2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(32)

狗奴国の滅亡(13)
崇神記をめぐって(4)
「任那」問題(2):任那の読みと意味(1)


 倭人はいつ頃から文字(漢字)を知っていたのだろうか。 漢(武帝)が朝鮮半島(韓)に4郡を置いたのは紀元前108年。あるいはもっと早くかも知れないが、遅くともそのころには韓は漢字文化圏に組み入れられていた。倭はどうか。「後漢書」倭国伝の書き出しは次のようである。

倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり。

 倭からの使者はたぶん楽浪郡を通して朝貢したであろう。つまり倭も遅くとも紀元前1世紀頃には漢字文化圏の洗礼を受けていた。

 次の記録は紀元57年(建武中元2年 後漢光武帝)である。

建武中元二年、倭奴(いど)国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。

 そう、あの志賀島で出土した金印という証拠物まである。使者は「大夫」と称していたという。大夫は周の職名だ。倭語としてではなく、そのまま漢語として発音(たぶん「たいふ」あるいは「たいぶ」)していたことだろう。そして言うも愚か、倭の知識人たちは金印の文字「漢委奴国王」も読めたし、意味も分っていた。

 なお、大夫は「魏志」倭人伝でも使われている。魏からの詔書の中に「大夫難升米・次使都市牛利」とある。

 そして次の史料がその「魏志」倭人伝である。ここには倭国の人名・地名・職名がたくさん記録されている。それら(「大夫」以外)はすべて倭語である。

 ここで、3世紀頃の倭人たちは倭語を表記するのに漢字をどのように用いていたのだろうか、という問題が浮上する。古田さんによると3世紀にはすでに漢字を「音訓併用」で用いていたという。『俾弥呼』で詳しく論じられているが、ここでは詳しい論証は省いて一例を挙げておく。例えば「次使都市牛利」の「都市」は「といち」と読む。これは博多近くに「都市(といち)」を名乗る一族がいることから分ったという。古田さんは実際に都市さんを訪ねられて、その一族が松浦水軍の末裔であると論じている。

 私の次の関心は「倭人伝の音訓併用は現在のものと同じであろうか」という問題である。この問題についても『俾弥呼』に古田さんの論考がある。直接引用する。

 まず、倭人伝中に国名として使われている「邪馬」の読みについての議論を読んでおこう。

 「邪馬」を「ジャバ」とする〝訓み″の可能性があるけれど、これは「否(ノウ)」である。今、まともにこれを「南海のジャバ島」などと〝結びつけ″て論ずる人はいないであろう。なぜなら「ジャバ」では「日本語」にならず、地理的にも〝遠き″ に過ぎる上、倭人伝に列記する「三種の神器」や「絹と錦」の出土分布を(三世紀近辺の地層に)見ることがないからである。

 では、「ヤマ」と〝訓むべし″とした場合、どうなるか。ここにも「倭人伝の固有名詞と術語」解読の「基本のヒント」がふくまれているのだ。右の「ジャバ」の場合、いわゆる「漢音」である。北朝音である。これに対して「ヤマ」の場合、南朝音、いわゆる「呉音」系列なのである。

 「漢音」「呉音」が解読の「基本のヒント」だと言う。その詳しい解説が次のように行われている。

「周・漢・魏・西晋」系列の中国音は、西晋の滅亡(326)をもって断絶する。鮮卑が南下して洛陽・西安を征圧して「北魏」を建国したからである。  「北魏」 のもたらした〝鮮卑系の発音″が新たな天子や支配層の言語であり、被支配者層の「西晋以前」の中国音は、これと〝混合″せざるをえなかった。文字の「字形」においても、各種の変動が生じた。羅振玉の『碑別字』は、その時期の「新型、文字群」の研究である。

 ちょっと横道へ。
 ここで文字の「字形」の変動がどういうものなのか、どのくらいの変化を被るものなのか、興味がわいた。カミさんが書道をやっていて関係書をかなり持っているので探してもらった。例として『中国法書選21 龍門二十品〈下〉』から1ページを選んでみた。

北魏時代の書

崇・軌・無・美・幽・宋・仰などが異体字になっているが、特に軌・美・幽などは解説がなければ何の字なのか分らない。

 本道に戻ろう。

 当然ながら、「文字の発音」についても、一大変動がおこった。いわば「北朝音」だ。これを(北朝の)彼等は「漢音」と称した。「漢の正統を受け継ぐ」旨を〝偽称″もしくは〝擬称″したのである。 ― これがいわゆる「漢音」である。

 これに反し、「西晋以前」の、本来の中国音は、東晋に〝受け継がれ″た。建康(南京)を都とする「南朝」である。ここでは「西晋以前」の、本来の中国音が「支配者層の言語」であり、これと被支配者層としての「呉・越等の、現地音」とが〝混合″された。 ― これを「呉音」と称したのである。

 しかし、「漢音」「呉音」とも、いわゆる「大義名分上の〝造成の術語″」にすぎず、本来の「言語学上の表現」ではなかったから、今はあまり〝用い″られていない。

 しかし、ポイントは、次の一点である。
「倭人伝の漢字は、三世紀以前に伝来した文字と〝訓み″であるから、基本的には、右の『呉音』、より正しくは『南朝音』の方が妥当する。もっと厳密に言えば、〝妥当する可能性が高い″のである。」と。

 右の理路を、はからずも、今とりあげた「邪馬」が、「ジャバ(北朝音)」ではなく、「ヤマ(南朝音)」であることをしめす。その一事が〝証言″されていたのである。

 もちろん陳寿は、自分の死後まもなく(316)、西晋朝が滅亡し、黄河流域の洛陽や西安が〝鮮卑語なまり″の時代へと突入することなど、「予知」してはいなかったであろう。

 しかし、右の「邪馬(ヤマ)」という二字、その一言の表記は、わたしたち21世紀の後代人に、「倭人伝の〝訓み方″」をまさに「告知」してくれていたのである。

 楽しい話題を加えよう。日本列島は「冷凍庫」または「冷蔵庫」である。3世紀以前に渡来してきた「文字」と「訓み」が、今も〝腐らず″に保存されている島なのである。

 中国の大陸本土では、歴史とは王朝の交替だった。外来の異民族が、新たな征服者として、中国本土を支配した。先述の鮮卑以後も、モンゴル(元)や満州族(清)など、中国の「外」からの〝侵略″と〝征服″がくりかえされてきた。周知のところだ。あの「周」でさえ、シルクロ一ド上の一民族が、匈奴などの圧迫に耐えかねて、西安周辺への「亡命」を殷朝から許されて移り住んだ、異民族の一つだった。文字通り、周知のところだ。

 民族の移動と共に、国家も変転し、同時に「文字」も「訓み」も、変動しつづけて今日に至っているのである。

 しかし、日本はちがった。右のような「文字」や「訓み」の変動を〝よそに見て″、みずからは古く到来した「文字」とその「訓み」を守り、「保守」しつづけて今日に至っているのである。

 だから、あの新井白石が、わざわざ中国人(明・清)を呼んで、倭人伝などの〝訓み″を学んだ、というのは、彼ならではの「心くばり」だったけれど、実際は〝逆″なのである。十八世紀前後の江戸時代の中国人の「発音」で、倭人伝を訓むなどとは、〝とんでもない″手法、「方法上のあやまち」だったのである。

 わたしたちは、このような「島国の幸せ」のただなかに生まれた。そして三世紀の倭人伝に直面した。この島国に伝えられた「訓み」を無上の〝武器″として、この倭人伝の解読に取り組むとき、あの女王俾弥呼は、はじめて魅力あふれる素顔をわたしたちにありありと見せてくれはじめるのではあるまいか。

 被征服民族の文明・文化(特に言葉)は征服民族の文明・文化によって劇的なといってよいような変動をこうむる。4・5世紀の倭国にそのような変動は認められない。騎馬民族説が否定される決定的な根拠の一つである。
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