2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(40)



狗奴国の滅亡(21)
崇神記をめぐって(11)
崇神の狗奴国攻め(2)


 いまテーマにしている「崇神の狗奴国攻め」(大和盆地外への侵略戦争)を取り上げている古田さんの著作は、私の蔵書の中では次の三冊である。

(a)『日本列島の大王たち』(朝日文庫版)
(b)『ここに古代王朝ありき』(ミネルヴァ書房復刻版)
(c)『俾弥呼』(ミネルヴァ書房)

 『ヤマト王権の近畿侵略史』:木津川の決戦を書いたときには手元には(a)しかなかったので、(a)を教科書とした。(a)と(b)の崇神の業績についての論考には大きな違いはない。初版は(b)の方が新しいので、今回は(b)を用いることにする。

 (c)には(a)(b)ではなかったか、あるいは簡単に触れられていた事項に詳しい論考が追加されている。その新しく追加された論考の検討をしながら議論を進めて行こうと思う。(a)(b)での論旨を要約したものが(b)にあるので、それを元に始めよう。

(1)
 大和に蟠鋸していた豪族たる崇神と、河内・山城を勢力圏とする豪族タケハニヤスとは、「政略結婚」の縁戚関係にあった。
(2)
 すなわち、両者は義理の兄弟(崇神が弟、タケハニヤスが兄)の関係を結んでいた(両勢力の平和関係の設定)。
(3)
 そのあと、崇神は東方・北方を政略と軍略で抑え、タケハニヤスを「包囲」する体勢をとった。
(4)
 崇神の「挑戦」をうけたタケハニヤスは、山城に軍をすすめ、崇神側の軍と対戦し、撃破され、敗死した。
(5)
 山城・河内は崇神の勢力圏に入ったが、肝心の淀川西岸(摂津)は、依然、いまだ手中には入っていない。

 以上が、崇神の戦略の成果であった。 ― まだ最後の制覇には至っていないものの、天皇家は、はじめて〝大和を出て″大和外に新征服地をえたのである。
 崇神の画期的な業績は、ここにあった。

(1)(2)について
 (a)(b)では「両者は義理の兄弟(崇神が弟、タケハニヤスが兄)の関係」としているが、(c)ではこの点が曖昧になっている。私は『「ヤマト王権の近畿侵略史」:木津川の決戦」ではこの問題には深入りしなかった。改めて
①タケハニヤスと崇の縁戚関係
について検討したい。
 これはまた次の問題と関わってくる。つまり、(a)(b)ではタケハニヤスを銅鐸圏内の国の王、今の私(たち)の認識では狗奴国の王という設定である。(c)ではどう扱っているのか。この問題についての古田さんの文章には分かりにくい所があって、私には二通りに読めてしまうのだ。そのためこの2・3日、私はこの問題を考えあぐねていた。問題①は「タケハニヤスとは何者か」と言い換えてもよい。

(3)について
 (a)(b)では崇神の出陣地は大和盆地と想定している。これに対して(c)では
②崇神は任那から出陣する。
 前回に私は「本国からのゴーサインも得た上でのことだったろう」と書いた。明記しなかったけれども、当然崇神は任那から出陣したと考えていた。
 また②と関連して
③「三方か、四方か」問題。
がある。どういう問題かというと、『古事記』では崇神軍は三方面に出陣するが、『日本書紀』では四方面である。(c)ではこの問題が取り上げられている。

①タケハニヤスと崇の縁戚関係

 「孝元記」のタケハニヤス・崇の関係を示す系図を(b)から転載する。

タケハニヤス系図

 タケハニヤスは孝元と河内の青玉の娘との間の子として「孝元記」の系譜にはめ込まれている。ところで「崇記」には次の一文がある。

故、大毘古命、更に還り參上(まゐのぼ)りで、天皇に請(まを)す時、天皇答へて詔りたまひしく、「比(こ)は爲(おも)ふに、山代国に在る我が庶兄(まませ)建波邇安王、邪(きたな)き心を起せし表(しるし)にこそあらめ。伯父、軍を興して行でますべし。」とのりたまひて、…

 上の系図に見る通り、大毘古は確かに崇の伯父である。一致している。タケハニヤスについては「崇記」では「庶兄」となっているが系図では叔父である。矛盾している。この矛盾を古田さんは(b)で次のように解いている。

 「庶兄」という場合、たとえばタケハニヤスは、崇の姉の夫といった場合、またはタケハニヤスの妹を崇の妃の一人としていた場合、などだ。

 これらは、各豪族間の政略結婚の結果、成立していでも不思議はない。右の説話内容は、そのような関係を予想させるのである。

 ところが、これと矛盾する系譜関係、これは「系譜関係」が正しく、説話の「庶兄」云々が後世の竄入(ざんにゅう) ― こういう判断ができるだろうか。無理だ。なぜなら、その場合、系譜関係に合わせて「叔父」といった表現にするはずだ。これをわざわざ「庶兄」とすべきいわれはないのである。したがってこの場合もやはり、先の大国主神の場合と同じく、タケハニヤス王を天皇家の系譜内にはめこんだために生じた矛盾ではないだろうか。こうすれば、〝山城や河内はすでに天皇家の支配下にあり、タケハニヤスは反逆し、鎮圧されただけだ″。そういう体裁がとれるからである。少なくとも、このような「系譜偽入」は、天皇家にとっての利益を十分にもっているのだ。そのさい、不幸にも(われわれには幸いにも)説話はそのままにしておかれたのである。

 〝そんな不手ぎわのままに、作者がしておくものか″。そう難ずる人は、先の「大国主神」の先例をふりかえっていただきたい。あれほど説話に明記された「スサノオ・大国主神の同時代性」の事実と矛盾する形で、平然と、大国主神の祖神の系譜を「偽入」し、しかも説話関係はそのままにしていたのである。

 ここで私は「庶兄=義兄」と解釈していることに引っかかった。「庶兄」はどの辞書を調べても「腹違いの兄」あるいは「妾腹の兄」である。もしかすると、古代(『古事記』)では「庶兄」を「義兄」の意味で使っていたのだろうか。『古事記』での「庶」の使われ方を調べてみた。

庶兄弟(ままあにおと)…一例だけ
 「根国訪問」の段に一例。〈大系〉の頭注通り「腹違いの兄弟」としか考えられない。

庶兄(まませ)…二例
 庶兄建波邇安王のほかに庶兄當藝志美美命がある。あの「タギシミミの反乱」説話である。タギシミミの場合は明らかに「腹違いの兄」である。

庶母(ままはは)…一例
 「開化記」の庶母伊迦賀色許賣命。上の系図中のイカガシコメだ。「義母」ではなく文字通り「ままはは」だ。

庶妹(ままいも)…九例
  全てを書き出さないが、どれも婚姻記事で使われている。系譜を調べると、一名だけ「記紀」のどちらの系譜にも登場しない庶妹(景行記倭建命の子孫」の段の庶妹銀王)がいるが、他は全て確かに「腹違いの妹」であった。

 古田さんの「タケハニヤス王を天皇家の系譜内にはめこんだために生じた矛盾」という判断は正しいと思うが、タケハニヤスの場合だけ「庶兄=義兄」とする解釈は受け入れ難い。文字通り「腹違いの兄」としか解釈できないのではないだろうか。

 では、もし私の判断が正しいとすると、タケハニヤスは何者なのか。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1709-08808841
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック