2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(38)



狗奴国の滅亡(19)
崇神記をめぐって(10)
崇神の活動時代(2)


 文献上で手掛かりになる史料は〈大系〉「崇神記」に分注として記されている崩御記事だけのようだ。「戊寅の年の十二月に崩りましぬ。」と書かれている。しかし、この分注は安麻呂が本文中に付したものではなく、古写本の書き手が書き入れた傍注だという。これと同種の崩御記事が付されている天皇は33人中15人いる。この分注について本居宣長は「古事記伝」で次のように述べている。(〈大系〉補注からの孫引きです。)

 抑如此くなる細注、此より次々の御世の段にも、往々あり。下巻なる御世々々には、無きは少し。(管理人注:下巻18人中11人)

 さて此はみな後に書加へたる物ぞとは、一わたり誰も思ふことなれども猶熟思ふに、是も甚古き事とぞ思はるる。其故は、何れも其干支年月、皆書紀に記せると異なり。ただ下巻の最末に至りてのは、書紀と合へり。(注:推古・崇峻・用明・安閑のケース)

 若いたく後世の人の所為ならむには、必書紀の年紀に依てこそ記すべきに、彼紀と同じからざるは、必他古書に拠ありてのことと見えたればなり。

(中略)

 故思ふに、若くは安麻呂朝臣の、一書に拠て、自書加へられたる物にもあらむか。たとひ彼朝臣には非ずとも、必古き世の人のしわざにてはあるべし。然れども今これを取ざる故は、稗田老翁が誦伝へたる、勅語の旧辞には非じと見ゆればなり。

 「他古書に拠あり」と判断しているにもかかわらず、「稗田老翁が誦伝へたる、勅語の旧辞には非じ」と採用していない。この不採用の理由の文章は分りにくいが、「本文中の文章ではなく書き加えられた傍注である。つまり稗田阿礼が記憶していたものではないので採用しない」という意であろう。

 丸山林平編「校注 古事記」(底本:訂正古訓古事記)や検索用に利用しているネット上の「古事記 原文」(皇典講究所『校定古事記』)にはこの崩年分注はない。崩年分注を採用した〈大系〉の原文脚注は「底・延にはこの種崩御の干支年月日の分注をすべて削除しているが、諸本に従う。」と説明している。これによると「底(本)」(訂正古訓古事記)と「延」(渡会延佳鼇頭古事記)以外の古写本にはこの傍注があるらしい。「底」は宣長の古事記伝に依拠した校本だから当然崩年分注はない。「延」は元禄時代に完成した校本というから「底」より100年ほど前のものであるが、丸山氏は「ようやく古事記の善本を見得るに到った」と評価してる。厳密に原文だけに従い、古写本の書き込み注は採用しなかったようだ。

 〈大系〉はこの崩年傍注を本文の分注として取り込んだわけである。もちろん単なる多数決で決めたわけではあるまい。宣長と同じく「他古書に拠あり」との判断であろう。

 ここで義母の遺品の中に通信講座「日本古代の謎」(水野祐著)があるのを思い出した。それを取り出してみた。全7册もあり、かなり詳しい解説をしている。「井の中」学者の例にもれず神武~開化は架空、初代天皇は崇神としている。その論拠の一つとして今問題にしている分注を取り上げ詳しく論じている。

 水野氏は、推古の崩年戊子(628年)は『古事記』と『日本書紀』とで一致しているので疑問の余地はないとする。そして、これを基準に逆算して、15人の天皇の崩年の「干支→西暦」換算を行っている。それを拝借する。ついでなので崩年分注のない天皇も加えて、『日本書紀』の崩年を後に付け加えた。

   古事記	日本書紀
推古 戊子628 	628
崇峻 壬子592 	592
用明 丁未587 	587
敏達 甲辰584 	乙巳585
欽明		辛卯571
宣化		己未539
安閑 乙卯535 	535
継体 丁未527 	辛亥531
武烈		丙戌506
仁賢		戊寅498
顕宗		丁卯487
清寧		甲子484
雄略 己巳489 	己未479
安康		丙申456
允恭 甲午454 	癸巳453
反正 丁丑437 	庚戌410
履中 壬申432 	乙巳405
仁徳 丁卯427 	己亥399
応神 甲午394 	庚午310
(神功)   	己丑269
仲哀 壬戌362 	庚辰200
成務 乙卯355 	庚午190
景行		庚午130
垂仁		庚午70
崇神 戊寅318 	辛卯前30


 『日本書紀』の示す5世紀以前の実年代はまったく信用できないことが分る。それに対して『古事記』の崩年分注はとてもまともに思える。水野氏もこの実年代の比定について次のように述べている。

 『日本書紀』の紀年とは大きな年代の誤差が生じます。しかし、これで得られた年数は、実年代に近い数値と思われるだけでなく、実際、個々の史実の年代と照合してみても、事実と合致する場合が多く、非常に信頼度が高いと思われるのです。

 私はこの評価を妥当だと思っている。「個々の史実の年代と…合致する」例が挙げられていればさらによいのだが、それは見あたらない。自分で例を挙げられればよいのだが、今の私にはその用意がない。この崩年分注が信頼できるという仮説で進めよう。

 崇神の崩年は318年となっている。「定説」では前期古墳時代を4世紀初頭~5世紀初頭と考えているようだ。行燈山古墳が崇神の陵墓だとすると、崇神の活動時代は4世紀前半~4世紀中頃となろう。この「定説」の場合は崩年318年との整合性がない。しかし、前回の私(たち)の結論、「崇神の活動時代は3世紀後半」とは整合する。私としては崇神の崩年318年を採用して、崇神の活動時代は「3世紀後半から4世紀はじめ」と修正したい。

 なお、水野氏は『古事記』に崩年干支のない天皇を全て架空の天皇としている。「神武~開化」架空説についてはこれまで何度もその非を述べてきた。垂仁以降の架空説については必要が出てきたときに検討してみたいと思っている。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1707-50e26038
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック