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《続・「真説古代史」拾遺篇》(30)

狗奴国の滅亡(11)
崇神記をめぐって(2)
「任那」問題(1):「任那=狗邪韓國」


 「任那」問題では架空論を唱える韓国の学者がいたが、その論拠の一つであった広開土王碑改削説がくずれた。金石文の中に「任那」が刻まれているのだから架空論を維持できるわけがない。さらにまた、その後の考古学的発見もあって、今では架空論者はいなのではないだろうか。

 任那が実在した事を示す史料の代表として誰もが宋書倭国伝と広開土王碑を取り上げている。しかし、あまり知られていない史料がある。『翰苑』である。古田さんがそれを『邪馬壹国の論理』で取り上げているので紹介しておこう。

 太宰府天満宮に張楚金の『翰苑』第30巻が蔵されている。唐の顕慶5年(660)、つまり白村江の戦いの3年前に成立した本だ。だが、この倭国の項の研究は少ない。まして他の蕃夷(ばんい)の国々(14国)の記事には多くの貴重な史料が含まれているが、見すごされてきたようだ。

 たとえば、最近よく議論される「任那」問題。これを“まぼろしの存在”“架空の国名”であるかに見なす人々がある。しかし同書の新羅の項にその実在が次のように明記されている。

地、任那を惣(す)ぶ。〈雍公叡註〉今、新羅の耆老(きろう)に訊(き)くに、云う『加羅・任那は、昔新羅の為に滅ぼさる……』と。

 大方の論者は任那を朝鮮半島南西部(加羅あるいは伽倻)あたりに求めているようだが、具体的な位置やその実体については未だに議論百出で定説はないようだ。

 ところで、「任那」をネット検索していたら『「任那」について』という論文に出会った。ふんだんな史料を取り上げて論考を重ねていて任那関係の資料を知るのには大いに使える。しかし、残念なことにその論考はスタートで大きな間違いをしている。その後の論旨は、間違ったスタートの仮説に都合のよいように史料を取捨選択し、解釈するという方法が貫かれている。

 論文の最後にプロフィルが書かれている。論者は矢治一俊という方。過去の論考を紹介している。その中に
論考:『隋書俀国伝』の証明 市民の古代 第14集 1992
があった。「市民の古代」というのは「古田史学会」の前身の研究会と理解しているが、今はお一人で研究を進めておられるようだ。

 さて、矢治論文のスタートでの間違いは「崇神紀」の任那記事の誤読である。その結果、任那を対馬(氏自身は初めは壱岐を考えていたようだ)に比定している。私としては始めて出会う説だ。検討してみよう。「崇神紀」の記事は次の通りである。

六十五年秋七月に、任那國、蘇那曷叱知(そなかしち)を遣(まだ)して朝貢(みつぎたてまつ)らしむ。任那は、筑紫國を去ること二千餘里。北(きたのかた)、海を阻(へだ)てて鷄林(しらき)の西南に在り。

 これを矢治氏は
「任那は筑紫から二千里あまりのところにあり、北は海に阻まれ新羅の西南にある」
と解釈している。そして次のように述べている。

 任那は朝鮮半島内にはないことをほのめかしている。この「北阻海」の「北」を従来、日本の北のことに解釈してきたようであるが、原文をみれば「北阻海」の主語は「任那」であり、「阻海」は「任那」の「北」であることは明らかである。『日本書紀』全体をみても「任那」が朝鮮半島にあると明確に記述したものはない。となれば任那の位置を示すものは、『日本書紀』においては崇神天皇65年の記事しかなく、それによれば「任那」はどうみても朝鮮半島内には存在し得ないのである。先入観に侵されている日本の学者がそういっているだけなのかもしれないが、任那を朝鮮半島内の国としている『日本書紀』においてさえこのように書かれているのであり、ここには真実味がある。李炳銑氏は崇神天皇65年の「任那者去筑紫國、二千餘里」と、『魏志』倭人伝の「對海國」から「末盧国」までが二千余里であるという記事から、筑紫国から二千余里の任那は対馬だとするが、私も『日本書紀』の任那は基本的には対馬のことを指しているのではないか(日本列島内に複数あったのではないかとも考えられる)、という見方に傾きつつある。

 問題点は二つある。一つ目は、原文「北阻海以在鷄林之西南」を定説(〈大系〉)は「北、海を阻(へだ)てて」と読んでいるのに対して、矢治氏はこれを「北は海に阻(はば)まれ」と受身形で読んでいる。果してこれは妥当だろうかという問題。

 漢文では受身の表わし方は三通りある。
(1)
 「被」「見」「遇」「為」「所」(「為」「所」を組み合わせた「為 所」もある)などの下にある動詞に「らる」という受身助動詞をつけて受身に読む。
(2)
 「於」「乎」「于」(それらの組み合わせ)の下の語句に「らる」をつけて受身に読む。


 以上から「北阻海」を受け身で読むことはできないと言おうとしたがそうはいかなかった。厄介なことに

(3)
 意味上受身と取れるときには、受身形で読む。

という例外事項があるのだ。つまり文脈から判断しろと言う。やってみよう。

 「任那者去筑紫國二千余里。(A)北阻海以(B)在鷄林之西南」の矢治氏の解釈は「任那は筑紫から二千里あまりのところにあり、北は海に阻まれ新羅の西南にある」だった。(A)の主語も任那だという解釈である。任那の北は海なのだから任那が朝鮮半島内にあるわけがないという理屈だ。これを根拠として「任那=対馬」という説を提示している。これは(B)を全く無視した解釈だ。対馬は新羅(鷄林)の西南にはない。ほとんど真南である。西南方向にあるのは済州島・上海だ。

 一定の地点からある地点までの位置を示すには距離と方向が必要だ。どちらが欠けても意味をなさない。数学用語を用いれば極座標である。原点oからの距離rとx軸の正の方向とのなす角θを用いて点P(r,θ)を表す。今の場合、原点oは「筑紫」、x軸の正の方向は「東方」で点P(任那)は(二千余里,北)と書かれているのだ。任那が主語として係っているのは(B)だけである。(A)は定説通り「北、海を阻(へだ)てて」が正しい。

 もう一つの問題点は「二千余里」の扱いである。魏志倭人伝では「對海國」から「末盧国」までが二千余里とあるから、筑紫国から二千余里の地点は対馬だと矢治氏(あるいは李炳銑氏)は論じている。これも粗雑な議論だ。

 「崇神紀」の二千余里は極座標の距離で直線距離である。それに対して魏志倭人伝の二千余里は古田さんが論証したように周旋距離の和なのだ。詳しくは『「邪馬台国」論争は終わっている。(5)』 をご覧いただくとして、ここでは里程イメージ図だけを転載しておく。

周旋図

 もう一つ、矢治氏(あるいは李炳銑氏)が全く取り上げていない重要事項がある。二千余里という距離である。全く何の検討もせずに「筑紫―対馬」間を二千余里として、これが現在の単位でいうとどれくらいの距離なのかまったく検討していない。たぶんお二人は長里を念頭に置いていて困っているのではないだろうか。だからあえて詳論しようとしない。

 この問題の解はこうだ。古田さんの論証にあるように倭人伝は短里を用いている。そして、何と崇神紀の二千余里も短里なのだった。約150㎞である。地図上でコンパス測定をしたら、倭人伝に出てくる地名で言うと、ちょうど狗邪韓国辺りに指している。長里(短里の6倍)だと高句麗の北の国境辺りになってしまう。

 狗邪韓国は原点oを新羅(鷄林)としたときの「θ=西南」とピッタリ一致する。距離rが書かれていないのは新羅の隣接地(r≒0)だからだ。「任那=狗邪韓國」だった。

 『日本書紀』の編纂者(720年頃の知識人)は唐時代の長里を用いていただろう。矢治氏(あるいは李炳銑氏)と同様に「二千余里」の検討などしないで、短里を使って記録されていた九州王朝の記録をそのまま盗用したのだった。

矢治氏(あるいは李炳銑氏)は「井の中」の住人ではないが、古田史学を無視している点では同類である。「任那=対馬」説は古田史学無視が起こす悲喜劇の一つである。
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この記事へのコメント
「狗邪韓国」の読み
「狗邪韓国」の読みは、
「狗邪・伽耶(かや)韓国(からくに)」
2011/12/02(金) 04:10 | URL | 銀河+秋彩 #3Rrase9Q[ 編集]
「五彩圏連邦」
「五彩圏連邦」は、《加治木義博説》ですが、私も支持しています。
「五彩圏連邦(首長国は、君臨家・臺国。統治家・百済、新羅、倭国、高句麗)」
「●皇統君臨家・臺国・蘇我大王家(秋)」
「▲統治家・倭国鳩派物部氏(夏)」&「▼統治家・高句麗・鷹派物部氏(夏)」
親・臺国「◆百済・巨勢(こせ)藤原(鎌足)氏(冬)」
親・臺国「■新羅・大伴氏隼人(春)」

「白村江(はくすきのえ)の戦い」は、合併していた大倭国(君臨家・臺国+統治家・倭国)を、
「新羅王・武烈(唐の百濟鎮將・劉仁願)」が、日本国(奴国・平城)天智天皇(春)として、統治。
=【外来征服王朝・天智系(春)天智天皇(中大兄皇子)】に依る、
【(君臨家●蘇我大王家・秋はそのままに)統治家を、▲物部氏(夏)から、■新羅大伴氏(春)への王統の変更】でした。

「高句麗の大臣・淵蓋蘇文(ユンゲ・ソムン)」=「倭王・多利思比孤」・【大海人皇子】が、
隋を滅亡に追い込み、倭国の皇極太上天皇(母)を暗殺し、乗っ取りも画策したので、
新羅王・武烈が、唐や臺国の舒明天皇(藤原鎌足)と組んで、
「白村江(はくすきのえ)の戦い」へと突入した。極東アジアの一大決戦。

唐の百濟鎮將・劉仁願(新羅王武烈)が勝利し、
【外来征服王朝・天智天皇・中大兄皇子(春)】に。
。。基肄城(天智天皇の都)跡
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo85.htm

「白村江(はくすきのえ)の戦い」は、臺国の舒明天皇(藤原鎌足)&百済と組んでいたので、
舒明の娘・推古太上天皇(額田王)にも、お咎め無し。

大倭国の君臨者・推古太上天皇(弘文天皇后)は、お咎め無しも、
(大国)倭国を併合した(小国)日本国の君臨者・推古太上天皇は、実権も無し。
統治家の天智系(春)が実権を有していた。但し、百済は新羅が没収。、

そこで、「秋山吾は」の額田王(推古天皇)の嘆き・【私こそ、大倭国(&日本国)の君臨者なのに】。

推古は、大海人皇子と天智三男・高市皇子(大伴金村)と組んで、
「壬申の乱」に。
大海人皇子は、高市皇子軍を率いて、「瀬田(勢田)橋」で、弘文天皇と交戦し勝利。
。。 【外来征服王朝・天武(高句麗の大臣・泉蓋蘇文)】
=▼天武天皇の都・(九州)吉野 祖廟 狗奴国(旧奴国)
http://www.geocities.jp/hidesxima/_tS7ua5O.htm
上から四段目左端に「瀬田(勢田)橋」の写真。

元百済の地・任那を大伴金村(天智三男・高市皇子)から、没収。
以後、前方後円墳が築造される。

人麻呂(大津皇子)は、唐では【粟田真人(遣唐大使より上位の、遣唐執節使)や
憶良や釈・智蔵&弁正&道慈&道融『懐風藻』
=行基として活躍している(のちに沙弥勝満・聖武太上天皇)】。
=「用途別の別名の同一人物・小弁(弁正の倒語・とうご)」は、
昔の縁・【唐の百濟鎮將・劉仁願(新羅王武烈)の孫】で以って、
皇太子(玄宗)と囲碁をし、勝ちそうになったので、傍で見ていた楊貴妃は、仔犬を盤上に落とし、
皇太子(玄宗)の負けを判らなくした。『懐風藻』に記載あり。

玄宗と行基はこのような囲碁友達なので、唐の官吏は、「倭国と日本国の違いが判らなかった」が、
皇太子の玄宗(李・降基)は、良く理解していた。

西暦701年に日本から、唐へ渡り、帰日は、西暦718年。
人麻呂渡唐時のこの間が「倭歌衰退期間」である。
また、行基はこの間、唐から天竺(インド)へ行って帰っている。

『拾遺和歌集』に、釈迦牟尼の墓前で、菩提僊那と「兄弟の契りを交わした」と在る。
のちに、来日した菩提僊那を、行基・聖武天皇は難波に行幸し、出迎えている。
菩提僊那は、「大仏開眼」の筆を執った事でも、有名。

南天竺より東大寺供養にあひに、菩提が渚に来着きたりける時、【行基・聖武天皇が】詠める
霊山の釈迦の御前契りてし真如朽ちせずあひ見つるかな 1348『拾遺和歌集』
返し 婆羅門僧正【菩提僊那=大仏殿に向かって右入り口横の、びんつる長者】
迦毘羅衛(かぴらゑ)に共に契りしかひありて文殊の御顔あひ見つるかな 1349

わが国の基(もとい)行ひし塵泥(ちりひぢ)を聖武(すめら)とぞ知る歌聖とぞ知る
。。銀河 秋彩

ロシアは、北方領土の、中国は、ウィグルやチベットの、泥棒国家である。
それにも増して、尖閣諸島をも、狙っている。
「高句麗」は、【倭国(皇極太上天皇は、同時に高句麗王)の属国】だった。
2011/12/02(金) 04:27 | URL | 銀河+秋彩 #3Rrase9Q[ 編集]
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