FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

7. 「非才、無才」が反逆する
 2004年8月21日


 「人間の遺伝情報が解析され、持って生まれた能力がわかる時代になってきました。これからの教育では、そのことを認めるかどうかが大切になってくる。僕はアクセプト(許容)せざるを得ないと思う。自分でどうにもならないものは、そこに神の存在を考えるしかない。その上で、人間のできることをやっていく必要があるんです。
 ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ。」
(斎藤貴男「機会不平等」より江崎玲於奈・教育改革国民会議座長の発言)

 江崎のこのナチス顔負けの選別思想には恐怖すら感じる。江崎はこのような思想をいつどのように身に付けたのだろうか。江崎のように安易に遺伝などどは言うまい。ましてや神のせいになどに出来るわけがない。難問にぶつかって、真正面から取り上げようとはせずに、神で解決しようとはあきれた物理学者だ。

 また「ノーベル賞を取った日本人は私を含めてたった五人しかいない。過去のやり方がおかしかった証拠ですよ。」とも述べて、選別・切り捨て教育の論拠としている。
 ノーベル賞受賞がよっぽど自慢のようだが、ノーベル賞がなんぼのもんじゃい。ノーベル賞受賞者が少ないことがそんなに憂慮することかね。
 物理学での功績と、人間抑圧に精を出している今の活動との足し算をすれば、江崎の人類への功罪は大きくマイナスのほうに振れているじゃないか。
 同じノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎は、私の知る限りでは、社会や人間に対する理解も深く、滋味溢れた人間性豊かな方々だった。選別思想や優生学的思想などこれっぽちも持っていなかったろうし、難問にぶつかって神にすがるようなこともしなかっただろう。江崎は両氏の爪の垢でも煎じて飲んだらよかろう。

 さて、「限りなくできない非才、無才」や「ある種の能力の備わっていない者」がいることは事実だ。三浦や江崎の価値観から見れば、私はそういう者の一人だし、私の人生を豊かにしてくれている私の家族や友人や生徒たちも私の仲間たちだ。

 人はだれも、その創造力や思考力や洞察力や精神力や感性や体力や運動能力や、総じて人間性をどのように獲得するのだろうか。それを遺伝せいにしてしまう単細胞的な思考力の持ち主はそうめったにいないだろう。
 人は母の胎内に宿ったときから、それぞれの家庭環境や経済状況など環界の制約の下で、さまざまな人や事件や思想や芸術や自然と出会いながら、相互に影響を受けたり与えたりして成長してくる。もちろんその人となりの根幹には遺伝が大きな要素の一つとしてあることは論を待たない。それら人生のすべての総和として人の今がある。人の能力を、学科が出来るとか出来ないとかいうたかが学校の成績に矮小化したとしても、それはその総和の結果なのだ。
 だから「限りなくできない非才、無才」や「ある種の能力の備わっていない者」がいる社会的矛盾はそういう者を切り捨てることでは解決出来ないし、それは非人間的行為として、やってはいけないのだ。

 江崎は生まれながらにして抑圧者なのか。私は生まれながらにして被抑圧者なのか。 たとえ江崎のような恵まれた才能を持っていても、私が抑圧者の側には立たないことは確かだ。
人類が落ちいてしまった陥穽・「支配ー被支配」とい矛盾を神のせいにして他者を切り捨てることで糊塗しようとせずに、矛盾の原因を現実の歴史の中で考え、自他をともに現実の中に置いて現実の矛盾の中にその解決の糸口を見出そうとするのも確かだ。
 抑圧者・被抑圧者がともどもに、抑圧-被抑圧の関係の矛盾(双方の非人間性)の真の克服(双方の人間性の回復)を課題とするような生き方に思いも及ばない三浦や江崎のような者の人生の「総和」には致命的
に欠けているものがあるのだ。

 「確かな思考、つまり、現実にかかわる思考は、孤立した象牙の塔のなかでではなく、交流のなかからだけ生まれる。」(パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」)

 彼らには、現実にかかわる確かな思考に必要な交流、とりわけ被抑圧者との人間的交流がたりなかった。彼らの精神は限りなく貧しい。

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック