2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(35)



狗奴国の滅亡(16)
崇神記をめぐって(7)
崇神の和風諡号


崇神の和風諡号は「みまきいりひこいにゑ」で、漢字表記は
御眞木入日子印惠(『古事記』)
御間城入彦五十瓊殖(『日本書紀』)
である。この諡号を江上氏は次のように解釈している。

 崇神天皇の現世での呼び名は、ミマキイリヒコといった。これは宮号で天皇を呼ぶ当時の習慣によるものであって、ミマキ(御間城)は御間の宮城の意で、そこにおられた天皇、ということである。そこでミマの宮城におられた天皇という崇神天皇は任那におられたのではないか、という推測を生む。

 ところが『書紀』によると、南朝鮮の任那のミマは、崇神天皇がミマキイリヒコであるから、そのミマが与えられた地名だということになっている。しかし、これはおそらく逆で、事実は崇神天皇のミマこそ任那から出ているとみるべきであろう。

 ここでの議論の前提になっている「宮号で天皇を呼ぶ当時の習慣」なんて本当にあったのだろうか。まさか騎馬民族にそのような習慣があったと言ってるわけではないだろう。記紀に「宮号で天皇を呼ぶ」例があるかどうか調べてみた。

『古事記』では
①穴穂(安康)―石上の穴穂宮
②大長谷若建(雄略)―長谷の朝倉宮
③小長谷若雀(武烈)―長谷の列木宮
の三例があるが、これらは宮号が命名に使われているのではなく、むしろ生誕地を用いた命名だろう。生誕地を用いて命名する例は『日本書紀』にはかなりある。天智の葛城皇子もその一例だろう。上の②③でもしも宮号を用いるとしたら②「朝倉若建」・③「列木若雀」でなければなるまい。宮号は使われていないと考えてよいだろう。

『日本書紀』『続日本紀』では次のような言い方が現れる。
(孝徳紀)
磯城嶋宮御宇天皇(欽明)
訳語田宮御宇天皇(敏達)
小墾田宮御宇天皇(推古)
(持統紀)
難波宮治天下天皇(孝徳)
近江宮治天下天皇(天智)
(『続日本紀』和銅2年2月1日条)
淡海大津宮御宇天皇(天智)
後岡本宮御宇天皇(斉明)

 宮名が使われているが言うまでもなく「現世での呼び名」ではない。過去の天皇に対する尊称だ。

 江上氏の論文を始めて読んだが、江上氏にはこのような独断的な思い込みを論拠にする議論が目に付く。(私にもありそうなので自戒を込めての指摘です。)

 しかし、後段の「崇神天皇のミマこそ任那から出ている」という仮説は検討に値する。天皇名から地名が生まれるなどという議論は逆立ちした議論であり、地名が先に決まっているということは以前にも述べた。(例えば『「品部廃止の詔」をめぐって(9)』

 江上氏は崇神を任那に君臨していた騎馬民族出身の王と考えているので「王宮」にこだわっている。古田さんも「みまき」を任那にゆかりの倭語だと考えている。しかし、「き」は「いき(壱岐)」「たき(滝)」などの「き」であり、「みまき」は「任那の要害」と解釈をしている。

 前回の初期10代の和風諡号をもう一度見てみよう。4代から大倭という称号が始まるが、5代の孝昭だけ欠けていた。孝昭だけ無視されたのか。さにあらず。孝昭の和風諡号は「みまつひこかえしね((御真津日子訶恵志泥))」だ。この「みまつ」は、崇神の場合と同様、「任那の津」ではないだろうか。任那では周辺諸国に対応する防御施設が重要だが、交易の中心施設として津(港湾)も重要な拠点であったろう。

 ここで思い出したことがある。一昨年から昨年にかけて『鉄の王キム・スロ』という韓国歴史ドラマが放映された。興味深く視聴した。

 ドラマの設定時代は紀元1世紀の初めで舞台は朝鮮半島南部。前々回に掲載した地図の福泉洞古墳群と重なる地域である。(任那はその地図で「金官加耶・小加耶」と表記されている地域だと考えられる。なお地図では「加耶」と表記されているが、「伽耶」が正式の表記のようだ。)

 ドラマは主人公キム・スロの出生から伽耶の第一代王となるまでの物語である。伽耶の歴史については未だ不明なことが多いようだから、ドラマには多分のフィクションが含まれていると思われるが、ドラマが描く時代背景は正鵠を射ていると思った。その時代背景は次のようである。

 伽耶が国家としてまとまる以前、各部族が覇権をかけてさまざまな駆け引き・抗争を繰り広げていた。その駆け引き・抗争の中心になっていたのは製鉄技術の優劣と交易による経済力であった。伽耶地方の鉄は良質であったようで、交易には主に鉄があたかも貨幣のように使われている。このような時代背景を証言している史料がある。魏志韓伝である。次のように記録されている。

国に鉄を出す。韓・濊・倭・皆従いて之を取る。諸市買、皆以て鉄を用う。中国に銭を用うるが如し。又以て二郡に供給す。

 以上から次のように言ってもよいのではないだろうか。

 ヤマト王権は9代・開化までの政略結婚によって周辺の土着豪族を勢力圏に取り入れることに成功した。その勢力を認められて、孝安・孝霊・孝元は「本国」(九州王朝)から倭国の官位「大倭」を授与された。そして、5代孝昭は任那における交易の総監督官に、また10代崇神は任那の防御施設(城塞)の将軍に任命された。

 チョット横道へ。


 もう一つ、「伽耶→加耶」という文字使用で思い出したことがある。

 私は『弥呼』の出版を知ったとき、どうして『弥呼』ではないのか、という疑問を持った。同じように思った方がおいでかと思うので、ここで取り上げておこう。

 「ひみか」の魏志での初出は帝紀(斉王紀)の正始4年(243)の記事である。

冬十二月、倭国女王俾弥呼、使を遣わして奉献す。

 「俾弥呼」である。では倭人伝ではどうして「卑弥呼」なのか。

 「任那」の漢字表記の意味を取り上げたときに例として挙げた「倭→委」「高句驪→高句麗」と同じ、「俾」が本来の表記であり、「卑」は「俾」の省略形なのだった。
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