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《続・「真説古代史」拾遺篇》(44)



狗奴国の滅亡(25)
崇神記をめぐって(16)
崇神の狗奴国攻め(6)


②崇神は任那から出陣する。


 崇神の「軍事的行動の起点」が任那であったこと示唆する説話がある。その説話を取り上げる前にまずは崇神軍出撃の説話が『古事記』と『日本書紀』ではどう違うのかを見ておこう。

『古事記』
 大毘古命をば高志(こし)道に遣はし、その子建沼河別命をば、東の方十二道に遣はしてまつろはぬ人等を和平(やは)さしめき。又日子坐(ひこます)王をば、旦波国に遣わして、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめき。

『日本書紀』
 十年の秋七月の丙戌の朔已酉に、群卿に詔して曰はく、「民を導く本は、教化(をしえおもぶ)くるに在り。今、既に祇を禮(ゐやま)ひて、災害皆耗きぬ。然れども遠荒(てょきくに)の人等、猶(なほ)正朔(のり)を受けず。是未だ王化(きみのおもぶけ)に習はざればか。其れ群卿を選びて、四方に遣して、朕(わ)が憲(のり)を知らしめよ」とのたまふ。
 九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。「若し教(のり)を受けざる者あらば、乃ち兵を舉げて伐(う)て」とのたまふ。既にして共に印綬を授(たま)ひて將軍とす。


 両記事の大きな違いは二つある。一つは『古事記』の「三方」遠征に対して『日本書紀』は「吉備津彦をもて西道に遣す」を追加して「四方」遠征としている。

 もう一つは、『古事記』が「玖賀耳之御笠を殺さしめき」と侵略戦を隠そうとしていないが、『日本書紀』は、侵略には違いはないが、一応祇の教化という建前を前面に出している。「若し教(のり)を受けざる者あらば……伐て」とその教化に従わなければ武力使用も止むを得ず、という大義名分の設定である。

 ここで新たに派生してきた問題、この「祇の教化」を取り上げておこう。「祇の教化」を語っている説話が「崇記」冒頭にある。一般には「神々の祭祀」と呼ばれている。その説話は三段に分けることが出来るが、初めの二段についての分析が『日本列島の大王たち』にある。それはすでに『銅鐸圏(東鯷国)の神話(1)』で紹介しているが再度掲載しておこう。

《第一段》
此の天皇の御世(みよ)に、[亻殳]病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(たみ)死にて盡(つ)きむと爲(し)き。爾に天皇愁(うれ)ひ歎(なげ)きたまひて、牀(かむどこ)に坐(ま)しし夜、大物主大(おほものぬしの)、御夢(みいめ)に顕(あらは)れて曰(の)りたまひしく、「是(こ)は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以ちて、我が御前(みまヘ)を祭らしめたまはば、の気(け)起らず、國安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。是(ここ)を以ちて驛使(はゆまつかひ)を四方に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努村に其の人を見得(みえ)で貢進(たてまつ)りき。爾に天皇、「汝(な)は誰(た)が子ぞ。」と間ひ賜へば、答へて曰(まを)ししく、「僕(あ)は大物主(の)大、陶津耳(すゑつみみの)命の女、活玉依毘賣(いくたまよりびめ)を娶して生める子、名は櫛御方(くしみかたの)命の子、飯肩巣見(いひかたすみの)命の子、建甕槌(たけみかづちの)命の子、僕(あれ)意富多多泥古ぞ。」と白しき。是に天皇大(いた)く歓(よろこ)びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民(たみ)栄えなむ。」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以ちて主(かむぬし)と爲(し)て、御諸(みもろ)山に意富美和(おほみわ)の大の前を拝(いつ)き祭りたまひき。

〈古田さんによる分析〉
(一)
 崇神以前から、大物主大神を祭ることは禁止されていた。
(二)
祭神のとき、流行病が蔓延し、人民が死につづけていった。
(三)
 人民の中には「なぜ、何のたたりで、こんな災難がつづくのか」という疑いがおこった。
(四)
 そして「わたしたちは、久しく大物主大神を祭ることが、禁ぜられている。そのためではないか」という声が生じてきた。
(五)
 これに対して崇神側は、流行病という災害に加えて、人民の怨嗟の声を恐れ、夢枕の件を「大義名分」(トリック)として、大物主大神祭祀を解禁しようとした。
(六)
けれども、そのさいすでに大和盆地の中には、この祭祀を知る者はいなかった。なぜなら、神武が大和盆地に侵入したさい、在地の信仰(大物主大神などへの祭祀)を禁圧し、神主たちを殺し尺くし、追放し尽くしていたからである。
 故、此の如く、荒ぶる神等を言向け平和(やは)し、伏(まつろ)はぬ人等を退け撥(はら)ひ、畝火の白檮原官に坐して、天の下を治(し)らしさ。 (神武記)
とある通りである。

(七)したがって崇神側は、あらかじめ、新征服地の河内に、その該当者(意富多多泥古)を見出した上で、例の夢枕の件を発表したものと思われる(政治的トリック)。

《第二段》
又伊迦賀色許男(いかがしこを)命に仰(おふ)せて、天(あめ)の八十毘羅訶(やそぴらか)を作り、天地祇の社を定め奉りたまひき。

〈古田さんによる分析〉
(八)
 そして一方で彼をして大物主大神を祭らしめ、他方で自分の配下(伊迦賀色許男命)に自己側の天国風の祭式土器で、祭礼を行わしめたというのである。

 伊迦賀色許男命はここに一回だけ登場する人物である。崇神の母(開化の庶母)の名は伊迦賀色許賣命であるから、伊迦賀色許男命は崇神の義父あるいは義兄弟にあたると考えられる。なお、この《第二段》は『俾弥呼』でより詳しく論じられている。後ほど取り上げる。

《第三段》
又宇陀の墨坂に赤色の楯矛(たてほこ)を祭り、又大坂に墨色の楯矛を祭り、又坂の御尾の及(また)河の瀬のに、悉に遺(のこ)し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りたまひき。此れに因(よ)りて[亻殳](えやみ)の気(け)悉に息(や)みて、國家(あめのした)安らかに平らぎき。

 この第三段の分析は『日本列島の大王たち』では取り上げられていない。『俾弥呼』でその分析が行われている。その〈古田さんによる分析〉は次のような序文で始まっている。御真津(みまつ)・御真木(みまき)の「みわ」は「任那」の「みわ」であり、御真津・御真木は地名に根ざした人名である、と論じた後に続く文章である。

 さらに、念を押してみよう。
 この「御真津」も「御真木」も、共に「大和(奈良県)」の中の「地名」ではないか、という「疑い」だ。一個の「地名」は必ず、他にも「複数」または「多数」ありうるのである。とすれば、右の疑いも、当然可能性があろう。
 この疑いに答えるのは、次の一文だ。

 「次の一文」とはうえに掲載した「神々の祭祀《第三段》のことである。

 右では「楯」と「矛」が〝祭祀のシンボル″とされている。「銅鐸」ではなく、「矛」が新たな「シンボル」とされているのである。

 「矛」を「シンボル」とする「祭祀圏」、それはどこか。当然「筑紫矛」の世界である。北部九州だ。「任那」は、その地帯(筑紫)の「目」で、筑紫人が呼んだ地名だ。「北方の、海辺の土地」である。やはり、崇神天皇にとっての「軍事的原点」は、この任那の要害だったと考えるほかない。

 しかも、崇神天皇が「シンボル」としたのは、「矛」だけではない。「楯」もまた「シンボル」化されているのである。

 当然ながら、「矛」と「楯」は〝一体″をなす武器だ。戦闘上、本来は〝片方″だけでは成り立ちえないものだ。すでに中国の古典『荘子』に語られている、有名な「矛盾」の説話通りだ。

 その「矛」と「楯」が、共に所々に各地に〝祭られ″たという。「銅鐸の時代」の終結である。代わって「矛盾(むじゅん)(ほことたて)の時代」へと、時代は激変したのである。それをもたらした人が崇神天皇だった。

 この結論がどうして『この「御真津」も「御真木」も、共に「大和(奈良県)」の中の「地名」ではないか、という「疑い」』の答なのか、始めて読んだ時、私にはよく分らなかった。今は次のように解釈している。

 『「任那」問題(3)』で取り上げたように「みま」は「北方の、海辺の土地」という意味の漢字表記だった。すると周囲に海がない大和にそのような地名はあり得ない。『大和には「みま」という地名はない』。これが結論だ。(今は深入りしないが、古田さんは『日本列島の大王だち』段階では『「みま」は「三輪(みわ)」などと同じく大和の中の地名』と断じていた。「任」の意味の解明によってその旧説を捨てたものと考えられる。)

 『俾弥呼』ではこの後に《第二段》への言及が続く。「任那」の「みま」が大和の中の地名ではあり得ないという新知見をふまえた論述になっている。

 「八十毘羅訶」は「八十平瓫」とされる。「祭りのための土器の一種」であろう。

 今の問題は「天(あめ。あるいは「あま」)」の一語だ。崇神の「軍事力発動」の原点、それが「海士(あま)族」の活動領域にあったこと、その歴史事実がここで明瞭に語られていたのである。

 やはり、崇神の軍事的行動の起点は、決して「大和(奈良県)」内部ではなかった。「任那から大和へ」-これが崇神天皇の軍事行動の、根本のル一トだったのである。

 以上のように、説話「神々の祭祀」も崇神の「軍事的行動の起点」は任那だと示唆している。

 さて、また『日本列島の大王たち』に戻って、「祇の教化」問題の結論を読もう。

 ここには二種類の神々の体系がある。侵入者側の神々の体系、それは記紀自身のしめしているように、天照大神を頂点とする神々の体系だ。天国を原点とする神々である。次は、被侵入者側、つまり東鯷国の中の神々の体系だ。そこ、少なくとも大和盆地では、大物主大神が頂点となっていたようである。

 「神武(第一代)→崇神(第十代)」の時代は、後者(被征服者側)の祭礼が大和盆地内では禁止されてきた。それがこの事件以後許されたのである。「天神」(征服者側=天皇家)と「地祇」(被征服者側=東鯷国)との併祀の時代が開始されたのである。

 この「天神」と「地祇」の併祀は、「併祀」と言うよりは、むしろ、共同幻想の「交換」と言うべきだろう。大嘗祭を取り上げた時に論じたように、『「征服国家は被征服国家の「共同幻想」を取り込むかあるいは自らのそれと交換するなどして、支配を貫徹する』。(詳しくは「大嘗祭とは何か(1)」)を参照してください。)
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