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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(35)



狗奴国の滅亡(16)
崇神記をめぐって(7)
3世紀後半~4世紀前半の倭国


 倭人伝の冒頭の記事は次のようだった。

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧(もと)百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。

 ここに記録されている「百余国→三十国」という国数の変化を政治的併合の結果と考える説が一般のようだ。私もかつてはそう考えていた。「旧(もと)百余國」という文言と、倭人伝中の次の記事がそれを裏付けてる叙述と考えたのだった。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。

 これに対する古田さんの見解は次のようである。

 俾弥呼出現の段である。この「7・80年」は「二倍年暦」だから、実際は「35ないし40年」だ。これは「男王の在位期間」であり、いわば「安定期間」である。そのあと、倭国が乱れ、「相攻伐した」というのは、「歴年」のこと。「歴年」とは〝不定の表現″だが、その間に、一挙に「国家統合」がすすんだ、とするのは、無理だ。少なくとも「描写欠落」である。

 言われてみればその通りである。以前紹介した古田さんによる「『魏志倭人伝』の和訳文(2)」では「暦年」を「7,8年」としている。妥当な数だと思う。俾弥呼を擁立することによって「相攻伐」が終止した。「百余国→三十国」という激変はあり得ないだろう。それに冒頭の記事を注意深く読めば、30国は「使訳通ずる所」の国と明記されている。倭国の全国数を指しているわけではない。朝貢してきた国だ。この30国は100余国の中の30国なのだった。いわば「親魏倭国」なである。当時の倭国内の国々は中国に対する外交姿勢という点で、次の三種類に分れていたと考えられる。

(1)「親魏倭国」派。30国。
(2)「親呉倭国」派。主に銅鐸圏の国々。
(3)「中立倭国」派。大多数。

 (1)の30国はすべて銅剣・銅鉾・銅戈圏(以下、「銅鉾圏」と略す)の国々だろう。東鯷国については私は古田さんの旧説の方を正しいと考えているので、(2)の「主に銅鐸圏の国々」とは、漢書の次の記事により、20余プラスX国となる。銅鐸圏の中心となる国はもちろん狗奴国である。

会稽海外、東鯷人有り、分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。(呉地)

 この倭国の政治地図は呉の滅亡によって大激変を余儀なくされる。しかし、呉朝滅亡前後の倭国記事は欠落している。

 呉の滅亡は280年(太康元年・呉の天紀4年)のことである。それ以前の最後の倭国記事は、倭人伝ではあの壹与の貢献記事になる。

壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。

 倭人伝には壹与貢献の年は記録されていない。推測してみよう。

 倭人伝で確認できる最後の年は247(正始8)年である。女王国と狗奴国との抗争の仲裁に張政が来国した年である。その後の倭人伝の記事は「俾弥呼の死→男王擁立→国中服従せず、相誅殺千余人→壹与擁立→乱収束」と記録し、壹与貢献の記事で終わる。

 岩波文庫版の注によると『北史』に「正始中、卑弥呼死す」と書かれていると言う。正始は240年~248年だから、、俾弥呼の死は247年か248年ということになる。その後の乱は「相誅殺千余人」というのだからそう長く続いたとは思われない。俾弥呼擁立のときの「倭國乱れ、相攻伐すること歴年」という前例から推して、その時より早めに手が打たれたのではないか。長くとってもせいぜい5・6年くらいか。壹与擁立には当然張政が深く関わっていた。張政とともに魏朝に向かった遣使の目的は、壹与の王位継承に魏王からの正式な承認を得るための挨拶だったと考えられる。だとすると、壹与の貢献は遅く見積もって254年頃となる。まだ魏の時代である。魏からの使者・張政の帰国を送る時の貢献だから当然と言えば当然の結論だ。

 なぜこのような細かいことにこだわったかというと、古田さんが倭人伝の壹与貢献を266年のこととしているので「はてな?」と思い、そこで筆が止まってしまったのだった。266年の根拠を知りたいと思った。「神功紀」66年条(全文が分注)に次のように記されている。

〈是年、晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝泰初二年十月に、倭女王、譯(やく)を重ねて貢献せしむといふ。〉

 基礎知識不足のまま、古代史を記述している(というより学習している)ので、未だに始めて知る事があって、我ながらあきれる。〈大系〉は「晋の起居の注」と読み下しているが、これは原典を示す語句で『晋書』起居注と言うらしい。「起居注」という言葉には始めて接する。ネット検索で調べてみた。いろいろあったがHP「國立故宮博物院」の説明を拝借した。

 「起居注」とは官名で、起居注官が皇帝の言行を記録した档冊を「起居注冊」といい、一種の日記に似た史料である。この種の記録文書はかなり早い時代から見られ、周代にはすでに左史、右史という職位があり、漢武帝の時代には「禁中起居注」、唐代には「創業起居注」があった。

 ここでまたまた「?」。「档」という字を始めて見る。辞書を引いたが手元の2冊(『漢語林』『漢和大字典』)にはない。「手書き文字入力」をしてみたら第二種漢字としてとして登録されている。音は「トウ」。一般の漢和辞典に掲載されていないのはこの漢字を用いる日本語がないからだろうか。『諸橋大辞典』でも引かなければダメなようだ。明日図書館に、と思ったが、ここで息子が使っていた『中日辞典』(小学館)があることを思い出した。ありました。次のようです。

漢字「档」の意味

 余分なことに時間をかけてしまった。本論に戻ろう。

 一般には「起居注」を用いて正史を編纂するのだろう。『晋書』にはその「起居注」そのものが掲載されているということだろうか。ともかく『晋書』起居注に、266(秦始2・呉の宝鼎元年)年に倭の女王が朝貢した、という記述があった。これを古田さんは倭人伝の壹与朝貢と同じ朝貢の記事としたのだった。もしそうだとすると、もう一つ問題がある。魏の吏官である張政はそのまま晋の吏官に任官されたのだろうか。また、張政の来国は247(正始8)年だから、張政は20年も倭国に滞在したことになる。こんな長期の滞在は考えがたい。

 上に述べたように、私は倭人伝の壹与朝貢記事はこれより10年ほど前と考えているので、『晋書』起居注の朝貢記事はそれとは別だと考える。中国での政権が魏から晋に移ったので、壹与は改めて晋に朝貢したのだろう。しかしどちらの説を採っても、以下の議論には支障はない。呉朝滅亡前後の倭国史料状況をまとめよう。

266年(泰始2年・呉の宝鼎元年)
 壱与、西晋に貢献。女王国(倭国)関係の最後の記事である。

280年(太康元年・呉の天紀4年)呉朝滅亡

297年(元康7年)陳寿死亡。
 この陳寿の死は、陳寿の才能を認め登用した張華が失脚し、政敵・荀勗(じゅんきょく)が権勢をふるった時代のことであった。陳寿は冷遇されたようだ。この段階では陳寿の『三国志』はまだ日の目を見なかった。

 以上、266年~297年の31年間が倭国記事欠落の期間である。

 その後、4世紀になって張華派が復権し、三国志は「正史」として認定されることになる。もちろん西晋滅亡(316年)以前のことである。

316年(建興4年)西晋滅亡。
 翌年317年(建武元年)、鮮卑族に追われた晋は建康(現在の南京)を都に東晋を建てる。

 古田さんはこの倭国記事欠落の31年間(266年~297年)は倭国にとって、どんな時代だったかと問い、次のように分析している。

(イ)
 「親魏倭国」派の30国にとっては、まさに「時機到来」だ。「百余国(130~140)」中の、他の国々に対して「勢威拡大」の絶好機だったのではあるまいか(これは俾弥呼の「親魏倭国」時代にはじまろう)。

(ロ)
 もっとも打撃を受けたのは、当然「親呉倭国」派だ。倭人伝が俾弥呼に対して「大量の銅鏡(百枚)」を与えたり、「五尺刀二口」を与えていること、また後継者の壱与が「白珠五千孔・青大句珠二枚」を西晋朝に献上しているのを見ると、この「倭国」が「三種の神器」を「権力のシンボル」とする王朝であったこと、「同時代史料」の倭人伝の証言として、疑いがたい。

 これに対して、近畿を中心とする領域は「銅鐸国家」だった。弥生中期から後期にかけて「中型銅鐸」や「大型銅鐸」の〝最盛期″といってよい。とすれば、この(中国側周知の)「銅鐸の祭儀」や「シンボル的存在」に、倭人伝が一切ふれないのは、やはり「問題の急所」をしめす。すなわち、これらの銅鐸国家は「親呉倭国」だった。少なくとも「親魏倭国」のイデオロギーの急先鋒ではなかったのではあるまいか。

(ハ)
 この点、注目すべきは「中間派」の国々の存在であろう。

(a)
 魏朝と同時に呉朝にもまた「交流関係」を結んでいた国々。
(b)
 右のいずれとも「国交」を結ばなかった国々。
(C)
 「魏から呉へ」あるいは「呉から魏へ」と、交流対象を〝変化″させていた国々。

 各国、各種の対応が存在したものと思われるけれど、俾弥呼の時代に次いで孫権の死亡(壬申、252)によって、呉朝の内部の「崩壊過程」は加速された。

 次いで、呉朝の降伏(280)によって、「倭国内の一大変動」もまた、決定的となったのである。「親呉派」の没落である。

 ここで確認すべきは、次の三点だ。

(その一)
 中期銅鐸および後期銅鐸は、大和(纏向)や河内(東奈良)に実物や鋳型が集中している。
(その二)
 右の銅鐸は「破砕された痕跡」が各地から発見され、報告されている。
(その三)
 右に対し、巨大銅鐸はこの「大和」ではなく、周辺部(播磨〈兵庫県〉や野洲市〈滋賀県〉)で見出されている。

 四世紀以降の「古墳時代」には、もちろんこの「貴重なるシンボル」としての銅鐸、特に中期および後期銅鐸は「姿を消し」ている。近畿もまた「三種の神器」圏に〝くり入れ″られたのである。

 このような「大観」からすれば、右の「銅鐸国家」は、すなわち「親呉倭国」そのもの、あるいはその一端に連なっていたのではあるまいか。これらの国が「急先鋒」となったのが、今問題の「崇神天皇の時期」だったのである。

 以上によって、わたしたちにはようやく第十代、崇神天皇の「活躍期」とその「起動力」の謎を知る「とき」が来たように思われる。

 つまり、中国史料における倭国記事の欠落は「崇神記・紀」(さらには「垂仁記・紀」)によって埋める外ないというわけだ。ただし、言うまでもなく、「記紀」の記述の真偽の程を選り分けなければならない。
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 コメント
この記事へのコメント
もう一度 石渡信一郎を読んでみてください
3世紀の日本はきっとまだ 卑弥呼や豊与さまをふくめ はじめ人間ギャートルズの世界だったに違いない。4世紀前半も弥生時代だった。4世紀後半から古墳時代だ。
4世紀の中ごろ初めて支配者がまず南加羅からやってきた。箸墓は はじめに 半島からきて奈良県を支配した大王 崇神サンの墓だったのですね。卑弥呼の墓であるはずがない。
そして記紀では重要視されてないけど尾張も物部や息長もあなどれないですね。この人たちは 崇神様のなかまで きっと4&5世紀を支配していたのでしょう。
5世紀の中国にいろいろ手紙だした倭の5王さんたちはその崇神王朝そのものだったのですね。仁徳から武烈までの架空の河内王朝に こたえ求めても 無駄ですね。
で、応神こと昆支さんは その初代王朝に 百済からきてムコ入りした 愛子様のご先祖だったのですね。そして 倭王武と名乗り 八幡[アスカラ]の神になり 誉田山古墳にねむる。この推理はすごい。。。
そのお母さん神功皇后は日本史のなかで僕の大好きなヒロインでしたが 架空の人物。卑弥呼や豊与との関係疑ってたのに 実在してないなんて 本当に残念です。。。
さらに わかたけるなんてかっこいいので ヒーローだった雄略さまも 架空の人でした。考えてみれば大悪党ブレツがいそうにないのに そのじいさんの代のユウリャクもいないよなあ。
6世紀初期の大山古墳は その昆史さんの弟 継体の墓。これで 記紀の言う 5世紀の河内王朝10人天皇ぶっとびました。そして 彼もまた 崇神王朝へムコ入りしてたなんて。
そして その兄弟のあととり合戦が 6.7世紀の間  極めておもしろく 続行されてたなんて。 鋭すぎる推理に しびれてしびれて。なかなかついていけません。。
  欽明天皇は はじめ日本書紀読んだときあんまりおもしろくなく 重要人物でなかったけど 昆支(=応神)の子供だったとは。そして 継体大王の子供たちと531年に戦ったのですね【辛亥の変】
  しかし、欽明(=蘇我稲目)は やっつけた継体の子供の子供(石姫サン)と結婚して 敏達誕生で いったんは昆支家と継体家はなかよしになったのですね。
  ですが 欽明には石姫の後妻の堅塩姫との間にも子供ありで この子こそ 蘇我馬子であり 聖徳太子であり 用明天皇だったのですね。そして、蘇我物部戦争で、敏達の子供の彦人大兄(=守屋)をやっつけたのですね。
もう一度かきます。聖徳太子と蘇我馬子と用明大王は 一人の人物が3人に分けられていたのですね。彼が隠れたヒーロだ。ボクは小学校の修学旅行は法隆寺でしたが 校長先生は嘘を教えてくれていたんですよね。
悲しいですよ。聖徳天皇だったのですね。そして アメノタリシホコとして 隋に 手紙出したのですね。で、その妻 貝タコ姫こそ 彦人大兄の妹であり 日本史のヒロインだ。
でで 7世紀 その聖徳天皇の子と孫は 蘇我王朝そのものであり 蘇我蝦夷天皇であり 蘇我入鹿天皇だったのですね。皆さん ついてきてますか。多分 無理でしょうね。でも 史実ですよ。
で、小学生でも知っている大化の改新ですが その真実とは 中大兄皇子は 聖徳天皇にやられた じいさん彦人大兄のかたき討ちをしたのですね。結局 崇峻・推古・舒明・皇極は架空ですね。
天武天皇は天智天皇の兄さんだったのですね。しかも 聖徳大王の娘(ホホテノイラツメ)を母に持つ人物だったのですね。いいですねえ。楽しいですよね。感動しますよね。   

以上の事実を 物語記紀のなかから 極めて論理的に推理され 拾い上げた探偵さんこそ 石渡信一郎教授です。異端児あつかいは それこそ日本古代史学会の不幸です。
石渡教授は真の歴史研究者です。 飛鳥は アスカラ【大東加羅】 の ラが 落ちたものだなんて。すじが通ってます!。極上の推理ですよね。在野の歴史家ではもったいない!
石渡教授はもうお年みたいですね。東大か京大は 石渡教授を古代史の教授に ただちに推挙すべきです。そして、国は 古代史ノーベル賞(もしくは国民栄誉賞)を 教授にさしあげるべきです。
税金で お勉強している国立大学の古代史研究の先生は 今からでも遅くありません。1988年に自家出版された先生の本 『日本古代王朝の成立と百済』を すぐにでも購入され よく読まれ 
その本を学生にも購入させ 石渡学説を中心にして 講義をすべきです。どうして 古代史学会(本当はすぐに解散すべきです)が 先生の説と向き合おうとしないのでしょうか? 
センタ試験で日本史選択した自分が悲しいです。真実でないことをマークシートして 大学入試で通る国は 日本の国立大学だけでしょうね。税金の無駄使いです。

でで、以上のことを 普及に努めておられる 林順治先生も偉大です。『アマテラス誕生』を図書館で 読んでよかった。読んでいなかったら僕は麻痺したままで ウソを信じたままでしたから。
関さん森さん石黒さんの歴史本もおもろいですが 石渡&林コンビのほうが 絶対に楽しい。それは 理論的な推理を伴った頭を使う真実追究だから。あまりにに天才的な発見であり 
最初は なにをいっているのか こんがらがって わけわからなかった。ウソつけ。変な人たちだなあと思いましたよ。無理もないですね。最初に記紀という創造作文を読んで麻痺させられているから。。
山川出版の日本史の教科書すきだったんですけどね 本当に悲しいです。3世紀から8世紀の内容を書き直せ。創造作文はもういいですよ。。。。。。

で、マスコミももっともっと先生たちの説をみんなに紹介すべきです。真実は真実。物語は物語。その区別くらい小学生でもできます。先生の説が真実であればあるほど 天皇さんの価値は上がります。
記紀は それはそれで 物語としては 極めて価値あるものです。そして 事実をまげて 都合よく 創造作文し広めることができるたのは征服者 大王様すなわち天皇様だけだからです。
だから、天皇様は偉大なのです。アマテラスさまをつくることができたのですから。そして だから アマテラスさんの子孫でいいのですよね 愛子様。。
で、日本語は半島からきた言葉だったのですね。われわれの先祖は1600年前に民族大移動した大陸からきた人たちだったのですね。日本民族はゲルマン民族と同じ行動をしたのですね。
では、新羅に出されたのでしょうか。追い出されて 実はいいところに住んでるなんて われわれのご先祖様はえらいとおもいませか?出されたのではなく きっと新羅を置いてきたのですね。

40代が 実は16代程度だった。それでも それはそれでいいじゃないですか。ねえ愛子様 じいさんのじいさんのじいさんのじいさんのほんとのことが知りたいよね !!!
古代史は真実を追求するおもしろい学問ですよね。ボクも真実が知りたいだけです。創造作文して書き直した人たちがいたのですから また書き直されて 当然です。
みなさん真実を追求する 林先生&石渡教授を応援しましょう。

  たつさん もう一度だけ 石渡信一郎の本 読んでみてください。石渡教授も もとは 古田の九州王朝説の信者でしたよ。
  でも大仙・誉田山古墳の大きさに圧倒されて九州説をあきらめたと書かれています。自分の信じていた九州説が成り立たないと思った時 悔しかったと書かれています。
で、たつさんは 稲荷山古墳の鉄剣の辛亥の年はいつだとおおもいでしょうか?また、ワカタケル大王は書紀の中えは誰だとお考えでしょうか?教えてください。
  石渡教授が偉大なのは 教授の説は 日本書紀はなかったからスタートしています。史実を並べたあとで、書紀を読んでいます。まず、そこんとこ理解して下さい。
  で、できれば ネットで 【むらかみからむ 石渡】と打って検索してみてください。
2011/12/07(水) 23:57 | URL | むらかみからむ #-[ 編集]
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