2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(37)



狗奴国の滅亡(18)
崇神記をめぐって(9)
崇神の活動時代(1)


 前回引用文の要旨は次のようであった。

 呉王朝の滅亡(280年)により「倭国内の一大変動」が決定的となり、「親呉派」倭国の没落が始まった。それは崇神の活動時代と重なる。

 つまり古田さんは280年前後が崇神が活躍した時代だと言っている。ではそう断じる根拠は何だろうか。これが今回のテーマです。

 崇神の時代について、古田さんは次のように述べている。

 俾弥呼は3世紀前半の女王である。崇神は3世紀前半から後半にかけて、「俾弥呼と壱与の時代」にその活躍の時代が当たっている。

 かつて「古墳時代」は4世紀はじめ以降とされていた。しかし、現在は3世紀前半、「200~250」の間にあるとされた。「C14」の成果である。

 したがって崇神の初期は、俾弥呼の「晩年」に当たる。崇神は、呉の孫権の時代から呉の滅亡に到る「激動の三世紀後半」を、主たる活躍時期とした、出色のヒーローだったのである。

①前期古墳時代の始まりを「200~250」としている。②そして前期古墳時代が崇神の「主たる活躍時期」と言っている。

 ②については異議はない。①を検証してみよう。

 前期古墳は三輪山山麓に突如として発生した。次のような古墳群である。(以下は(森浩一『天皇陵古墳』による。)

前期古墳分布図

箸墓古墳(墳長280メートル)
 「崇神紀」10年9月条により倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の墓とされている。箸墓古墳は「天武紀 上」に「箸陵」と表記されている。このことから箸墓古墳を崇神陵とする説もあるようだ。いまだに性懲りもなく俾弥呼の墓だと主張する学者がいる。

西殿塚(にしとのづか)古墳(墳長219メートル)
 現在、手白香(たしらか)皇女の衾田(ふすまだ)陵に比定されている。手白香は継体の妃。

メスリ山古墳(墳長230メートル)

桜井茶臼山古墳(墳長208メートル)

渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(墳長300メ一トル。)
 崇神陵に比定されていたが、1866年に景行陵に改定された。

行燈山(あんどんやま)古墳(墳長242メートル)
 上と同様、景行陵から崇神陵に改定された。築造時期は「前期後葉の前半」とされている。「定説」では古墳時代は4世紀から始まることになっているから、「前期後葉の前半」とは4世紀の中頃を指していると考えてよいだろう。

 細かい点で異論があるようだが、上の順序は築造順を示しているらしい。これによると大古墳では箸墓古墳が最も古いとされているようだ。

 古墳埋葬者の比定は本格的な発掘が行われない限り確定的な比定とは言えないだろう。上の順序が正しいとすると崇神陵より景行陵の方が早いことになる。宮内庁による比定は全く当てにならない。しかし、これらの古墳が同時期のものであるという一点には異論はないだろう。

 次ぎに、古田さんが「C14」と言っているのは、言うまでもなく「炭素14年代測定法」(あるいは「放射性炭素年代測定法」。以下古田さんに倣って「C14」と略記する)のことである。「C14」が信頼性の高い測定法であることは『「炭素14年代測定法」について』で述べた。

 では前期古墳群の築造時期はいつ頃なのだろうか。古田さんは「200~250」と推定しているが、実はもう少しはっきりした測定値がある。

 2009年5月31日のことである。
『箸墓古墳の周壕築造直後の土器を「放射性炭素年代測定法」によって測定した結果、240~260年代と推定された。』
という調査結果が日本考古学協会総会で発表された。「C14」を信頼できないと言っている学者が自説に都合の良い測定値だけは臆面もなく採用する。箸墓を俾弥呼の墓と考えている学者が「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」などとコメントしていた。(詳しくは『あいかわらず破廉恥な考古学会』を参照してください。)

 前期古墳群の分布図を見ると、小古墳がかなりある。その中には箸墓古墳より古いものがあるかも知れないが、箸墓古墳が最も古いとすると、古墳時代のはじまりは古田さんの「200~250」の後の方をとって「250年頃」とするのが妥当ではないだろうか。崇神の活動時期が「激動の3世紀後半」ということには変わりはない。

 考古学上の成果を論拠に崇神の活動時期を比定したが、文献上にその根拠はないのだろうか。
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 コメント
この記事へのコメント
くどいですが もう一度 石渡論
崇神(=七支刀の倭王旨=加羅からきた人物)が活躍したのは
絶対に3世紀ではありません。4世紀後半です。
残念ですが、古墳時代はAD350年から始まります。
3世紀は古墳時代ではありません。弥生じだいです。
で 箸墓には その崇神が AD393年から寝ていますよ。

古代史通説(古田の九州説含め)での
古墳や須恵器や土器の年代は
は60年以上は古すぎます。
なぜなら 通説の古墳の年代が
稲荷山古墳の鉄剣の辛亥年=471年説に元付いて
決められているからですが、間違っていますよね。
同剣に書かれたワカタケル大王は雄略大王ではありません。
雄略大王は日本書紀の編集者が創った架空人物ですよ。
雄略の実在をもとに古代史通説が始まっていることが
通説の古代史の迷走の発端です。
書紀の記述の真実性を検討するはずの古代史が
書紀の記述(雄略の実在性)を肯定してしまっています。

古代史追究は 実際いなかったのですが、
雄略大王はいなかったかも からスタートすべきです。

で、稲荷山鉄剣の辛亥は531年です。
稲荷山古墳は560年前後の古墳ですよ!!

その論拠は
①わかたけるのわの字に草冠がない(草冠のない字は中国でも6世紀に入ってから使用)。
②発掘関係の第一人者、斎藤忠も副葬品(銅わん)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の大阪の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④すこし新しい江田船山古墳から出た履が百済の武寧王の墓の履と文様がにている。
以上4つです。

で以下おまけで
実在の大王のお墓の年代一覧

  古墳------被葬年--被葬者
①箸墓    -393--旨・崇神・ミマキイリヒコ
②渋谷向山古墳-409--垂仁・イクメイリヒコ
③行燈山古墳---438--讃・イニシキイリヒコ
④五社神古墳---442--珍・ワカキニイリヒコ
⑤中ツ山古墳---462--済・ホムタノマワカ・尾張連草香
⑥石津山古墳---477--興・カワマタナカツヒコ・凡連
⑦誉田山古墳---507--余昆・昆支・武・応神
⑧大仙古墳-----531--余紀・継体・男弟・(仁徳)
⑨見瀬丸山古墳-571--ワカタケル・欽明・稲目
⑩太子西山古墳-585--敏達
⑪石舞台古墳---622--聖徳・馬子・用明・アメノタリシホコ

ついでに言わせてもらえば
鉄剣のワカタケル大王は欽明大王ですよ。
この人は 倭の5王の武=百済から来た昆支=応神大王
=ヤマトタケルの子供です。だからワカタケルです。

たつさん くどいですが 石渡信一郎論 
もう一度 読んでみてください。
江上さんとは全く異なる
すばらしい騎馬民族説
(=大和民族大移動説)
が そこにはありますよ。
2011/12/14(水) 00:45 | URL | むらかみからむ #-[ 編集]
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