのである。

 それはかつて「神武の辿ったル一ト」だった。「神武」の場合、鳴門海峡を通って当時の「河内湾」の奥深く、楯津(たてつ)に至ったこと、古事記の神武記は明記していた。その退路の「南方(みなみかた)」は、文字通り、「南潟」として、地名が現存している。と同時に、それは「河内湾」と「大阪湾」とを結ぶ、「水路」の結節点に当たっていた。古事記の成立した8世紀にはすでに、このルートはなかった。

 しかし、弥生の地形図は右の「神武の侵入と退路」が、弥生時代においては「真実(リアル)」だったことを証言していたのである(「神武東侵」問題については、『盗まれた神話』第8~11章、参照)〈管理人注 『「神武東侵」:日下の戦いで惨敗する。』を参照してください。その記事から「弥生の地形図」を下に転載しておきます。〉。

大阪古代地図

 一度あることは二度ある、とのたとえ通り、崇神天皇もまた、同じく吉備の「港」の支配者の〝協力″をえて、「大和への侵入」を図った。ただし、今回はおそらく明石海峡側を東行し、「大阪」の地に至ったと思われる。通例、この「大阪の神」(管理人注:「神々の祭祀」《第三段》に出てきた「墨色の楯矛を祭」られた神)は大和国葛下郡に当てられているけれど、「河内の大阪」の可能性もあろう。ともあれ、「河内から大和へ」の各要害の地に、「新たな、支配軍の軍事的シンボル」としての「矛」と「楯」が表示され、民衆と「従来の支配者層」に対して新時代の到来を誇示したように見える。

 『残る「一方」の〝西への道″は、逆だった』と述べていることから、古田さんは「任那→吉備→大阪→大和」という「東方」への経路を『日本書紀』編纂者が「大和→吉備」と逆転して、「西方」への経路に造作したと考えているようだ。そういう解釈もあり得ると思う。

 しかし、受け入れ難いことがある。「大和への侵入」という文言を二度使っている。文字通りに解釈すれば、次のように考えるほかない。

 古田さんは崇神は大和に帰ってきたのではなく、もともとは大和には拠点はなく、本国(九州王朝)の認可を得て新たに大和に侵略してきた勢力だと考えているようだ。もしそうだとすると、古田さんは騎馬民族説を否定しているが、任那を拠点としてた崇神が「大和への侵略」を行ったと、形としては騎馬民族説と同じことを言っているわけだ。私には受け入れ難い説だが、この説をはっきりと明言している文章はない。私が読み落としているのだろうか。私自身への宿題としておこう。

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