2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(42)



狗奴国の滅亡(22)
崇神記をめぐって(13)
崇神の狗奴国攻め(4)


①タケハニヤスと崇神の縁戚関係 の続きの続き

 庶母を妃とする「不倫」について、〈大系〉の頭注は次のように述べている。

「上代においては、継母や異母妹との結婚は不倫とされなかった。」

 これに対して、古田さんは「神武記」の例を取り上げて反論している。神武記の系譜と「タギシミミの叛逆」については「イワレヒコから第九代まで」で取り上げているが、ここでは系譜についてだけまとめ直しておく。

**********

阿比良比賣===神武===伊須氣余理比賣
         │      │
      當藝志美美  神沼河耳

注1
 當藝志美美(タギシミミ)には同母弟(岐須美美)がいるが、『日本書紀』には記載されていない。
注2
 神沼河耳命(カムヌナカハミミ)には同母兄が二人(日子八井・次神八井耳)いる。末弟の神沼河耳命が第二代綏靖となる。
注3
 第一妃・阿比良比賣(アヒラヒメ)は神武の九州時代の妃である。つまり、タギシミミは九州でもうけた子である。
注4
 第二妃・伊須氣余理比賣(イスケヨリヒメ)の子・カムナムカハミミ等は奈良でもうけた子である。
注5
 「庶母」という用語は使われていないが、タギシミミがイスケヨリヒメを妃に迎えている。

**********

 さて、古田さんの反論は次のようである。

 右の「解説」(管理人注:〈大系〉の頭注のこと)は、疑問だ。なぜなら、

 第一、古事記の中巻冒頭に、第一代神武天皇の没後生じた、著名なトラブルがある。その発端は、神武の第二妃、近畿に来てから娶った妃、伊須気余理比貢(いすけよりひめ)を、第一妃(九州在住)の息子、當芸志美美(たぎしみみ)命が〝娶った″ことだ。「義理の母親」を「妃」としたのである。

 當芸志美美命を「庶兄」と呼んでいる。伊須気余理比賣を「嫡后」と記しているのは、第一妃(九州時代)に〝対する″表記であろう。伊須気余理比賣をもって「神武の正統の妃」と〝見立て″ているのである。

 ともあれ、神武を父とし、伊須気余理比賣を母とした三人の兄弟の中で、當芸志美美命殺害に成功した、神沼河命が第二代(綏靖天皇)を継いだ事件が、〝晴れがましく″描かれている。それを「実行できなかった」兄(神八井耳命)は、継承を辞退した、というのである。

 この〝なまなましく″古事記中巻の人代の巻に特筆大書された逸話を見れば、先に挙げたような「上代においては、継母や異母妹との結婚は不倫とされなかった。」の一文は〝空言″である。否、それどころか、「不倫の子」として生まれた「崇神天皇の一生」を〝運命づけた″「出生の秘密」、そしてそのもつ重大な意味を「歴史」の上から〝消し去ってしまう″ような「不当解説」と化しているのではあるまいか。

(細かいことだけど、「タギシミミの叛逆」は「中巻冒頭」の記事ではない。「神武記」最後の記事である。)

 古田さんの論旨は次のように要約できよう。

 カムナムカハミミ兄弟による庶兄タギシミミ誅殺はタギシミミが庶母を妃にしたことに対する懲罰である。これを『古事記』が「特筆大書」しているのは、古代においても庶母を妃にすることは「不倫」であった証拠である。

 私はこの論旨にも無理があると思う。

 私は「イワレヒコから第九代まで」で「タギシミミの叛逆」の発端を次ぎのようにまとめた。

「イワレヒコの死後、タギシミミは義母のイスケヨリヒメを娶った。そしてその后の子、つまり義理の子にして異母弟の三人の王子を亡き者にしようとした。それを知った三人の母親イスケヨリヒメがそのことを三人の王子に通報する。三兄弟は逆にタギシミミを殺そうと兵を起こした」。

 けっして、母親を娶ったことを「不倫」と咎めての誅殺ではない。タギシミミがカムナムカハミミ兄弟を謀殺しようとしたから逆に討ち取ったという筋書きは、もちろん王位継承正当化の偽装説話であろうが、タギシミミの婚姻が「不倫」なら、そのような偽装説話を作り出す必要なないだろう。「不倫」を犯したから討ち取ったと書けば済むことだ。この問題では私は〈大系〉の頭注の方を支持したい。その論拠の一つは、前回調べたこと、古事記には庶妹との婚姻記事が9件もあることである。

 ここで思い出したことがある。「允恭記」に書かれている長い説話、あの木梨の軽皇子と軽大郎女(衣通郎女)の悲劇だ。おおよそ次の通りである。(たくさんの歌の遣り取りがある。省略するが、私の好みで二つだけ残す。)

天皇崩(かむあが)りましし後(のち)、木梨之輕太子、日繼知らしめすに定まれるを、未だ位に即(つ)きたまはざりし間に、其の伊呂妹(いろも)輕大郎女に姧(たは)けて歌曰ひたまひしく、
……
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝(いね)てむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 亂れば亂れ さ寝しさ寝てば
とうたひたまひき。
……
是を以ちて百官(もものつかさ)及(また)天の下の人等、輕太子に背きて、穴穂御子に歸(よ)りき。…其の輕太子を捕へて…伊予の湯に流しき。
……
故、後(のち)亦戀ひ慕(しの)ひ堪(あ)へずで、追ひ往きし時、歌曰(うた)ひたまひしく、
君が往(ゆ)き け長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
とうたひたまひき。
……
如此(かく)歌ひて、即ち共に自(みづか)ら死にたまひき。


 「庶妹」が異母妹を表すのに対して、「伊呂妹」とは同母妹のことである。「亂れば亂れ さ寝しさ寝てば」と、輕太子自身が同母妹との恋愛がタブーであることを承知している。その「不倫」のために百官は離反し、天下の誹りを受けたと言う。明らかに古代においても同母の兄弟姉妹の婚姻は「不倫」とみなされていたことが分る。

 「庶母」との婚姻が行われている例が中国にもあることを思い出した。則天武后だ。あの儒教の国でも「不倫」の例が堂々と記録されている。生殺与奪の権を持つ最高権力者への畏怖ゆえのためかも知れないが、ことさら咎められた形跡はない。(以下は徳間書房版『十八史略 Ⅳ』を教科書にしています。)

 .高宗皇帝、名は治、母は長孫皇后なり。承乾廃せられ、長孫無忌、力(つと)めて太宗に勧めて治を立つ。東宮に在ること七年、太宗かつて帝範十二詩を作りもって賜う。曰く、「身を修め国を治むることことごとくその中に在り。一旦不諱(ふき)なるも、さらに言うことなけん」。ここに至りで位に即く。長孫無忌・褚遂良、先帝の遺詔を受けて政(まつりごと)を輔(たす)く。李勣をもって左僕射となし、尋(つ)いで司空となす。

 永徽五年、太宗の才人武氏をもって昭儀となす。

 六年、上、皇后王氏を廃し、武昭儀を立てて后となさんと欲す。許敬宗・李義府これに賛す。褚遂良きかず。もって李勣に問う。勣曰く、「これ陛下の家事なり、なんぞ必ずしもさらに外人に問わん」。事ついに決す。

 武は高宗の父・太宗の側室であった。位は「才人」。それを高宗が「昭儀」に昇格して側室にした。このことには何の問題もなかったようだ。つまりタブーではなかったということだ。しかし、さらにそれまでの皇后を廃して武を皇后にするという問題は重臣たちの同意を必要とした。皇后を交代するというのは極めて政治的は一大変事だからだ。李勣は太宗が高宗に「宰相として重用するように」と言い残した人物である。その李勣の「これ陛下の家事なり、なんぞ必ずしもさらに外人に問わん」の一言で決着してしまったという話である。

 〈才人・昭儀〉という聞き慣れない冠位名が出てきた。次のような解説があった。

「いずれも天子の側室の官名。この時は、皇后のつぎに位するのが三妃で、以下、六儀(りくぎ)美人、才人と、側室の階級は四ランクあり、全部で二十人である。昭儀は、六儀のうちのひとり」。

 このように中国でも「庶母」を妃にすることはタブーではなかったようだ。その逆の例もある。息子の妃を父親が奪ってしまう例だ。則天武后の周が滅亡したあとの、唐の第六代の皇帝・玄宗の愛妾、あの楊貴妃がそれだ。楊貴妃は10年もの間、玄宗の息子寿王の妃であった。


四載、楊太真をもって貴妃となす。故(もと)の蜀州の司戸(しこ)玄琰の女(むすめ)なり。上の子寿王の妃たること十年。上、その美を見て、自らその意をもって乞いて女官とならしめ、かつ寿王のために別に娶(めと)り、而る後これを納(い)紺る。ついに寵を專(もっぱ)らにす。


 ついでなのでもう一つ。この楊貴妃と奸臣・安禄山の関係はとうぜん古代でも「不義密通」であり、知られれば、重罪に問われたはずだ。しかし、「知らぬは亭主ばかりなり」だったようだ。

 十載、安禄山のために第(てい)を起し、華麗を窮極(きゆうきよく)す。上(しょう)、日に諸楊をしてこれと游ばしむ。禄山、体肥大なり。上、かつてその腹を指して日く、「この胡の腹中、何のあるところぞ」。対(こた)えて曰く、「赤心(せきしん)あるのみ」。禄山、禁中に入れば、まず貴妃を拝す。上、その故を問う。曰く、「胡人は母を先にして父を後にす」。禄山が生日(せいじつ)に、賜予(しよ)甚だ厚し。後三日、召し入る。貴妃、錦綉(きんしゆう)をもって襁褓(きょうほ)をつくり、宮人をして綵與(さいよ)をもってこれを舁(か)かしむ。上、歓笑するを聞いて、故を問う。左右、貴妃が禄児を洗うをもつて対う。上、妃に浴児金銀銭を賜い、歓を尽くして罷(や)む。これより宮掖(きゆうえき)に出入し、通宵出(つうしょう)でず。すこぶる醜声の外に聞ゆるあり。上、また疑わず。

 「タケハニヤスと崇神の縁戚関係」がテーマだったのに、「庶母との婚姻」問題に長く関わってしまった。別立てにすべきだったようだ。本来のテーマについての私なりの結論は次回に書こう。
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