2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《続・「真説古代史」拾遺篇》(29)

狗奴国の滅亡(10)
崇神記をめぐって(1)
「二人のハツクニシラス」論


 いよいよ本テーマにに入ります。

 狗奴国を滅亡に追い込んだのは崇神と垂仁だ。その戦いのあらましは『ヤマト王権の近畿侵略史』の中で次のような表題で取り上げている。

「イワレヒコから第九代まで」
「木津川の決戦」
「沙本城の戦い(1)」「沙本城の戦い(2)」「沙本城の戦い(3)」

 これらの記事の内容を既知のこととして議論を進めることにする。つまり今回は上記の記事の補充ということになる。その時に割愛した(あるいは見過ごしていた)重要事項を取り上げたい。

 「井の中」で神武架空説が頑迷に繰り返される大きな理由の一つが「二人のハツクニシラス」である。騎馬民族説もこれを重要な根拠の一つとしている。次のような理路である。

 「ハツクニシラススメラミコト」という称号で呼ばれている天皇は神武と崇神と二人いる。「ハツクニシラス」とは第一代という意味であり、第一代天皇が二人いるはずがない。真の第一代は崇神であり、神武~開化までの天皇は「万世一系」を偽装するために造作された架空の人物である。

 実は『古事記』には「ハツクニシラス」という表記はない。それに当たる表記は次の即位記事である。

畝火の白檮原宮に坐しまして、天の下治らしめしき。
(原文:坐畝火之白檮原宮、治天下也。)


 言うまでもなく「治天下」は「ハツクニシラス」とは読めない。崇神の場合は所知初国天皇で確かに「ハツクニシラス」である。つまり『古事記』では「ハツクニシラス」は一人だけでということになる。

 『日本書紀』では次のようになる。

天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。……始馭天下之天皇を神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。

 『日本書紀』の崇神は御肇国天皇である。崇神の場合はどちらも「ハツクニシラス」と読むことに違和はない。しかし、神武の「始馭天下」をも「ハツクニシラス」と読むのは理にかなっているのだろうか。

 まず、「初国(あるいは肇国)」と「天下」では意味が異なる。前者は文字通り「最初の国」だ。(とりあえず常識的な意味にしておくが、これは「建国」という意ではない。後ほど修正することになる。)

 後者については『「天の下」とは何か。』で論証した。結論だけ述べると、記紀では「九州近辺から近畿へ」来ることを「天降る」と言い、その「天降った」先が「天の下」である。つまり「始馭天下」とは「はじめて天下った先を統治する」という意である。

 古田さんは「始馭天下」を「ハツクニシラス」と読むこと「否」としている。『ここに古代王朝ありき』第三部・第二章「銅鐸圏の滅亡」から引用する。

 これ(始馭天下)は、ちょっと「ハックニシラス」とは読みにくい。そこで古写本をしらべてみた。奈良・平安・鎌倉と下ってきても、ハックニシラスという振仮名は見つけられない。16世紀室町時代(北野本・卜部兼右本)に至って、はじめてあらわれる。すなわち、これは室町期の学者の認識をあらわす読みだ。これを『書紀』原本のものと速断できない。それに肝心なこと、『書紀』 は本来漢文で書かれており、振仮名は後世のものだ。だから〝いきなり振仮名で勝負する″のは、史料批判上、危険なのだ。

 『書紀』の本文(始馭天下)は、「ハジメテアメノシタニシロシメス」とは読めても、「ハツクニシラス」とは読めない。崇神については和訓に近い表記があった『古事記』にも、ここでは全くその痕跡がない。すなわち二書とも神武については、「ハックニシラス」の称号がある、とは言えないのである。これはどうしたことだろう。

 続いて古田さんは崇神の「初国」も決して「建国」の意ではないと述べている。

 この問題の回答は、「ハツクニ」の語義にある。「初国(ハツクニ)」に対する反対語は「本国(モトクニ)」だ(仁徳記・顕宗記等)。後者は〝本来の故国″の意。前者は〝新たに統治した国″の義だ。いわば新占領地である(用例は『盗まれた神話』参照)。

 とすると、崇神については明白に「ハツクニシラス」と書いてあったのも、もっともだ。崇神ははじめて銅鐸圏の大和包囲網を突破し、新占領地を東方に、北方に、さらに山城・河内へとひろげ、はじめて大和を「孤立の地」でなく、「近畿の中枢地」とした、そういう拡大圏の支配地としては、まさに〝初代″だったからである。

 以上のように、津田左右吉によって示唆され、肥後和男によって明確化され(のち、肥後は撤回)、井上光貞・直木孝次郎等によって「定説」化された、この 「二人のハックニシラス論」の、よって立つ史料批判的基礎は、あまりにも薄弱だったのである。

 崇神の遠征については「木津川の決戦」をご覧いただくとして、ここでは『ここに古代王朝ありき』に掲載されている「崇神の遠征図」を転載しておく。

崇神の遠征図

 「モトクニ・ハツクニ」については『盗まれた神話』参照とあるので、該当部分を引用しておこう。

(A)
凡そ佗国(あだしくに)の人は、産む時に臨みては、本国の形を以て産生す。故、妾(あれ)今、本身を以て産を為す。(海幸・山幸説話、豊玉毘売)
(B)
然(しか)るに其の大后の嫉みを畏(おそ)れ、本国に逃げ下る。(仁徳記、黒目売)
(C)
僕(あ)は甚だ耆老(おい)たり。本国に退らんと欲す。(顕宗記、置目の老媼)


 右の「本国」とは、それぞれ(A)海神の国、(B)吉備の国、(C)淡海の国を指す。代々住みついている故国のことである。

 さて、崇神段階の近畿天皇家にとって、「本国」といえば、どこだろう。当然、この時点では「大和の国」である。神武→開化の九代は、この大和の一角に割拠していた。ところが、第十代の崇神に至って、〝大和の外への侵略″が開始された。「東方十二道」への征服軍の派遣がこれである。そのとき、高志(越)の国へ派遣された大毘古(おおひこ)命と、東方経由で派遣されたその子建沼河別と、この二大征服軍の父子が相津(福島県)で出逢った、という逸話が記されている。この逸話の直後、つぎの文があらわれる。

是を以て各遣はされし国の政を和(やわ)らぎ平げて覆奏す。爾(かれ)、天下太平、人民富栄。是に於で初めて男の弓端(ゆはず)の調(みつぎ)、女の手末(たなすえ)の調を貢(たてまつ)らしむ。故(かれ)、其の御世を称して、初国(はつくは)を知らしし御真木(みまき)の天皇(すめらみこと)と謂ふなり。(崇神記)

 右によって、「初国統治しという称号は、〝新しい東方征服″に関連している、とされている。つまり、「本国」なる「大和の国」に対して、「東方十二道」の〝新征服地″が「初国」なのである。だから、この称号は〝新しい征服地を統治する天皇″という意味だ。すなわち、「建国第一代」などとは、とんでもない。祭神以前ながらく本国内だけ統治していた時期の天皇たち(第一~九代)と区別した称号、いいかえれば、前九代の存在を前提にしてつけられた称号である。だから、あえていえば、この称号は 〝崇神が「建国第一代」とは考えられていない″という事実の証明には使えても、断じてその逆ではない。

 たとえば、例の高句麗の好太王。彼は「国岡上広開土境平安好太王」と呼ばれた。新しく〝征服地を拡大した″ことをたたえたのである。だからといって、この称号をもとに、彼が高句麗建国第一代の王である証拠だ、などといっても、だれも承服すまい。ところが、今までの「崇神=第一代」論者は.これに類した論法を駆使してきたのであった。

 「神武~開化」架空説という誤謬で曇った目では決して見えない真実が明らかにされている。論理的に解明される史料事実は全て「神武~開化」架空説を否定している。

 なお「相津(福島県)」について一言。
 「東方十二道」として本居宣長は「伊勢・尾張・参河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥」を挙げているそうだが、崇神の時代に陸奥国まで遠征したなど、私にはとても受け入れることができない。『「東国」問題(2)』で調べたことを再録する。

 『日本書紀』では陸奥は「陸奥の蝦夷」という表記で現れている。『続日本紀』を見ると、697(文武元)年10月19日と698(文武2)年10月23日に陸奥からの貢献記事があるが、そこでは「陸奥の蝦夷」と『日本書紀』と同じ表記になっている。「陸奥国」という表記の初出は702(大宝2)4月15日条である。

 陸奥国が日本国に帰属したのは7世紀のことである。建沼河別が派遣された地域は『古事記』では「東方十二道」となっているが、『日本書紀』では「東海」であり、相津の地名説話はない。この場合は『日本書紀』の方が真実を伝えていると思われる。「東海」とはせいぜい「伊勢・尾張・参河・遠江・駿河」ぐらいであろう。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1698-e701d6a5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック